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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第16回
「滋賀県」

地方占領期調査報告第16回「滋賀県」

 滋賀県のホームページに、以下の記事がアップされている。

 

【コラム1】GHQの進駐と接収
 今年、2015年は悲惨な第二次世界大戦が終結して70年目の節目の年であり、敗戦を受け入れた日本の戦後の歩みを振り返るきっかけとなる年です。滋賀県でもGHQの部隊が進駐し、滋賀県軍政部が県庁内に置かれました。今回はGHQが県内にあった当時の実態の一端を紹介します。

GHQの滋賀県進駐
 昭和20年(1945年)8月、日本の敗戦を受けて、連合軍総司令部(GHQ)が最高司令官ダグラス・マッカーサー指揮のもと、横浜に設置されました。西日本にも、連合国軍の主力であるアメリカ太平洋陸軍第6軍と第8軍のうち、第6軍が展開し、司令部が京都に置かれます。そして滋賀県でも、9月30日に大津市錦織町の琵琶湖ホテル(現柳ヶ崎のびわこ大津館)が、10月4日には際川の大津・滋賀両海軍航空隊跡地と別所の大津陸軍少年飛行兵学校が接収されました。
 昭和9年に完成していた琵琶湖ホテルは、当時、県内最大のホテルであり、桃山様式を採用した3階建ての和風建築でした。内部は洋風が取り入れられ「湖国第一の近代ホテル」として知られており、接収されたホテルは日本政府が賃借したうえで進駐軍に提供するかたちをとります。
 進駐してきたGHQは直接軍政の方式をとらず、間接統治を選択しました(ただし、沖縄には直接軍政がひかれます)。これにより、GHQの命令と監督によって日本政府が政策を実行していくこととなりました。マッカーサーは婦人の解放や労働組合の促進、教育・司法・経済の民主化などからなる五大改革の指令を示します。
 このようなGHQの方針から、滋賀県でも県が政策実行の窓口となりました。大津市には、米軍第6軍136連隊のカーベーニー大佐以下2,910名が進駐し、滋賀県軍政部が設置されますが、県は彼らと県民との交渉や仲介を担うことになりました。9月10日、県は、進駐軍連絡事務局を設置し、県民に向けて「進駐地付近住宅心得帳」を配布します。これは、進駐兵の不法行為を誘発しないよう求め、進駐兵に危害を加えず忍耐するように諭したものでした。進駐兵の取締りはMP(ミリタリー・ポリス)本部が行っており、県当局では対応できなかったためです。 

進駐軍の施設の設営
 昭和21年(1946年)4月11日、 旧少年飛行兵学校にあった軍政部滋賀支部(隊長ブルーベーカー)が県庁に移転してきます。県庁2階・3階の8室と1階の3室がそれぞれ軍政部とMP本部に割当てられ、接収が解除された際、寝室として使用していた一室の東側の壁には弾痕が残っていて、3室とも塗り替えが必要なほど汚損していました。また、地方特別建設委員会規程を設け、宿舎などの建設を促進するとともに、県内務部に渉外課と特別建設課も新設されます。このような中、軍用給水専用上水道や、大津水耕農園、進駐軍家族のための住宅である皇子山ハイツなどが新築されました。上水道は国が費用を負担し、大津市が工事を施工し総額6,922万円余をかけて昭和23年3月に完成、6月から給水を開始しました。 大津水耕農園は、下阪本村にあった旧滋賀海軍航空隊跡が接収され、昭和21年7月に運営されはじめたものです。50町歩(約50万平方メートル)におよぶ広さを持ち、ふん尿などの肥料を用いない野菜栽培専用農場でした。砂利を敷いたコンクリート槽に、ポンプを用いて化学肥料の水溶液を流し込む大変珍しいものでした。
  皇子山ハイツは進駐軍の家族住宅として9月に提供されたものです。当時は、皇子山の他にも多くの個人住宅が接収されました。接収された住宅の住民は、早急に家を出なければならず、その様式もアメリカ人向けに改造されます。改造項目は、ある住宅では22か条にもおよび、床のフローリング張りやブラインドの取付け、ガラス戸の新設や出入りを洋風に模様替え、ガレージの新設などの項目が定められていました。
  GHQと県民の間に立っていたのが、県内務部の中に8月に新設された渉外課と特別建設課でした。現在、両課が作成した154冊におよぶ行政史料は、歴史的文書として県政史料室で公開を始めています。 

県民からの嘆願
 このようにGHQの進駐は、土地や建物の接収というかたちで県民にも大きな影響を与えました。施設を提供した県民やホテルなどは、立ち退きや労務提供などのかたちでGHQへの協力を余儀なくされました。そして、解除が進まなかった場合は、GHQが撤退するまで長期にわたり接収され続けることになりました。中でも、戦時中日本軍に接収され、さらに進駐軍にも接収されつづけた住民の辛苦は大変なものでした。
 現在まで残されている彼らの嘆願書には、接収に対する切実な思いとともに日常生活の中に軍隊があった厳しい現実が刻まれています。

お問い合わせ
滋賀県 滋賀県県民生活部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
ファックス番号:077-528-4813
メールアドレス:kenmin-j@pref.shiga.lg.jp

 

【コラム2】県民とGHQ
 GHQの滋賀県進駐は、当時の県民に、戦前とは全く違う環境と生活をもたらしました。大切な土地や施設を接収され、提供を余儀なくされた人々や、進駐軍のなかで労務者として働く道を選んだ人々など、その人生はさまざまでした。今回は、接収を受けた県民の苦労や、進駐軍日本人労務者の環境に焦点をあてたいと思います。

接収を受けた県民
  GHQが滋賀県に進駐して以来、県民には様々な影響がありました。特に、所有する施設や土地を接収された場合は、ほぼ強制的に明け渡さなくてはなりませんでした。そうしたものの中には、接収が解除された後に補償問題へと発展したものもあります。
  例えば、昭和21年(1946年)に、GHQの宿舎として接収された大津市の八新亭には、世に名高い100本以上の盆梅がありました。この盆梅は、そもそも膳所藩医生駒家が江戸時代後期より育成していたもので、膳所の名物として知られていました。それを昭和8年に八新亭の経営を担う佐々木家が、ぜひにと所望し、盆梅の「輿入れ」として当時の価格で結納金5万円を収め、披露宴までひらいて譲り受けたそうです。以来、その盆梅は大切に育成されていましたが、GHQの接収を受け、同27年に接収解除され持ち主の佐々木家に返還されるまでの6年間GHQの管理下に置かれました。結果、返還された昭和27年には、盆梅のほとんどは失われ、佐々木家は2000万円近くにおよぶ梅木と鉢の請求を、大阪調達局に起こしています。調達局は、GHQが使用する施設の管理を行う国の機関であり、当時の県民は、GHQや県ではなく、国を交渉相手として補償を求めなければなりませんでした。また、英進駐軍の保養クラブとして接収されていた柳屋ホテルは、昭和21年7月に接収されましたが、翌年3月、失火のために全焼し、その接収に終わりを告げます。ホテルに支払われた保険金は434万円でしたが、ホテルの求めた補償額には到底及ばないものでした。
  さらに、農家の人たちにとって土地を接収されることは切実な問題でした。昭和21年に柴野和喜夫知事に提出された、皇子山に住む農家の人たちの嘆願書では、離農者の続出や経済的に困窮することを憂い、代用の土地を求めています。特に、この地域は、戦前から日本軍部に用地を買収されており、長く続く接収は死活問題でした。
  こうした史料からは、なかば強制的に接収を受け、所有する施設や土地を提供した人々の困難な状況がうかがい知れます。

進駐軍で働く人々
   昭和20年の進駐以来、GHQでは多くの日本人が働いていました。接収された琵琶湖ホテルや近江舞子ホテルなどでは、進駐軍が生活するためのホテル業務提供が契約され、ガードマンや通訳、運転手、修理士など多様な職種に日本人が必要とされました。また大津水耕農園では、農薬を扱う化学技術者など専門職につく人もいました。
  こうした日本人労務者の労働条件は、特別調達庁が定めた「連合国軍関係使用人管理厚生規程」に定められていました。その主な規約を抜粋すると、以下のようなものがあります。1、16歳未満の若年者は雇用しない、2、現実に労働した時間によって勤務時間を計算する、3、1日8時間、週40時間以上48時間以下の労働時間、4、組合活動の自由、5、健康保険・厚生年金の支給(基本給の他に、勤務地手当・家族手当・有給休暇出勤手当・特殊作業手当・時間外手当の付加など)。
  日本で労働基準法が施行されたのは、昭和20年のGHQによる民主化指令(労働組合結成の奨励・経済の民主化など)を受けたうえでの昭和22年であり、当時、日本社会全体を通しても労働福祉に対する理解は、まだ充分とはいえませんでした。その中で、進駐軍で働く労務者の労働環境は、県内の他の企業にとっても戦時中と比べて新鮮で、参考にすべきものだったのではないでしょうか。
  ところで、日本人労務者にとっての娯楽の一つは、県によって企画された、進駐兵とその家族とともにおこなう行事の数々でした。たとえば、映画鑑賞会や演劇鑑賞会、日帰り旅行などです。日帰り旅行では、102名の対象者からなる2組の班が2日間に分かれて、それぞれ延暦寺から鹿苑寺金閣、苔寺、東大寺などをまわって交流を深めました。このように、進駐をした側とされた側という立場の違いはありましたが、個人レベルでは職場を通しての交流や相互理解もあったようです。

節目の年
  今年は、第二次世界大戦終結から70年の節目の年です。滋賀県では、GHQ滋賀軍政部が進駐し、サンフランシスコ平和条約による駐留軍へと変化した後も含め、12年間にわたる進駐がありました。しかしながら現在では、当時のことも風化していき、記憶も次第に薄れつつあります。戦争中も含めこの時代をそれぞれの立場で振り返り、平和の意味を見つめ直してはいかがでしょうか。

お問い合わせ
滋賀県県民生活部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
ファックス番号:077-528-4813
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