GHQ CLUB. あの日あなたは何をしていましたか? あなたにとってGHQとは?

HOME > コラム > コラム ニュース映画とCIE映画 Vol.3 GHQクラブ編集部

img_column_003

CIE
FILMニュース映画とCIE映画

VOL.3
GHQクラブ編集部

このシリーズでは、占領期を記録したニュース映画の映像について、
一方、GHQ=支配者サイドが日本を民主化する一環として活用した
短編映画(ナトコ映画)について、考究していきます。

article

 

「日本ニュース映画史」その3
(6)被占領下のニュース映画

 

◆1945年(昭和20年)8月30日、連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木空港に到着。ニュースカメラは、コーンパイプを咥え、レイバンのサングラスをかけた長身の占領軍総司令官が新しい支配者としてゆっくりと日本の土を踏む姿を撮影した。
 この敗戦時においてもなお、実写の価値がある現場にカメラを向けるというニュース映画の精神は健在であったといえる。
 そして、9月8日、米軍はジープに乗って東京に進駐した。

 

◆9月2日、横浜港に入港したアメリカ戦艦ミズーリ号の上で、日本は降伏文書に調印。オキュパイド・ジャパンと呼ばれる日本の被占領時代が始まった。
 それまで軍国主義の旗を振っていたニュース映画は、敗戦と同時に180度転向し、占領軍の指示のもとに民主主義革命の旗を振ることになった。当時のGHQには、民間情報教育部長のデヴィッド・コンデのように、この際日本を共産主義革命のテストケースにしようとする急進的な思想を持つ軍人たちがいた。
 そして、彼らの指導によって、終戦直後のニュース映画は極端に左傾化した。この影響は、その後の戦後ニュース映画に長く尾をひいた。

 

◆昭和20年10月、社団法人日本映画社は同盟通信社とともにGHQから解散を命じられ、株式会社日本映画社となった。
 そして、GHQのデヴィッド・コンデと親しく民主的かつ革新的な岩崎昶を製作局長にむかえ、翌昭和21年1月、戦後版の新生「日本ニュース」第1号を発行した。
 その第1号では、「民主主義革命の旋風」と題して、マッカーサー指令による各分野の戦犯指定者の公職追放をつたえ、つづく第2号では、中国に亡命していた日本共産党指導者野坂参三の帰国について凱旋将軍を迎えるかのごとく伝えた。

 

◆当時、日本映画社の本社は東京銀座の並木通りにあったが、敗残兵さながらの姿で外地から帰還してきたカメラマンたちが社内に入りきれず、社屋の外に群れをなした。
 一民間会社となった日本映画社には、もうこれらの社員に給料を払う資力はなかった。
 また、左傾化しすぎた日本ニュースは嫌われて、上映を締め出す興行館が続々と出てきたので、経営はたちまち行き詰まった。そのため、9月には東宝の資本下に入り、製作配給とも東宝の管理下に入った。
 こうしたなかで、新しい会社をつくってニュース映画や文化映画を製作しようとする動きが出てきた。そして、日本映画社の帰還社員たちはそうした新会社に散っていった。

 

◆1946年(昭和21年)3月、新生「日本ニュース」より1カ月余り遅れて、朝日映画社から「新世界ニュース」が創刊され、松竹系の劇場に配給した。
 朝日映画社は、昭和12年9月に朝日新聞社が設立した会社で、昭和15年に日本ニュース社に統合されるまでは「朝日世界ニュース」を製作していた。
「新世界ニュース」は内容が比較的穏健だったので、新生「日本ニュース」を解約した興行館に販路を広げた。

 

◆1947年(昭和22年)2月には、戦後3番目のニュース映画として、理研映画社が「理研文化ニュース」を創刊し、大映系の劇場に配給した。
 しかし、昭和25年に毎日新聞社系の「日米映画社」が「毎日NBCテレヴィニュース」を発刊して興行系統が競合したため、昭和27年に日米映画社と合併して社名を「新理研映画社」と改称し、ニュース映画名も「毎日世界ニュース」と改称した。

 

◆1949年(昭和24年)3月、国際映画社が「国際ニュース」を創刊した。
「国際ニュース」は、同年1月に朝日映画社が破産し、「新世界ニュース」が第149号で廃刊となったため、その後をうけ松竹系の劇場に配給することを目指していた。
 しかし、昭和25年、経営難の国際映画社は、当時有名無実だった「読売映画社」を強化する形で読売新聞社の傘下に入り、「読売国際ニュース」と改称した。この時の国際映画社社長は、農林省出身の代議士田口助太郎だった。

 

◆1950年(昭和25年)5月、マッカーサー司令官は日本共産党に属するすべての危険分子を日本の公的職域から追放するよう指示した。いわゆる「レッドパージ」である。「日本共産党は日本国憲法を無視し、虚偽や煽動等の手段によって社会混乱をひきおこしている」というのが、その理由だった。
 これによって、映画界では松竹、東宝、大映の劇映画3社からは合計109名が追放されたが、日本映画社からは25名、理研映画社からは3名が追放された。

 

◆昭和26年、一段と経営の逼迫した日本映画社は、東宝の全額出資を受けて製作体制と人員を整理し、社名を「株式会社・日本映画新社」と改称した。
 さらに、翌昭和27年には、ニュース映画の製作を朝日新聞社と提携し、「日本ニュース」から「朝日ニュース」へとニュース映画の名称も変えた。(つづく)

記事:GHQクラブ編集部