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後楽園スタヂアム50年史

COLUMN「後楽園スタヂアム50年史」-2

VOL.7
小川 真理生さん

ここでは、「後楽園スタヂアム50年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第7回 「後楽園スタヂアム50年史」(2)

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後楽園の社史は、つづいて「プロ野球の復興と後楽園」の編となり、「進駐軍による接収」から始まる。

「無残な球場
 昭和20年(1945)8月15日の終戦とともに、平和がもどってきた。だが、あまりにも無残な戦いの後で、東京は見渡す限りの焼け野原であった。当社球場も例外ではなかった。グラウンドは野菜畑で、スタンド下の兵舎から兵隊たちは復員していったが、そのあとは文字どおり台風一過の惨憺たるものだった。
 やがて当社球場は、敗戦日本軍の兵器の集積場にされた。各地から機関銃やこうしゃほうなどが集められ、グラウンドの畑の周囲にうず高く積み上げられた。進駐軍に引き渡すためである。
 こうしたなかで、プロ野球再建の動きがようやく活発になろうとしていた。終戦間もない頃から一部の有力者によって再建への熱意が結集されていった。具体的には、20年11月6、7の両日、日本野球連盟事務局で、巨人・阪神・阪急・産業(名古屋の改名)・朝日・近畿日本(南海の改称)の全体理事会が開催され、連盟の民主化にともなう選手の待遇問題や食糧問題、日本野球連盟の復活のため当社球場を確保しておく必要性などにつき討議した。
 というのは、当社球場に対して、進駐軍による接収の動きがあったからである。野球はアメリカの国技である。連合軍最高司令部(GHQ)当局には娯楽を与えるために当社球場を接収したいという考えがあった。

 

進駐軍の球場さがし
 のちに日本野球連盟の副会長となった鈴木惣太郎の解雇によると、進駐軍による球場さがしは、次のようなものだった。
 アメリカ第8軍のスペシャル・サービス(兵士に娯楽を与えることを担当する機関)から鈴木のところにひんぱんに連絡があり、昭和20年9月26日呼び出された。アメリカ軍の娯楽機関として、日本の適当な球場を接収したい、どこがいいか、という相談である。こちらもプロ野球を復興させようとしているときだから、鈴木も困った。
 10月3日、アーサー大尉が通訳をつれて鈴木の家にやってきて、これからジープで球場を見てまわろうという。第8軍は横浜の開港記念館に本部をおいていた。アーサー大尉はまずGHQへ行き、ここでどうやら、東京の球場を第8軍で接収してもよい、という許可を得たようだった。そして、一番に神宮球場へ行った。ここは第8軍のスペシャル・サービスの配下にあるネルソン中尉によって球場が整備されていた。次に後楽園を視察した。
「びっくりしたね。私は、19年9月の野球の最後の日以来、初めて来たのだが、球場は全部畑になっている。芋・大根・里芋などが、大きな葉をつけてよく実っていた。畑のまわりには、機関銃やら高射砲やらが並べてある。兵舎のあとは殺風景だった」
 ところがアーサー大尉は「ここを接収しようと思うが、どうだろう」といいだした。鈴木はそれだけは承服できないと思い、後楽園が、プロ野球のために粒々辛苦して球場をもちこたえてきた歴史を語った。
 その後、鈴木はスペシャル・サービスのモントゴメリー少佐に会って大体の了承を得、さらにスペシャル・サービスの総大将であるウイルソン大佐にも会った。
 ところが、そこに思わぬ大敵が現われた。松本滝蔵(のち代議士)が学生野球にたのまれてウイルソン大佐に会いにきていたのである。「神宮球場の接収を解除してほしい、もしいけないなら、後楽園を使えるようにしてくれ」という。
 鈴木は松本を前にして、「プロ野球はいま日本にとって最も重要な意義をもっている。敗戦によって国民は虚脱した気分になっている。これを救うのは、健全なスポーツを与えること、それにはプロ野球以外にない」と力説した。ウイルソン大佐は、「日本はこんなに食糧事情が窮迫しているのに、野球なんかやれるのか、見物人はくるのか」という。ウソも方便だと思って、「選手は百姓をやって自給自足しながら、午後野球をする。日本の見物人は野球が飯より好きだ」と鈴木は答えた。すると感動して、「じゃ、後楽園を君の方に使わせよう」ということになった。
 こうして一難は去ったが、畑になったグラウンドをプレイできるようにするためには、多数の労力が要る。その労力がない。そこでスペシャル・サービスに依頼して、東京の第1騎兵師団からブルドーザーなどの機械力を借り、野球場を整備した。

 

接収・解除の曲折
 整備にあたってくれたのは、スイーニー大尉だった。ところが昭和20年11月14日、突然、第1騎兵師団が球場の接収を指令してきた。
 当社では第8軍のウイルソン大佐から、接収しない旨の了解を得ているので、スペシャル・サービスのモントゴメリー少佐に、正式に当社球場を接収しないでほしい旨の申請書を提出した。これが12月28日のことである。
 翌21年1月に日本野球連盟理事会が開催されて、会長に鈴木竜二、副会長に鈴木惣太郎が選任され、正副会長は就任と同時に東京・大阪・名古屋その他の都市にプロ野球場を確保するため、接収解除などあらゆる努力を傾けた。
 当社球場の接収解除については、再三、陳情書や嘆願書を提出したかいあって、21年2月6日に解除された。進駐軍の接収とはいっても、野球場の前にキャンプを張って、そこから見張りをする程度で、スタンド下の事務所などには手を付けなかった。全面的な日本軍の接収とは雲泥の差であった。
 日本野球連盟では、当社球場と西宮球場の全面開放にともない、1年制によるプロ野球の日程を編成し、第8軍スペシャル・サービス本部の認可を得て、4月27日から開幕した。ところが6月10日、今度は空軍部隊から東京のスペシャル・サービスを通して「後楽園野球場を毎週火曜日と木曜日ならびに7月6日・7日使用する、時間は9時から17時まで」との接収命令が出た。
 連盟は再度解除の陳情書を出し、当社でも再三東京都連絡局に出頭して、抗議と接収反対を陳情した結果、接収は解除された。当社の場合でも西宮球場の場合でも、騎兵師団が手を引けば次は空軍部隊というふうに、繰り返し違った部隊から接収命令が出る。それをこちらも繰り返し第8軍のスペシャル・サービスに裏書きしてもらって断るといった事態がつづいた」

 こうして、「プロ野球がもどってきた」というわけである。
「ペナントレース開幕
 戦争が終わり、長い抑圧から解放されたことから、人々の野球熱は急速に高まった。
 日本野球連盟は昭和20年11月6日、7日の理事会会議で東西選抜大会を行なうことを決定し、東西球団とも練習を開始した。正式なペナントレースは21年春からとし、第一声として11月23日、神宮球場でプロ野球の復活を世間に呼びかけた。
 この頃、当社球場は第1騎兵師団によって接収中で、整備を行なっていた。そのため、進駐軍の管理下で、すでに整備のできていた神宮球場の使用申請を行ない、許可を得たのであった。
 11月23日は風もなく暖かい絶好の野球日和であった。練習の欠けている投手陣は球速も威力も乏しく、東軍の安打19本、西軍の安打15本と打者は雨あられのごとく安打を浴びせた。野手も機敏な動作に欠け、出足・視力・感覚ともによみがえっていなかったから全くの乱打戦となり、東軍が13-9で勝った。プロ野球復活の前奏曲ともいえるこの試合は、入場料は6円均一で、入場者は5878名を数えた。
 東西選抜大会は22日、23日と2日間の予定であったが、22日は雨のため東京では23日だけとなり、24日は桐生市の新川球場に進出した。東西対抗は従来、東京・大阪以外では行なわれたことがなかったが、これが最初の地方進出となった。
 翌21年のプロ野球は、4月20日の第8回読売旗争奪戦を皮切りに、公式試合は4月27日当社球場の激闘から開幕した。これは8球団総当り15回、1年420試合の1年1シーズン制であった。接収が解除された当社球場と西宮球場をはじめ、北陸・北海道・九州各地で、11月初旬までに420試合を行ない、11月5日成功裡に終幕となった。
 この21年の当社球場での総試合日数は106日、試合数200、入場総人員86万余名で、戦前の苦闘10年、プロ野球がいまようやく芽をふきかけたように、当社もどうやら前途に明るさを見出したのである。
 しかし、ペナントレースでは解決すべき問題が山積していた。球場の問題もそうだが、食糧や宿泊の問題も重要だった。選手たちにとってはまず米であったから、米を求めて北陸・北海道・九州へと試合に出かけた。地方からの申込みも、ギャランティは金で決めるにしても、そのほかに米はどれくらい用意できるか、野菜の買出しはできるかなどが条件だった。阪神の藤村富美男がある地方でホームランを放ったときの商品が、なんとトマト1貫匁(3.75㎏)だった。
 なお、この年11月21日、プロ野球の発展を期するため、選手会が結成された。当社球場内で創立総会を開き、発会式を行ない、会長藤本定義、副会長若林忠志・中島治康、常任幹事山本一人・坪内道則が選ばれた。

 

後楽園球場の復活
 当社球場における戦後野球の再開第1戦は、昭和21年4月6日、7日の全早慶戦だった。健全な娯楽に飢えていたファンはスタンドに殺到し、超満員となった。そしてこれが、戦後復活する東京六大学春のリーグ戦の前奏曲となった。このときは全慶応が6-3、10-4と全早大を下した。
 4年ぶりに復活した東京六大学春のリーグ戦は、5月19日、上井草球場の明東戦を皮切りに総当り1回戦制をとり、当社球場と上井草で行なわれ、6月15日の当社球場での早慶戦で終了、慶大が5戦5勝で優勝した。この早慶戦には4万名近い観衆が集まった。食糧危機下の悪条件にこれだけのファンを集めたのは、やはり、野球が大衆に愛されるスポーツであったからであろう。
 プロ野球ペナントレースは、前述のように4月27日開幕、1年1シーズン制で、当社球場では200試合が展開された。
 また、8月3日からは全国都市対抗野球大会(第17回)も復活した。長い間のブランクによる選手の技量低下が懸念されたが、この不安は一掃されて、好試合が展開した。往年の名選手たちが各地に帰郷分散していたため各チームの力量が平均化し、地方色が濃厚だった。このときほど地方に名選手が分散されたことはかつてなかった。

 

プロ野球は花盛り
 食糧に飢えていた大衆は、娯楽にも飢えていた。戦争の抑圧から解放されて、自由をエンジョイしようとする大衆はプロ野球に殺到した。すでに昭和21年度において、その入場者数は戦前の目標であった100万名を軽く突破している。
 21年度から24年度までの公式試合における入場者数ならびに収入金の推移は、次表(略)
のとおりである。
 娯楽の少なかったせいもあったが、野球熱の伸長はめざましいものがあり、まさに野球は花盛りであった。22年度の全入場者数は前年度より80万余名の増加(53%増)となった。当社球場だけでも47万4000名の増加であった。
 なお22年度には収入の数字が格段に伸びたが、これはインフレのためである。

 

プロ野球専用球場としての決断
 昭和21年に野球が再開して、蓋を開けてみると全早慶戦も東京六大学野球も大入り満員で、プロ野球も好調だった。しかし将来の見通しとなると、プロ野球は21年度は好調だったものの微妙な問題で、一方では戦前の早慶戦の華やかさも残っている。当社球場を将来プロ野球の専用球場とするか、または学生野球ものとするかは、大きな選択だったのである。
 しかし22年、当社は、創立以来の理念であるプロ野球専用球場としての立場を貫き、日本野球連盟と契約を結んだ。その結果、当社はプロ野球の使用料として入場料(入場税を除く)の20%を収納し、また入場券の発売・精算、グラウンドや観覧席の整備、放送その他の電気施設、選手浴場、医務室などをまかなうことになった。
 22年度のペナントレース開始前の4月3日、当社球場で第10回読売旗争奪戦大会が開かれたが、この日から男子に代えて女子の場内アナウンサーを登場させた。わが国球場初の女子アナウンサーの採用であった。

 

天皇を迎えて全国都市対抗野球
 昭和22年は、当社にとって輝かしい年となった。
 8月3日、天皇・皇后両陛下(昭和天皇・皇太后)がおそろいで第18回全国都市対抗野球大会をご観戦になったのである。
 この日、当社球場では万全の準備を整え、記者席のあたりに紅白の幕を張ってお席をつくった。試合は午前9時開始で7時に開場したが、またたく間に超満員となった。定刻、両陛下は三笠宮殿下とともに関係者の出迎えを受けられ、大会入場式にご臨席になった。
 全選手はホームプレートに整列していた。両陛下はその近くまで降り立たれ、選手代表大日本土木の村瀬保雄プレーイングマネージャーの力強い選手宣誓を受けられた。これまでにも陛下が野球試合においでになったことは数回あるが、ホームプレート近くに降り立たれて親しく選手の礼を受けられたのは初めてのことであった。
 入場式が終わり、両陛下が特設の観覧席におもどりになりかかると、スタンドを埋めつくした大観衆から「万歳、万歳」の大歓声があがった。人間天皇への大歓声だった。陛下は麦わら帽子を高く振られてこの歓声に応えられた。
 両陛下は第1試合の大日本土木(岐阜)対豊岡物産(埼玉)戦を最後までご覧になった。試合は大日本土木が3-1で勝ったが、豊岡物産の小野田柏選手(のち毎日、高橋などで活躍)は「天覧ホームラン」の栄誉を得たのであった。
 翌23年の第19回全国都市対抗野球大会には、米国野球協会(NBC)の日本委員長であるマーカット少将が開会式に来場し、この大会が日本におけるノンプロ野球の正式な選手権試合であることを承認した。少将は閉会式にも来場し、優勝した西日本鉄道チームに対し、1948年度の日本選手権保持者として、NBCから公認される旨の証明書を授与した。
 これによって、他日、ノンプロの世界選手権が行なわれる場合には、都市対抗野球大会の優勝チームが日本代表として出場することが認められたのである。こうし都市対抗野球大会は世界進出に第一歩を踏み出し、当社球場で行なわれる大会はいっそう有意義な権威あるものとなった。

 

皇太子明仁殿下初のプロ野球ご観戦
 天皇・皇后両陛下につづいて昭和22年11月9日、学習院中等科にご在学中の皇太子明仁殿下が初めてプロ野球をご観戦になった。この日、空はどんより曇って、いまにも雨が降り出しそうな天気だった。カードは金星対阪急、大阪対中日の2試合で、スタンドは好カードと日曜日が重なって満員だった。
 皇太子殿下のご観戦は、混雑を避けるという配慮から、新聞記者にも秘められていた。観衆もむろん知らない。12時に球場のマイクでこのことが発表されると、割れるような拍手と歓声が巻き起こった。
 12時半、定刻に皇太子殿下はご到着になった。ところが金星対東急の試合が3回まで進んだとき雨が降り出し、試合は中断した。この間、試合に出ていた東急の白木儀一郎投手と大下弘外野手が、皇太子殿下に投・打についてお話し申しあげた。雨は降りやまず、試合は中止となり、惜しくも中途でお帰りになったが、翌23年3月28日、皇太子殿下は再びおいでになり、南海対金星、大阪対阪急の2試合をご覧になった。
 皇太子殿下は、このあとも25年9月11日には、ノンプロ野球世界選手権シリーズのアメリカ・ケープハーツ対全鐘紡戦のナイトゲームに、さらに清宮さま(現島津貴子さん)とご一緒に30年11月12日の日米野球ニューヨーク・ヤンキース対全パシフィック戦、翌31年11月10日のブルックリン・ドジャース対全日本戦をご観戦、また34年8月1日には第30回都市対抗野球大会にもご来場になられるなど、しばしば当社球場に通われた」

 

 こうして後のプロ野球隆盛への緒についたわけだが、49年に正力松太郎が当時公職追放のG項該当者であったため、GHQホイットニー民政局長からの注意で、初代コミッショナーを辞任した経緯や、49年10月にアメリカチーム「サンフランシスコ・シールズ」がGHQ慰問のため来日、日本各地で試合することになったことなどは省略する。が、以下のことだけには触れて、「後楽園の社史」の巻は終わりたい。
「なお、サンフランシスコ・シールズと試合ができたのは、アメリカ当局の好意によるものであった。それも、マッカーサー司令部から極東における野球に関してのすべての権限を委ねられていた経済科学局長マーカット少将の尽力のたまものだった。
 戦後、日本のプロ野球が異常な躍進を遂げたのも、マーカット少将の並々ならぬ好意によるところが少なくない。コミッショナー問題にしても、マーカット少将が正力松太郎を適任であるとして推薦したものである。シールズが当社球場で試合をすると決定した際にも、傷んでいるスタンドなどを直すための多量のセメントを総司令部の好意で手にすることができた。日本のプロ野球にとって、マーカット少将は恩人である」(「後楽園スタヂアム」の巻終わり)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー