HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-8 Vol.8 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-8
- VOL.8
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-8
いろんな番組が帝銀事件を採り上げるとき、必ず登場するのが平沢死刑囚の養子になった平沢武彦さんである。わたしが担当したTBS『THE・プレゼンター』(昭和怪犯罪史)の中でも、印象的な場面で、インタビューに答えてもらっている。しかし、わたしは、このときも本人には一度も会っていなかった。放送作家、構成作家、とは、そういうもので、基本的に現場とは距離が置かれ、とくにドキュメンタリーなどでは単なるナレーションを書くだけの存在と思ってもらって間違いない。それだけの理由ではないが、いま、わたしが収入が激減していても小型のビデオ・カメラを手に現場取材にこだわるのは、どうしても普通に当たり前のようにナレーションが書けなくなったことと、現場に立ちたいという強い思いが両方混在してあるからである。
この平沢武彦さんとはある人の紹介で会うこととなる。それは彼が元・NHKディレクターの片島紀男さん(いまは故人)と共著で、帝銀事件の死刑囚・平沢貞通の画業に焦点を当てた著書『国家に殺された画家』を出版したときのことである。両国のホテルで開催された出版記念会に出席する機会が得られ、そのとき、会場でわたしの方から声をかけたのである。
それが2007年のことである。その年、わたしはTBS『報道特集』で、戦艦大和の幻のフィルム、という企画を提案し、南洋のソロモン諸島にあるブーゲンビル島を取材。終戦特番として、高い評価を受けていた。その勢いを駆って、第二弾として提案したのが、帝銀事件であった。企画が通り、わたしは平沢貞通の故郷、小樽を、武彦さんをリポーターにして取材した。番組は、その年の年末に放送され、これも評価はかなり高かった。
以来、武彦さんとは、プライベートでもしょっちゅう会うようになった。お酒が好きで、ヘビーいや、チェーン・スモーカーで、わたしが会っている頃は、生活はかなり荒れた感じではあった。NHKの片島さんが「平沢貞通氏を救う会」の事務局長で、その頃は、毎月のように偶然だが、わたしの母校・立教大学で弁護団会議が行われ、わたしもそこに参加することが許されていた。
わたしは立教大学の法学部を、ある事情から中退したが、なんと1年生のときのプロゼミ「基礎文献講読」の指導教官が少年法の研究で知られる荒木伸怡(のぶよし)教授。実は、その荒木先生が帝銀事件の再審弁護団の一人であったのだ。こんな形で再会するとは思ってもいなかった。しかし、弁護団を始め、救う会の誰もが武彦さんに対して、常によそよそしい態度をとっているのが、わたしは気になって仕方がなかった。
帝銀事件の番組はNHKの片島さんが2000年に『ETV特集』で採り上げて以来、わたしのTBS『報道特集』が何年か振りで、それをやった原渕というディレクターを武彦さんが連れて来たが、どこの馬の骨ともわからない男に興味はないといった感じで、毎回、弁護団会議のあとで池袋の居酒屋で親睦会がおこなわれるが、気づくと、わたしと武彦さんだけが孤立している雰囲気であった。
それは、わたし、に、というよりも、武彦さん、に対する複雑な思いが、弁護団にも救う会のメンバーにもあったことがのちにわかるのであるが。……
『国家に殺された画家 帝銀事件・平沢貞通の運命』
片島紀男・平沢貞通共著
新風舎文庫
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など