HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-5 Vol.5 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-5
- VOL.5
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-5
いま、わたしは、小田急線沿線の世田谷区経堂に住んでいる。一番の繁華街・農大通りを下って、城山通りに出る少し手前。行列のできる人気の家系のラーメン店(せい家)のすぐ近くに暮らしている。大学を中途半端な状態にしてテレビ制作会社に就職。いわゆる制作進行。俗に言うADのような仕事をしていた。その時代は、まだ大学(立教)の近くの豊島区要町近くに住んでいたが、放送作家になってからは心機一転、世田谷区経堂に居を構えた。それが1984年のこと。だから30年以上、経堂に住んでいる。カレーのゴリさん、鉄板焼きのじゅうじゅう、とんかつのとん久、パスタのいちもくさん……行きつけだった店はいまはもう存在していない。いまとなっては、わたしの思い出の中に味とともに残っているだけだ。
その経堂駅から小田急線に乗って、成城、登戸方面へと下ると、明治大学のキャンパスがある生田駅に到着する。駅を降りると、小さな川と雑木林の斜面がそそり立っている。その川沿いを歩き、小高い丘の上にある明大キャンパスにはエスカレーターで登る。さらに敷地内を奥へと歩みを進めると、そこにあの登戸研究所の記念館がひっそりとたたずんでいる。まさに“ひっそり”という表現がぴったりの、申し訳ないといった控えめな雰囲気で存在している。しかし、この場所でとんでもない特殊な兵器が日本陸軍によって、研究開発されていたわけだ。
帝銀事件で犯行に使われた毒物は何だったのか。これが実は本当のところはわかっていない。裁判では、当時、比較的一般にも手に入りやすかった青酸カリ、もしくは青酸ナトリウムと認定されていて、供述の段階では、平沢も知人から手に入れた梅干2個分の青酸カリの塊を水で薄めて犯行に使ったと。しかし、犯行現場の状態からして、遅効性の、もっと特殊な毒薬ではないのか、と、論じられて来た。
事実、ここ登戸研究所では、謀略用に同時に多くの人間に毒を飲ませるために青酸性毒物に夾雑物を混ぜて、飲んで反応するまでに時間のかかる遅効性の毒物を開発していた。それを開発した滝脇重信という登戸研究所員には陸軍大臣賞まで与えられている。
事件当時、警視庁の捜査官は犯人はその種の毒物に精通した元・特務機関員であろうということから徹底的にかつての登戸研究所員を疎開先まで辿って調べている。なぜ、こういった事実がわかったかというと、警視庁の当時の捜査官の甲斐文助が捜査会議での報告を克明に付けていたノート、いわゆる『甲斐手記』が残されていたからである。そこには、登戸研究所員が七三一部隊のマルタを使って、毒物の実験をしていたことが報告されていたのである。そのときの実験の方法が、やり方が、なんと、帝銀事件の、犯人がまず飲んでみせて、そして、第一薬・第二薬と時間を置いて飲ませているのと殆ど同じであったというのである。
しかも、マルタを騙して毒を飲ませたのがどうも陸軍中野学校出身の特務機関員であったというのである。そして、その模様を登戸研究所員が間近でメモを取りながら観察していたようで、その場面想像すると、そこにいったい何人の〝悪魔〟が存在していたことか。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など