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後楽園スタヂアム50年史

COLUMN「後楽園スタヂアム50年史」-1

VOL.6
小川 真理生さん

ここでは、「後楽園スタヂアム50年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第6回 「後楽園スタヂアム50年史」(1)

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 「戦時中のプロ野球」について、次のように記述している。

「選手の応召
 戦時中のプロ野球は、国情を反映して惨憺たるイバラの道を歩んだ。物資は不足し、大事な選手は応召し徴用され、険悪な世相のなかでの興行と、悪条件は重なっていた。
 昭和14、15年頃にはプロ野球もいくらかのファンの心をとらえ、好転の兆しもみえていたが、名選手が応召するようになってからは、その補充もつかず試合の興味は激減し、ファンの心も冷めていった。公式試合にアトラクションを添えものに付け、あきれた・ぼーいずや灰田勝彦などが活躍したこともあった。しかし、こういう時代でも、今日なおファンの心に刻みつけられている名勝負が展開されていた。その一つ二つを拾ってみよう。
 15年4月1日、巨人対名古屋戦での川上哲治の弾丸ライナーもその一つである。巨人は前年度42勝をあげた最高殊勲選手であるスタルヒンをたて、名古屋は左腕速球の松尾幸造をマウンドに送った。名古屋は押しぎみに試合を進めていたが、スタルヒンの力投に得点できなかった。巨人は9回裏1死後、3番中島治康安打のあと4番川上が2-3後の速球を痛打、球は左翼手吉田猪佐嘉の守備位置前に弾丸ライナーとなって飛んだ。あまりにも当りが強かったため、ワンバウンドした球が構えた吉田のスパイクにあたって左翼ファウルライン外に高く飛び去る二塁打となり、中島が生還して巨人の勝ちとなった。
 川上の弾丸ライナーは今日なお語り草だし、物資統制令による質の低下でボールの飛ばない時代にスパイクにあたって高くはじくなど、珍しいできごとだった。
 47年5月24日、名古屋対大洋の試合は実に延長28回、4-4で引分けとなった。投手は名古屋が西沢道夫、大洋が野口二郎。試合開始は午後2時40分だった。9回、4-2と大洋がリードしていたが、名古屋のキャッチャー古川清蔵の一打が延長戦のきっかけをつくった。ここから長い長い凄絶な死闘が始まった。西沢・野口両投手ともほとんど4球を出さない投手戦となった。
 延長25回が過ぎ26回も終わった。アメリカ大リーグの最高延長記録が26回だったから、タイ記録になった。世界的記録が生まれたことがアナウンスされると、場内から歓声と拍手が高くひびきわたった。さらに28回を終えたが遂に勝敗決せず、球審の島秀之助の許に指令が飛んで、日没引分けとなった。試合終了午後6時4分、3時間24分の試合だった。大リーグの延長記録を破って世界新記録が当社球場で生まれたのである。

 

物資統制とボール
 日中戦争が進行するとともに物資は統制となり、ボールの質が低下した。純毛糸の代わりにスフ糸を使ったから反発力が失われ、ボールが飛ばなくなった。野球の興味は半減した。昭和14年からは、従来、無制限だった新しいボールの使用が1試合6個以内に限定された。これで不足する場合は古いボールを縫い直して使った。ボールの質の粗悪化と使用制限の両面から、打力は必然的に退化していった。
 15年の総試合数469のうち、どちらかが零敗した試合が147試合もある。3分の1である。これは有力な選手が応召したためでもあったが、もっと根本的な理由は、球が飛ばなくなったことにある。真芯にあたって外野を越すような大飛球が、スッと途中で前に落ちてしまうのだった。
 そんな状況のなかでの優秀選手の応召に次ぐ応召は、プロ野球を壊滅の方向に追い込んだといっても過言では。選手たちには、いつ召集されるかわからないという不安が重苦しくのしかかり、自然、殺伐たる気分がゲームにも現われる。一種、凄愴な試合が展開された。応召選手の穴埋めも大変だった。当時の世相から、プロ野球に身を投ずる選手は少なかった。これでは高級な技術のともなう面白い試合をすることはできない。したがってファンも集まらないという悪循環である。
 戦地に行った選手たちでチームを編成すれば、内地のプロチームより数段強いだろうともいわれた。

 

球団名も日本名に
 太平洋の波高し――日米間が険悪になってくると、アメリカ政府は米国籍の選手たちに帰国命令を発した。阪神の堀尾文人、黒鷲の亀田忠・長谷川重一、元阪神の亀田敏夫などは、昭和16年6月14日、横浜港を出帆、帰国した。
 15年、新体制運動が風靡し、これにならって同年秋、球団名の日本語化が実施された。ジャイアンツは巨人、タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲、セネタースは翼、ライオンは朝日と改称、スタルヒンも須田博と日本名に改めた。
 さらに18年には野球用語からすべて片仮名が追放され、野球そのものも日本化された。延長試合は12回で打ち切り、選手交替は18人以内に限定し、隠し球は禁止された。日本的でないという理由からだった。
 野球用語の片仮名追放は、ストライクは「よし1本」、ワンボールは「一つ」、ファウルは「だめ」、インフィールドフライは「内野飛球」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」、ボークは「反則」、タイムは「停止」といった調子で、範を剣道の審判用語からとったものだった。審判も慣れないものだったから、「ストライク……もとへ、よし一本!」といって観客を喜ばせした。
 規則用語も全面的に改訂された。ストライクは正球、ボールは悪球、フェアヒットは正打、ファウルは圏外、セーフは安全、アウトは無為、グローブとミットは手袋といった具合である。
 ユニフォームは白または国防色に制限され、背番号や球団マークは廃止、帽子は戦闘帽となった。名古屋チームなどは国防色のユニフォームを着用した。17年3月の巨人対大洋定期戦のアトラクションには、軍服、巻きゲートル姿で、「米英撃滅」と大書したボードに向かって手榴弾投げを行なった。
 かくて18年4月9日には、連盟から「後楽園に於て試合中に警報が発令されたる場合の処置」が各球団宛に通達された。

 

遂にリーグ戦打ち切り
 全国中等学校優勝野球大会、都市対抗野球大会、六大学野球リーグ戦などはいずれも昭和17年までで、18年には、文部省からの通達で姿を消してしまった。わずかに18年に学徒出陣壮行早慶戦が戸塚球場で行なわれたのみである。そうしたなかでプロ野球だけは関係者の努力と熱意で、健全娯楽として残されていた。残されたとはいっても、観客もあまりこないし、球団の経営は苦しく、わずかに余命を保っているにすぎなかった。
 野球に対して世間の目も冷たくなっていた。国を挙げて戦力増強に狂奔している時代だから、野球をやるなど国賊だ、と極端な言葉を使う教師もいた。選手たちも、転戦の際、バットを隠し持って汽車に乗るなど、大っぴらにやるのがはばかられる世相だった。
 19年になると、選手はそれぞれ軍需工場に席をおいて、徴用されるのを防ぎながら野球をつづけた。西鉄(大洋の改名)と大和(黒鷲の改名)は18年に解散していたので、この年、巨人・阪神・阪急・産業(名古屋の改名)・朝日・近畿日本(南海の改名)の6球団に減少した。また日本野球連盟も日本野球報国会と改称した。
 6球団になっても、応召がつづいて選手は減る一方で、秋にはリーグ戦を行なうことが不可能となり、甲子園・西宮・後楽園で挙行した三つの大会を最後に試合を打ち切った。最後の試合が行なわれたのは9月26日(西宮)で、日本野球総進軍優勝野球大会と銘打った。
 戦前のプロ野球を概観すると、六大学野球や全国中等学校野球大会のように多数の観客を集めることはできなかった。これは、長期にわたるペナント・レースのせいもあるが、目の肥えたファンには、技量的に学生や社会人の野球と比較して大差ないことがわかっていたことも原因である。それでも2年、3年と経過するうちに技術も進歩して、ようやく軌道に乗りかけたそのとき、日中戦争からひきつづき太平洋戦争に突入し、経営難のうちに19年秋、中止のやむなきにいたったのである」

 

 

 そして戦時下の後楽園は、「東部軍の陣地となる」のである。
「当社球場は高射砲陣地に
 昭和16年12月、太平洋戦争が勃発した。しかし、戦いは遠く南方や中国大陸で行なわれていたので、東京市民は空襲もない平穏な日々を過ごしていた。17年4月18日昼、ドウ・リットルの指揮する米軍艦載機が東京地方を襲った。この日、当社球場では巨人対黒鷲の試合のある日で、選手もグラウンドに出て練習を開始していた。
 そのとき突然、警視庁からの指令で「今日は空気が険悪だとの軍部からの注意があった。野球は中止せよ」といってきた。さっそく中止と決定し、観客に半券を返し終わったとき、頭上を低くかすめるように、米軍艦載機が飛んでいった。これが当社の戦争との最初の出会いであった。
 太平洋戦争突入と同時に夜間演芸は防空上の見地から一切中止していたが、昼間の各種催し物はつづけていた。そこへこの東京初空襲で、これは軍部にも相当のショックを与えたらしく、今後の空襲を予測し、防空上必要だという理由で、東部軍から当社の土地全部を使用すると申し入れてきた。高射砲陣地を設置するというのである。
 軍の高射砲設置のねらいは、皇居を中心に、外苑・日比谷公園・新宿御苑・芝公園・晴海・ドイツ大使館(現・国会図書館)前・後楽園などから集中的に砲弾が敵機に届くように考慮されたものであった。したがって、野球場そのものは観測の死角にはいるので、最初から重要視されていなかった。必要なのはその周辺の空き地だった。
 当社は、大衆娯楽のための施設を全部貸すわけにはいかないと、東部軍に折衝を重ねた結果、スタンドの2階の一部を監視哨に使わせる契約を結んだ。
 最初は2階の一部に囲いをして機関砲を設置し、東部第1900部隊指揮下の1個中隊が派遣されていたが、その後スタンド下の一部も軍部に貸すことになった。高射砲は現在の遊園地付近の地点に据えられ、高射砲陣地一帯は塀で囲われた。
 17年12月23日、敵性語禁止の建て前から会社施設の名も、スポーツ・シネマは後楽園映画館、スポーツ食堂は後楽園食堂と改名し、19年1月7日には社名を株式会社後楽園スタヂアムから「株式会社後楽園運動場」と変更した。

 

菜園となったグラウンド
 昭和18年10月31日、金属回収の指令にもとづいて、スタンドの金属製取付椅子1万8000個をとりはずして供出した。その後、2階のスタンドには機関砲のほか電波探知器や観測器などが据え付けられ、電波キャッチを容易にするためとして、付近を通る市電も速度を落とした。またバックネットの網は電波を吸収するので、網を上げ下げできるよう工夫し、さらにのちには、ネットに大きな布を張ったりした。こうして当社球場は、軍事施設化していった。
 19年の6月にアメリカ軍がサイパン島に上陸し、7月にはサイパン島の日本軍は全滅した。本土が直接襲撃の危険にさらされるにいたり、遂に東条内閣は崩壊した。
 こうして敗色が濃厚となり野球どころではなくなり、9月6日には球場全部を東部軍が接収する契約が成立した。すでに7月、丸ノ内の大東亜会館(現・東京會舘)で取締役会を開いて、軍部との交渉は社長に一任する決議をしていた。
 借上げはほとんど全面的で、借上げ料は「月額5000円」、借上げ目的は「東部第1900部隊及び防空第1対空無線隊用」、借上げ期間は「9月6日から軍の必要期間中」となっていた。この借上げ料5000円は当時の維持費から算出したもので、建物の坪数から算出したものではなかった。
 東部軍接収中の19年5月7日から23日までグラウンドで大相撲夏場所が行なわれた。ひきつづき秋場所も11月10日から21日まで開催された。国技館が工場にされたためである。軍の接収下、大相撲が行なわれたということは、同じスポーツでありながら、野球と相撲に対する軍の考え方の差を示すものであった。
 その後、付近の高射砲陣地強化のため、1個連隊近い兵隊が派遣され、スタンド下は兵隊の宿舎になった。月野安文専務以下従業員は、グラウンドキーパー、営繕係、会計係各1名の3名で、スタンド下の狭い部屋に移っていた。4人はグラウンドの隅のわずかな土地を、軍の了解を得て、サツマイモ、カボチャ、キュウリの畑にした。
 これが刺激になったのであろう、東部軍でもグラウンドを全面的にトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、キュウリの畑にした。つい数ヵ月前には華やかなプロ野球や大相撲の美技が繰り広げられたグラウンドが、野菜畑に変わったのである。
 20年4月14日、米軍の空襲で一部に被害を受け、スコアボードが焼け落ちた。
 当社の経営を振り返ってみると、14年後期にいたってわずかながら利益を上げはじめたが、前期からの繰越し赤字のため配当もできず、これを埋めるにすぎなかった。17年からは繰越金の赤字も解消し、わずかながら次期に黒字を繰り越すこととなり、健全な経営に立ち直った。黒字とはいっても18年の利益金7830円余、19年5129円余であるから、資本金からみれば微々たるものであった。20年にはまたわずかな赤字が出たが、これは終戦の年で5月から9月までの5カ月間が全く無収入であったためである」

 

 さて、敗戦を迎え、進駐軍がやってきて、今度は彼らの接収が待っていたのだが、その経緯は次回に紹介しよう。(つづく)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー