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 Vol.70 小川 真理生さん

「日本交通公社七〇年史」

COLUMN「日本交通公社七〇年史」その2

VOL.70
小川 真理生さん

ここでは、「日本交通公社七〇年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第70回「日本交通公社七〇年史」その2

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 今回は、「日本交通公社七〇年史」の第一章「『日本交通公社』として再出発」を見ていきます。

戦後の再建に迅速な対応
 国内の事業所の大半は空襲で被災、中国大陸や南方諸地域に広く展開されていた事業も、終戦で一挙にこれを失った社は、一瞬その機能のほとんどを停止せざるをえない状況となった。日本の社会全体が極度の混乱と虚脱のなかにあった。しかし、こうしたなかで、社ほど早い立ち直りを見せた機関はまれであった。
 終戦の年の九月には、早くも寄付行為の一部を改正して社名を「日本交通公社」と改称するとともに、機構の整備を行ない、新事態に即応することとした。国際観光事業の振興を社の長期目標に掲げるとともに、当面の事業の重点を、進駐軍のあっ旋と復員業務の二点にしぼり、このための要員の充足と事務所の復旧に即刻着手、ここに、社再建のスタートが切られたのである。
 このように、社がいち早く立ち直ったのは、観光資源が当時の日本における唯一の資本であり、また平和を迎えたわが国のめざすべき国際親善の方策としても、観光事業は理解が得られやすかったということと、社の事業は他の産業と比べてとくに設備投資を必要としないサービス業であったことなどにもよるが、なによりも社首脳の卓見と英断によるところが大であった。
 すなわち、総裁の大蔵公望は、戦争さなかの二十年一月の訓示で「この戦争に勝っても負けても、公社事業は今後益々発展してゆくのであるから、諸君は協力一致、安心して職場に挺身してもらいたい」と述べるとともに、それから間もなく松村信雄ら調査室員に特命で“第一次世界大戦後における欧州各国の復興と観光事業”について調査させ、資料の収集整備に当らせた事実からしても、総裁を中心とする社の首脳が終戦に先だって戦後の経営に関する対策を練っていたことがうかがえる。
 顧みれば、太平洋戦争終結とそれに続く混乱は、わが国にとっても社にとっても未曾有の経験であった。そうしたなかでいち早く将来を見通して迅速な手をうった首脳陣の見識と決断、立ちはだかる多くの困難にもめげず、斉々と社業の再建に打ちこんだ先人たちの労苦が、こんにちの社の基礎を築いたといっても過言ではない。

「日本交通公社」への改組
 終戦直後の九月、新時代に備えて社名を「日本交通公社」と改めた。わが社では、社名決定にさいし、創業時をはじめいつも議論を呼んだが、この時も日本交通公社と日本旅行社の両案が議題となり、英文名もツーリストを用いるかトラベルとするかに意見がわかれた。しかし、近年欧米ではツーリストよりトラベルを使用する向きが多く、トラベルの方が範囲も広いということで、現社名「日本交通公社(JAPAN TRAVEL BUREAU)に決定した。
 社名の変更と同時に、寄付行為の改正を行なった。すなわち、事業目的を「外客誘致ヲ為スヲ目的トス」と明確にしたのをはじめ、会長以下役員選任方法の民主化などが主な改正点であった。この寄付行為改正に合わせて、総裁の大蔵公望と理事長新井堯爾がそれぞれ会長、理事長に互選されたが、二十一年一月大蔵が連合軍最高司令部の公職追放令の指定に先だち累を社に及ぼすことを考慮して退任したため、二十二年二月新井が会長に就任するまで会長は空席とされた。
 寄付行為の改正に続き、二十年十一月には本社機構を改正するとともに、地方部を昇格させて八支社を設け、社内執行体制の整備を進めた。

事務所の復旧と本社社屋の建設
 戦災による四十数か所にも及ぶ焼失事務所の復旧と、戦後の展望に即した事務所の増設は、社業推進上の緊急事として、乏しい入居先と資材難の悪条件を克服して強力に進められた。新設、移転を合わせた整備箇所数は、臨時のものを除き、二十年中約三〇、二十一年中約一〇〇、二十二年中約五〇にのぼり、二十三年末の事務所総数は二二〇か所と、二十年末の一一三か所に対し倍増し、ほぼ全国店舗網の配置を完了した。
 二十四年、社を襲った財政危機打開の一環として一部案内所の閉鎖を余儀なくされたが、状況の好転に伴い、二十七年には順次再開し、翌年にはほぼ復旧した。
 いっぽう、本社事務所についても、戦後早々に待望の独立社屋が完成した。
 社の本社所在地は、その設立の経緯にもかんがみ、創業以来殆んど一貫して現在の東京駅を中心とする国鉄施設のなかにあった。ただ終戦直前の昭和二十年四月に入居先の運輸通信省第四庁舎が大空襲で被災したため、とりあえず丸ノ内一丁目二番地の正金銀行ビル内に移転したのが、それまでの唯一の例外で、ここで終戦を迎えた。終戦後の社業の膨張で本社社屋はたちまち狭隘となり、そのうえ建物所有者から返還を迫られたが、戦災による都内の建物の払底は甚だしく、八方努力のすえ、丸ノ内一丁目一番地(現在は地番変更で一丁目六番四号)の現在の場所を三菱地所の好意で借り受け、ここに新社屋を建設することとなった。敷地六〇六坪に木造二階建の本社社屋は二十一年十月十九日、五か月の突貫工事で落成、社は初めて待望の独立の本社社屋を持った。この時の苦労が“丸ノ内一丁目一番地を死守し”、現在の交通公社ビルにつながるのである。

財政危機と再建
 戦後における社の対応はすべてにわたり迅速果敢に行なわれたが、財政面においては懸命の努力にもかかわらず、あい次ぐ苦難を余儀なくされた。
 戦後の混乱期における収入の途は、進駐軍将兵と家族のあっ旋、復員軍人・引揚者の輸送あっ旋、僅かばかりの乗車券類の割当販売のほかは、さしたる旅行あっ旋業務はなく、また戦前のように、会員からの会費収入や政府補助金を当てにするわけにもいかなかった。
 もちろん、積極的な自己収入を求め、私鉄・バス・船会社等との代売契約を拡大し、船車券・旅館券等も復活させて代売手数料収入の増大をめざすとともに、図書販売・ホテル旅館経営・観光土産品販売・手廻品運搬および一時預・エキスプレス等、交通旅客関係の事業にも進出をはかった。
 しかしながら、年率数十パーセントに達するインフレは、事業収入をはるかに上回る経費増となって、社に深刻な財政危機をもたらした。その結果、年度の決算も、二十一年度九九〇万円、二十二年度二七〇〇万円、と毎年度多額の赤字を計上する有様であった。このため、二十三年頃から、いっぽうで事務所の整理や要員の圧縮を行なうとともに、半期予算制度によって徹底した経費管理をはかった結果、二十三年度は赤字幅も一二〇〇万円にまで縮小した。
 このようにして幾らか経営の安定化に向かうかにみえた矢先の二十四年六月、突如襲った”ドッジ旋風”により、当時総売上高の八割を占めていた国鉄乗車券類の代売手数料のうち切りと政府補助金交付停止の措置がとられた。これによって、社の財政は致命的な打撃を受け、二十四年度には再び四二〇〇万円の巨額の赤字を計上するにいたった。これから財政再建のためのほぼ一〇年にわたる苦難の道が始まる。
 国鉄代売手数料うち切りに対して、社がとった方策は、経営的見地からする管理部門およびその他の非営利部門の徹底的縮減と各事業部門の独立採算制による積極的増収策であった。組織・要員の削減は一応実効を納めたものの、新たな増収策のひとつとして手がけていた雑誌の取次配給業務が蹉跌して、多額の不良資産を抱え、財政再建をかえって遅らせる結果となった。この間、資金面では代売金の延納、多額の銀行借入れによって、どうにか持ちこたえる状態であった。
 二十六年二月役員の交代があり、新たに三原種雄が専務理事に就任する。三原は組織のより徹底した簡素化と理事による直接部局担当責任体制をしき、増収と経費節減を強力に推進して財政建直しをはかった。あわせて、極度に悪化した財務内容の整理、改善のため、二十六年八月には経理部に「整備課」を設け、不良資産の回収整理に努めた。いっぽう、旅行あっ旋代売業務の活発化と国鉄代売手数料の復活も順調に進みつつあった。その結果、二十七年度一一〇〇万円、二十八年度三六〇〇万円、二十九年度三二〇〇万円の、いずれも赤字決算を余儀なくされたものの、この間に毎年それぞれ、五五〇〇万円、六一〇〇万円、四〇〇〇万円の雑損処理をしたため、二十七年度からは単年度の実質収益のうえで、ほぼ黒字化が定着することとなった。
 こうした財務内容の改善に伴い、二十五年以来中断していた退職手当引当金も、二十八年度には四九〇〇万円と、法人税法上の限度一杯の引当てが復活をみた。

 

(以下、第二章に続きます)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー