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白洋舎五十年史

COLUMN「白洋舎五十年史」

VOL.8
小川 真理生さん

ここでは、「白洋舎」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第8回 「白洋舎五十年史」

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「白洋舎五十年年史」において、戦後の歩みについては、「ふたたびの昔日の隆盛へ」ということで、「復興――戦後の再出発」の小見出しの文章で記録している。

「大東亜戦争に突入して以来の白洋舎は、本業よりも副業に走った低迷時代であった。それでも人的困難、資材の不足をよく克服して、社名を保持し得たのは、要するに過去三十余年に築き上げた会社の信用の賜ものに外ならない。
 しかしながら白洋舎のこうむった戦災は、決して小さなものではなかった。工場の中で罹災したのは、東京の多摩川、渋谷、横浜、岡野町、尼ヶ崎、静岡の六工場、営業所十九ヶ所そのほかに強制疎開その他により廃止を余儀なくされた営業所は十五ヶ所にのぼり、多数の営業網は全滅状態であった。
 焼失による建物の損失約二十四万七千円、構築物約九千九百円、機械及び什器約二十万八千円、原料材料は十一万二千円に上った。
 戦災をまぬかれたのは大阪、名古屋、札幌、仙台、福岡の五工場であるが、これとても空襲激化、資材不足のため、作業は低下の状態であった。
 終戦後白洋舎は当然民需専門の工場に復帰しようとして、いろいろ画策中のところ、思いがけなく進駐軍の洗濯業務をあたえられることになった。
 昭和二十年九月五日米軍主力が厚木に進駐したその翌日、早朝七時に外務省嘱託厚木基地通訳永谷義一氏が、五十嵐専務宅に来訪され、厚木に同行を求められた。日本軍部の米軍に対する悪宣伝の後であるから、専務もいくらか不安の念にかられて同行したのであるが、基地につくと、米軍の一少佐が面会し、二週間以内に厚木に洗濯工場を設置するよう、命令されたのであった。
 米軍の援助をうけて、永谷義一氏、当社の浅田近之助、中村光喜、小川徳光等の努力により、厚木工場は設置され、ただちに作業は開始されたのである。
 以後北は札幌から南は福岡まで、各工場とも進駐軍工場のP・D(物資調達要求)を受け、米軍の仕事をすることになり、予想外に多忙な業態となった。
 そしてこれによって、新しいアメリカ式の洗濯工場の管理法を教えられたことは、白洋舎として大きなプラスであった。
 めざましい復興 昭和二十年九月、米軍より工場設置の指令をうけるや、白洋舎はただちに厚木の兵舎内に、仮の設備をして、仕事に着手した。
 十月には早くも焼けた多摩川工場が復興し、また京都支店を設置した。十一月には厚木工場設置、十二月には渋谷工場と静岡工場が復興した。
 この渋谷工場の復興には、つぎのような事情があったのである。アメリカ騎兵第一師団が先遣部隊として、代々木練兵場に進駐したとき、五十嵐専務は時の東京警備司令野地宗助氏に呼び出され、第一騎兵師団司令部に同行したのであるが、そのときも二週間以内に、ドライ・クリーニングとランドリーと両工場設立の命令をうけたのであった。
 米軍の斡旋によって必要な材料を集め、早速建築にかかった。当時は一面の焼野原で、渋谷の工場から東横デパートが丸みえであり、代々木八幡までは何一つ建物はなかった。そのとき白洋舎は、いち早く七十坪の建物を建てたのである。そして罹災した静岡支店の高橋支店長によって、作業開始されたのであった。東京の罹災同業者中の、最初の復興であった。
 つづいて泉屋堺工場、湘南支店設置と、めざましい復興ぶりを示し、昭和二十三年には本支店合せて十ヶ所、工場十三ヶ所、作業所十ヶ所、営業所十八ヶ所、代理店二十二ヶ所となった。
 しかしながら戦後の白洋舎は、新規開業同様であった。戦時中は染色工場であり、縫製工場でもあった。しかも主な工場は罹災して、洗濯業は休業状態をつづけていたのである。本業に立ちかえっての再出発にあたっては、終戦後の資材不足、人材不足、得意を失って、数々の苦難を伴った。しかし震災のときもそうであったように、この度もまた万難を排し、力強く立ち上ったのであった。
 このように当人ではとうてい堪え得ない大きな試練にたえ、白洋舎の事業が再興できたのは、一つに祈りに応えて「我を強くし給う者によりて、凡ての事をなし得るなり」の聖言のとおり、一人々々を強め給うた神さまの御恩寵によるものと、感謝する次第である。
 戦時中大日本洗濯科学協会に移管されていた化学研究所も、戦後白洋舎に帰り、再出発した。
 昭和二十一年の三月十四日は、白洋舎の創立四十周年にあたる。記念式は渋谷の新築工場で、平和のよろこびの中に行われた。
 戦前社内のPR運動の一助として、昭和十六年一月から、白洋舎内報が発行されていた。おもに社内の業務連絡機関誌としての性格のもので、毎月発行されていたが、終戦の直前十九年の三月で、廃刊を余儀なくされた。これも終戦後昭和二十一年五月から再刊することになり、代々木上原の社長宅の一隅の事務所で、編集がはじめられた。それ以来毎号かかすことなく、発行されている。前社長はこの内報に、興味深い手記「白洋舎の思い出」を毎号執筆した。
 資材配給と業界統制の全権をにぎっていた洗染統制組合も解散になり、これより業界は自由をとりもどし、新しく開業するものも多くなった。
 昭和二十一年度は、白洋舎の全国十工場中、札幌は進駐軍直営工場、多摩川、厚木、大阪は監督工場、渋谷、静岡、名古屋、京都、仙台、福岡は利用工場となった。進駐軍用洗濯は注文量は大きいが、進駐人員の減少や、部隊の移動などのために、注文量の激変があるので、経営には苦心があった。それと各工場とも盗難が多く、意外の損失をこうむることもたびたびであった。
 大阪工場では接収中、おこりがちな風紀問題もおこらず、進駐軍側と円満に仕事をはこぶことができたが、これは全く関西学院教授河邊満甕、順子ご夫妻の尽力によるもので、女工員の指導、進駐軍側との応接よろしきを得たためであった。
 白洋舎は戦災による損失が大きかったため、二十一年夏、会社経理応急処置法により、特別経理会社の指定をうけたが、申請書を提出し、まもなく解除になった。
会社はひきつづき多量の軍需をひきうけていたが、なお民需振興にもつとめ、一部工場では民需も取り扱い、日本人のための洗濯工場の新使命に向って、再スタートした。方針としては軍民半々であるが、二十二年ごろまでは軍需八、民需二の割合であった」

 

 社史ではないが、白洋舎について、『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(秋尾沙戸子著、新潮文庫)も詳しく記しているが、その一端を紹介しておこう。
「白洋舎は米軍の信頼を勝ち取るために、ポケットの小銭を取り出し、保管して返すことを徹底した。ひとつの工場で一ヶ月に〈現金が百七十件、三万三千円。ハンカチが百六十四、靴べら四十八個、鍵二十八個、指輪二つ、手形五枚〉がポケットに入っていたという記録が残っている。すべて洗濯前に点検し、袋に入れて返した。十万点も扱っているのに一点も紛失していないと、昭和二十二年、白洋舎には米軍から賞賛と感謝の手紙が届いている。/工場の接収は昭和二十四年三月まで続いたが、それとは別に、白洋舎は個人客を相手に店頭での受付や宅配の仕事も始めていた。昭和二十二年、目の前に完成したワシントンハイツで暮らす住人も、その対象となった。品物の受け渡しのために、白洋舎のオート三輪がワシントンハイツの家をまわった。高齢になっても、そこで暮らしたアメリカ人たちは『白洋舎』の名前をしっかり記憶している」

 

(「白洋舎」の巻おわり)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー