今回は、「トヨタ自動車75年史」の第1部・「第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場」です。
1.S型エンジン搭載の小型車開発
●ボデーメーカーによる小型乗用車のボデー架装
サイドバルブ(SV)式のS型エンジンは、1946(昭和21)年11月に試作第1号が完成した。それを搭載したSA型乗用車の試作第1号車が誕生したのは、翌1947年1月である。また、S型エンジン搭載の小型トラックについては、1945年12月に設計が開始され、1947年4月にSB型トラックとして発売された。
戦後、乗用車の生産を禁じられていたGHQ(連合国軍総司令部)は、このような乗用車開発の進展を考慮し、1947年6月に1500㏄以下の乗用車の生産を年間300台に限り許可した。
なお、自動車工業の統制は1949年10月まで、自動車の公定価格は1950年4月まで続いた。
SA型乗用車は、1947年10月から1952年にかけて197台が製造された。トヨタ自工は乗用車用シャシーを製作し、これにボデー・メーカーが製作したボデーを架装して、完成車に仕上げた。S型エンジンを搭載した小型乗用車のボデーは、以下の企業で製作・架装された実績がある。なお、( )内の車両型式は、架装メーカーが設定した型式名である。
荒川板金工業で最初に製作した車種は、1947年5月からのSA型乗用車試作車3台である。その後、SB型改造乗用車(SB-A型)、SD型、SF型乗用車のボデーを架装した。
関東電気自動車製造では、1948年12月からSB型改造乗用車(SBPセダン)の製作を開始した。のちに、SD型、SFK型、SHK型(RHK型)、ST10型初代トヨペット・コロナといった乗用車のボデーに加え、ST16Vトヨペット・コロナライン・ライトバンのボデー架装を行った。
中日本重工業名古屋製作所では、1952年2月からSFN型乗用車ボデーの製作・架装を始めた。その後、SHN型(RHN型)乗用車ボデーの製作・架装も行ったが、1954年7月にトヨタ車のボデー業務を終了した。
●ボデーメーカーによる小型トラックのボデー架装
小型トラックについて、は各販売店が指定するボデー・メーカーで架装された。S型エンジンを搭載した小型トラック・小型商用車のボデー架装を行った主な企業は、次のとおりである。
トヨタ車体工業(現・トヨタ車体)は、1947年7月からSB型トラック荷台の架装を開始し(運転台はトヨタ自工製の全鋼製)、1948年1月にはトヨタ車体製の運転台(木骨鉄板張り)と荷台の製作・架装を始めた。さらに、SB型改造ライトバン、SG型トラック、SKB型トヨペット・ライト・トラック、SK20型トヨエース・トラック、SK20V型トヨエース・ルート・バン、SK20P型トヨエース・ダブルキャブなどのボデーを架装した。
関東電気自動車製造では、1949年10月からSB型ライトバン(SBOV型、SBLB型)のボデー架装を開始し、のちにSG型ライトバン(SGV型)などのボデー架装も行った。
セントラル自動車は、1950年10月からSB型改造ピックアップ・トラック(SBU型)のボデー架装を始めた。その後、SG型ライトバン、SG型ステーションワゴン、SG型ダブルピックアップ・トラックのボデーを架装したほか、トヨタ自販直納部からSG型シャシーを利用した各種特装車ボデーの製作・架装を受注した。また、1950年7月には新日国工業京都工場がSB型改造ルートバン(SU型)のボデーを架装し、この車両は日本通運の専売局煙草輸送専用車として利用された。
●トラック・シャシー流用乗用車の増加
トラック・ボデー架装事業には多くの企業が参入し、激しい競争が繰り広げられた。1949(昭和24)~52年の4年間にトヨタ車体で架装されたボデーは、トヨタ自工でラインオフするトラック・シャシー台数の36%にすぎなかった。荒川板金工業、関東電気自動車製造、セントラル自動車の3社の小型自動車(乗用車を含む)ボデー架装台数は月平均63台で、トヨタ車体の108台と合わせて171台になるが、それでもトラック・シャシーの月平均生産台数354台に対して43%にとどまった。つまり、半数以上のシャシーは販売店を経由して、各地方の業者によりボデー架装されていたことになる。トヨタ自工としても、ボデー架装の実態を正確に把握できていなかったのである。
当時の自動車事情をトヨタ技術会の会報『トヨタ技術』は、次のように伝えている。
「然し乍ら世情は吾等の期待した通りにはゆかず、最も簡便なる乗用車の必要から、需要者の間にはSBシャシーに乗用車のボデーを架装することが盛んに行われはじめた。之は設計者にとって思いもかけないことで、敗戦日本が車をつけて走り出したかと思うようなこの出現には全く驚いた次第である。」
戦後、日常生活や経済面で何かと不自由を強いられるなかで、トラック・シャシーに乗用車ボデーを架装するという奇想天外の需要が旺盛になり、シャシー・メーカーとして戸惑いを隠しきれない様子が見てとれる。
トヨタ自工の乗用車シャシー生産台数と、トヨタ自販の乗用車販売台数を(1950年から1955年まで)比較すると……1952年までは乗用車の販売台数が乗用車シャシーの生産台数を上回っていた。上記の引用に見られるように、トラックとして出荷したシャシーに乗用車ボデーが架装され、乗用車として販売されたためである。
1951年10月にはSG型トラックとシャシーを共用するSF型乗用車が発売された。その際、トヨタ自工では、乗用車ボデーの架装メーカーを荒川板金工業(SF型)、関東自動車工業(SFK型)中日本重工業名古屋製作所(SFN型)の3社に定めた。SG型トラックは翌1952年3月に発売されたが、同車種については、乗用車ボデーの架装を原則取り止めとした。その結果、乗用車ボデーの架装業者のなかには廃業を余儀なくされるところも現れ、既述のように、1953年には日本ボディーが解散した。なお、( )内の車両型式は、架装メーカーを識別するために設定した型式名である。
●S型エンジン搭載小型車
S型エンジンを搭載したシャシーの概要は、(省略するが)、型式名は、エンジン型式「S」の後に、開発順にアルファベットを付与して設定された。ボデーについては、統一された名称・分類型式ではなく、ボデー架装メーカーが便宜的につけた型番を用いていた。
S型エンジン搭載シャシーのうち、1957(昭和32)年に開発したトヨペット・コロナST10型は、シャシー・フレームとボデーが一体となった単体構造(モノコック・ボデー)を採用した。それまでのシャシー・フレームを備えた車種とは構造が異なったが、トヨタ自工製の乗用車ボデーを使用したものではなかった。ボデーの製造は関東自動車工業に委託しており、その点ではSA型からSH型に至る乗用車と同じように外注ボデーであった。
●SA型乗用車、SB型トラック
S型エンジンを搭載する車両としては、SA型乗用車の設計が先行していた。しかし、当時は乗用車の生産が認められておらず、トラックの開発を優先すべきとの考えから、SB型トラックの完成を急いだ。SB型小型トラックの設計は、1945(昭和20)年12月に着手され、リアアクスル、ディファレンシャル・キャリア、ブレーキ系については、AC型乗用車の部品を利用することとされた。
SB型小型トラックは、1947年4月に発表となり、生産を開始した。シャシーの仕様は、以下のとおりで、
・全幅 1600㎜
・全高 1725㎜
・車両重量 1200㎏
・標準積載量 1000㎏ (トヨタ技術会『トヨタ技術』1948年3月1日、30頁より)
運転台と荷台はトヨタ車体で架装された。
一方、SA型小型乗用車は、SB型トラックよりも一足早く、1947年1月に試作第1号車が完成した。発表は上述のような事情から、9ヵ月後の同年10月となったが、その間の8月に公募を行い、「トヨペット」の愛称を決定した。これに伴い、SB型トラックはトヨペット・トラックの愛称で呼ばれた。SA型トヨペット・乗用車の仕様は、以下のとおりである。
・エンジン S型(995㏄、27馬力)
・全長 3800㎜
・全幅 1600㎜
・全高 1530㎜
・車両重量 940㎏
・最高速度 80km/h (トヨタ技術会『トヨタ技術』1948年3月1日、30頁より)
SA型の車体は、フォルクス・ワーゲンのビートルに似た流麗な形状で、フレームには1本のパイプで構成されるバックボーン式を用いた。プロペラシャフトは、そのパイプの中を通ってディファレンシャル・キャリアに連結するという、従来のトヨタ車には見られない設計であった。また、前後輪とも独立懸架式とし、前輪はコイルばね、後輪は1本の横置き板ばねを採用した。大変意欲的な設計といえたが、当時の乗用車需要の中心であるタクシーには不向きであり、自家用乗用車としては時期尚早と評された。
性能面では、SA型乗用車の評価を高めるエピソードが残されている。1948年8月7日に行われた急行列車との名古屋・大阪間の競走で、SA型乗用車が大阪行き急行列車に先着したのである。午後4時37分名古屋発の急行第11列車と同時に出発したSA型乗用車は、東海道線とほぼ閉口する旧中山道など、悪路を含む全行程235㎞を平均時速60キロで走破し、列車到着予定時刻の46分前、午後8時37分に大阪駅へ到着した。なお、名古屋・大阪間の鉄道営業キロは194㎞である。
SB型トラックが1952年2月までに1万2796台が生産されたのに対して、SA型乗用車はGHQ(連合国軍総司令部)から許可された限定的な生産にとどまった。
●SC型・SD型乗用車
SC型乗用車は、SB型トラック・シャシーへの乗用車ボデー架装が盛んに行われたことに対応して開発された。1948(昭和28)年6月に前輪独立懸架を採用したSC型の試作車が完成したが、トラック用のビーム懸架(ビーム・アクスル)を採用したSB型トラック・シャシーへの要望が多かったため、SC型乗用車は試作車3台を製作したのみで、開発は中止となった。
SB型トラック・シャシーを利用し、全鋼製乗用車ボデーを架装したのが、SD型乗用車である。1949年6月に関東電気自動車製造で試作車が完成し、同年11月から同社をはじめとするボデー・メーカーで生産を開始した。
SD型乗用車は営業用の車両にターゲットを置き、保守にあまり手のかからない比較的廉価な車として開発された。シャシーはSB型トラックとほとんど同じであるため、部品の大部分は互換性があり、トラック同様の強度を持つことから耐久性に優れていた。トヨペット乗用車SD型の仕様(1950年)は、以下のとおりである。
・エンジン S型(995㏄、27馬力)
・全長 4233㎜
・全幅 1592㎜
・全高 1570㎜
・車両重量 1225㎏
・最高速度 77㎞/h (トヨタ技術会『技術の友』1950年3月1日、口絵グラビア記事より)
関東自動車工業では、1949年9月~51年8月にSD型乗用車を105台生産した。それと並行して、同社はSD型シャシーのトレッドを広げ、ボデーを拡大したSDXの開発を進めた。この改造型車種は、正式にSE型乗用車シャシーとなり、1950年6月から生産が開始された。
また、荒川板金工業では、1950年4月からSD型乗用車ボデーを45台製造した。そのほか、少数ながらワイド・フィールド・モータースや日本ボディーでも製造され、関東自動車工業製の改造型(SDX型)を含めて、1951年12月までにSD型乗用車が665台、SE型乗用車が176台生産された。
●SF型系乗用車、SG型トラック
SD型乗用車にも利用されたSB型小型トラック・シャシーは、乗用車との共用を前提として、さらなる改良が図られた。
1950(昭和25)年春、技術部長の豊田英二取締役は、性能向上と原価低減を目的に、新型トラック・シャシーの設計を提指示した。新型シャシーは、約2年の開発期間を経て、1952年3月にSG型トラック・シャシーとして発売された。主な改良点は、次のとおりである。
- エンジン性能の向上(27馬力から28馬力へ)
- スタイルの近代化(ヘッドランプのフェンダーはめ込み)
- 荷台の拡大(13%の面積拡大)
- サービスの容易化
- 乗り心地の改善(ホイール・ベースの100mm拡大による荷重配分適正化、重心低下による安定性向上、前輪にショック・アブソーバ装着)
- SB型トラック・シャシー部品との共通化
このSG型トラック・シャシーに乗用車ボデーを架装したのが、SF型系乗用車である。荒川板金工業がSF型、関東自動車工業がSFK型、中日本重工業がSFN型の型式名で製造を担当した。SF型乗用車の仕様(1952年)は、以下のとおりで、SG型トラックに先立ち、1951年10月に発売された。
・エンジン S型(995㏄、28馬力)
・全長 4280㎜
・全幅 1594㎜
・全高 1600㎜
・車両重量 1200㎏
・最高速度 79km/h (トヨタ技術会『トヨタ技術』1952年2月1日、5頁より)
両型式のシャシー生産台数は、SF型系乗用車が1951年8月~53年8月に総計3635台、SG型トラックが1952年2月~53年10月に7749台となっている。このうちトヨタ車体が行ったSG型トラックのボデー架装台数をみると、「昭和27年は月平均100台強で当社ボデー架装50パーセントの目標には程遠い」状況であった。SG型トラック・シャシーへのボデー架装の7割強は、関東自動車工業、セントラル自動車、美川自動車(金沢市)をはじめ、多くのメーカーによって行われたと推測されるが、詳しい記録は残されていない。
それは乗用車についても同様であった。SF型系乗用車のボデー架装は、荒川板金工業、関東自動車工業、中日本重工業が中心となったとはいうものの、3社のSF型系乗用車のボデー架装実績は、総計約2600台にとどまり、シャシー生産台数3635台との間に約1000台の差異があった。このころはまだ、工場から出荷後のボデー架装される過程は、トヨタ自販の業務領域であり、トヨタ自工がその実態を詳しく把握できる制度になっていなかった。
●SH型系乗用車、SK型トラック
SH・RH型系乗用車シャシーは、新開発のR型エンジン(1500㏄、48馬力)を搭載するため、SF型系乗用車シャシーを改良したものである。SF型系の場合と同様、ボデーに関しては、SH型(荒川板金工業)、SHK型(関東自動車工業)、SHN型(中日本重工業)と3つの型式を設定した。トヨペット・カストムSH型の名称で、1953(昭和28)年9月に発表されたが、同時発売のRH型系乗用車トヨペット・スーパーRH型が好評であったため、早くも同月いっぱいで生産が打ち切られた。その生産台数は230台である。
SH・RH型系乗用車の発売と同時に、そのシャシーを用いたトヨペット・トラックSK型およびRK型を発売した。SK型トラックは、28馬力のS型エンジンを搭載し、前身のSG型と同じく1トン積みであったが、新開発のR型エンジンを搭載したRK型トラックは、出力が48馬力に増加したことで1.25トン積みとなった。SK型は1953年9月~54年7月に3587台が生産され、そのシャシーはトヨペット・ライト・トラックSKB型に引き継がれた。
●トヨペット・ライト・トラックSKB型
1953(昭和28)年9月にRH型系乗用車トヨペット・スーパーや、RK型トヨペット・トラックが登場すると、顧客の購買志向はこれら出力の大きなR型エンジン搭載車へと傾いていった。
こうした状況に対して、S型エンジン搭載車の需要増大を図るため、低廉、簡素、実用本位の軽トラックの開発が企画された。具体的には、1954年春からボンネット式SK型トラック・シャシーを基礎に、キャブオーバー式車両の設計を進めた。開発にあたっては、生産分担に従って、トヨタ自工がシャシーを、豊田自動織機製作所がエンジンを、トヨタ車体がボデーを担当し、各社の技術陣を動員した。その結果、きわめて短い期間で新型車が完成し、同年9月にトヨペット・ライト・トラックSKB型(トヨエースの前身)として発売された。
小型トラックSKB型とSK型の仕様・諸元は、以下のとおりである。SKB型はSK型と比べて、全長やシャシーの大きさはほとんど同じであったが、荷台内側長が2525㎜へと568㎜(29%)拡張され、キャブオーバー式の特徴が発揮されていた。
項目 SKB型 K型
全長 4237㎜ 4265㎜
全幅 1675㎜ 1674㎜
全高 1850㎜ 1735㎜
ホイール・ベース 2500㎜ 2500㎜
トレッド(前) 1325㎜ 1325㎜
トレッド(後) 1350㎜ 1350㎜
シャシー重量 730㎏ 615㎏
車両重量 1130㎏ 1175㎏
最大積載量 1000㎏ 1000㎏
エンジン S型(30馬力) S型(28馬力)
(トヨタ技術会『技術の友』1955年3月5日、7頁より)
トヨペット・ライト・トラックSKB型に関して特筆すべきは、これまでの小型トラック(SB型、SG型、SK型)のように、シャシーで販売する方式を取りやめ、トラック完成車として販売したことである。トヨタ自販の業務であったボデー製作は、トヨタ自工が管理する生産工程のもとに置かれ、トヨタ車体で行われることになった。一方、完成車販売方式に組み込まれたボデー・メーカーは、トヨタ自工の分工場的な位置づけとなり、製造技術や品質管理、生産管理などの管理技術なども、トヨタ自工と同じ水準が求められた。トヨタ自工は、この完成車販売方式により、車両の販売価格設定と品質保証に責任を持つようになったのである。
ところで、SKB型トラックの価格は、1954年9月の発売時には62万5000円(東京店頭渡し価格。以下、同)であった。同じクラスの三輪車(1トン積み、荷台長2.4m)4機種の平均価格43万5000円と比較すると、SKB型トラックは19万円(44%)も高かった。そのため、当時の不況の影響も加わって販売は低迷し、生産台数は月200台前後と振るわなかった。
翌1955年には「設備近代化5ヵ年計画」による合理化の効果や、同年1月に発売された初代「トヨペット・クラウンRS型」(後述)の内製ボデー架装完成車販売による収益性向上に支えられて、トヨタ自工の利益率は高い水準で推移した。このような好業績を背景に、SKB型トラックの大幅値下げを計画し、1955年暮にはトヨタ車体の生産設備増強を進めた。
1956年1月1日、トヨタはSKB型トラックの価格を56万円に値下げし、同クラス三輪車との価格差を12万5000円(29%)に縮小した。これにより、折からの好景気とも相まって、SKB型トラックの需要は伸長し始めた。さらに、同年5月17日には53万8000円へと値下げしたことで、翌6月の生産台数は1052台に急増した。
1956年にはSKB型トラックの愛称を公募し、7月に「トヨエース」と決定した。トヨエースは、トラックの国民車として、文字どおりエースの地位を占め、トヨタ自動車の1府県複数店方式、いわゆる複数販売店制への移行を後押しする推進役を果たすとともに、三輪車業界が四輪車市場に参入する気運を生んだ。
●トヨペット・コロナST10型
1957(昭和32)年7月1日、初代「トヨペット・コロナST10」が発売された。搭載されたエンジンは、世に出てから10年が経ったS型エンジンである。
1947年にS型エンジンが開発され、SA型乗用車、SB型トラックに搭載されたときの最大出力は27HP/4000rpmであった。その後、S型エンジンは改良され、1957年にコロナST10型に搭載された際の出力は33HP/4500rpmとなった。ちなみに、トルクについては、5.9㎏・m/2400rpmから6.5㎏・m/2800rpmへと向上した。
トヨペット・コロナST10型は、既述のように、関東自動車工業が設計・製造したもので、トヨタ車としては初めて単体構造ボデーを採用した。車両型式のST10は、「S」がS型エンジン搭載を、「T」がコロナ用T型ボデーを、「10」が1番目モデルの標準型セダンを表している。つまり、「S型エンジン搭載初代コロナの標準型セダン」である。なお、この車両型式の設定方法は、1955年11月発売の初代「マスターライン・ピックアップ」(RR16型)、同ライトバン(RR17型)から導入された。ST10型は、4人乗り小型自動車で、すぐに入手可能な既存の部品を使用して設計したことが特徴である。S型エンジンをはじめ、RS型クラウンに用いられている足まわりや駆動、制動、操舵などの各部品、RR型マスターのボデー部品などを利用した。ST10型の仕様は、以下のとおりである。
・エンジン S型(995㏄、33馬力)
・全長 3912㎜
・全幅 1470㎜
・全高 1518㎜
・車両重量 960㎏
・最高速度 90km/h (トヨタ技術会『トヨタ技術』1957年12月25日、2頁より)
当時、トヨタ自工では、1000㏄クラスの新エンジンと新小型乗用車を開発中であった。新型エンジンは、P型エンジンとして完成し、ST10型の発表から2年後、1959年10月にコロナPT10型に搭載された。そして、翌1960年3月にコロナは全面改良され、2代目コロナPT20型が登場した。
新小型乗用車の完成を待たずに、ST10型を開発した事情について、トヨタ自販の神谷正太郎社長は、次のように述べている。
「コロナを製作するにあたって、製作陣営のなかには、必ずしもこれに賛意を表さないものもあって行きまどった。結局、とにかく出して、批判を大衆に聞こう、という販売担当の私の声で、コロナ生産に踏み切ったものである。」
製作陣営であるトヨタ自工は、すでに新小型乗用車を開発中であるところから、ありものの部品を流用して中途半端な車を製造することに難色を示したものと思われる。神谷社長がその反対を押し切り、関東自動車工業に設計・製造を委託することにしたのである。
一方、豊田車の販売にあたるトヨペット店は、1957年6月1日までに48店が設立され、全国展開が完了した。販売車種は、「トヨエース」と命名された小型トラックSKB型、マスターラインのピックアップRR16型、ライトバンRR17型の商用車3種類で、中心となる乗用車がなかった。神谷社長は、トヨペット店のために、コロナST10型の開発を強く主張したといえよう。
こうした事情に加えて、関東自動車工業でのマスターRR型の生産が、1956年11月に累計7403台で打ち切られていた。マスターRR型は、1955年にクラウンとともに発売されたタクシー用乗用車で、関東自動車工業の設計になる車種である。その縮小改造版といえるコロナST10型の製造は、関東自動車工業に対するマスターRR型生産打ち切りの代替策ともなった。
2.大型トラック、全輪駆動車、ディーゼル・エンジンの開発
●大型エンジンの改良
戦時中から継続して生産されていた大型トラックの4トン積みKC型は、4トン積みBM型に改良され、1947(昭和22)年3月から生産された。
大型トラックに搭載されたB型エンジンは、1938年11月の挙母工場の稼働開始とともに生産が始まった。初めて2トン積みGB型トラックに搭載されたときの最大出力は75HP/3000rpmで、その後改良が加えられ、1940年1月には78HP/3000rpmになった。また、1942年に開発された4トン積みKB型トラックや、これを戦時型に簡略化したKC型(1943年)にも78馬力のB型エンジンを搭載した。1947年発売のBM型トラックに搭載されたB型エンジンの出力は82HP/3000rpmである。
トヨタ自工では、既述のように、1940年9月13日の命令第30号に基づき、戦時中もエンジンの研究試作と、それらを搭載した試作車の製造を行っていた。この命令では、B型エンジンの改良による出力85馬力以上のエンジンの研究が指示され、1944年初めに内径を84.1㎜から92㎜に拡大して、出力を100馬力に高めたD型エンジンを開発した。
戦後、この研究を基礎に開発を進め、1948年12月にB型エンジンの内径を90㎜に拡大したF型エンジンの試作機を完成させた。F型エンジンは、当初ブラジル向けなどの輸出用BM型トラックに限定して搭載されたが、1950年には国内向け車種も追加された。開発当時のF型エンジンとB型エンジンの仕様を比較すると、以下のとおりである。
項目 F型 B型
型式 水冷直列6気筒、頭上弁式 水冷直列6気筒、頭上弁式
内径×行程 90.0×101.6㎜ 84.1×101.6㎜
総排気量 3870㏄ 3386㏄
圧縮比 6.4 6.4
最高出力 95HP/3000rpm 82HP/3000rpm
最大トルク 24.0㎏・m/1600rpm 21.6㎏・m/1600rpm
(『BM型トヨタトラック』カタログ(1950年)「エンジン仕様書」抜粋)
F型エンジンには、戦時中の研究開発の成果として、軽合金製のピストンや改良された潤滑方式などが盛り込まれ、効率のよい出力増加が実現された。その後もB型・F型エンジンについては、機会のあるたびに改良を実施し、性能の向上を図っていった。
●BX型トラックの開発
4トン積みBX型トラックは、エンジンが改良されたとはいうものの、1942(昭和17)年3月に生産を開始したKB型トラックと質的水準はほとんど変わりがなかった。トヨタ自工では、このような戦中から戦後にかけて生じた技術とスタイリングの停滞を取り戻すため、新大型トラックBX型の開発を計画し、1949年11月に本格的に着手した。
開発はおおむね計画どおりに進行し、目標とする1950年8月には切り替えが行える状況になった。ところが、同年4月におこった労働争議により2ヵ月の遅れを余儀なくされたほか、その後に行われた人員削減、朝鮮特需への対応などが重なり、結局、BX型トラックの発売は、1951年8月までずれ込んだ。
4トン積みBX型トラックの仕様は、以下のとおりであり、特徴としては、次の点があげられる。
- 運転台のボデー・スタイルが飛躍的に近代化され、居住性も向上した。
- シャシーのフレーム関係の強度が増した。
- 車体加工を簡素化し、加工工数をBM型トラックに比べて30%低減した。
- 左ハンドル仕様を織り込んで設計し、その製造を容易にした。
- 運転台を全鋼製とし、完成運転台付きシャシーを基本として販売するようにした。
BX型トラックの仕様(1951年)
・エンジン B型(3386㏄、82馬力)
・ホイール・ベース 4000㎜
・全長 6610㎜
・全幅 2190㎜
・全高 2190㎜
・シャシー重量 960㎏
・車両重量 2970㎏
・積載重量 4000㎏
・最高速度 70km/h (トヨタ技術会『トヨタ技術』1951年6月1日より)
それまでのトラック販売は、エンジン・ルーム付きシャシーで販売店に引き渡されるのが通常であった。運転台(木骨鋼板張り)と荷台は、顧客の要望に応じて、販売店の手配によりボデー・メーカーで架装されていた。BX型トラックではこの方式を改め、全鋼製の完成運転台をトヨタ車体で架装して、販売店へ出荷することが基本になった。
しかし、当初は従来のボデー架装方式に慣れた販売店の要望から、運転台付きの出荷は少なかった。その後、プレスや溶接などのボデー製造設備の量産体制が整うとともに、全鋼製の完成運転台付きシャシーの品質と価格の優位性が認められるようになり、完成車販売が普及し始めた。ボデー・メーカーは、トヨタ自工の製造工程と不可分の関係になったのである。
1951年9月にはBX型トラックのエンジンをB型(82馬力)からF型(95馬力)に変更したFX型トラックを発売した。また、積載量の増大志向に対応し、1954年4月に4トン積みBX型・FX型トラックの全面改良を行った。
続いて、1955年には改良B型エンジン(85馬力)搭載の4トン積みBA型トラックと、改良F型エンジン(105馬力)搭載の4.5トン積みFA型トラックを発売した。このうち4.5トン積みFA型は、同年9月に5トン積みFA5型に変更された。
1950年代半ば以降、高度経済成長の幕開けを背景に、トラック輸送の長距離化・大量化の傾向が強まった。こうしたニーズに応えて、1956年4月に5トン積みFA5型をFA60型に大幅改良し、4トン積みBA型を廃止した。また、燃料経済性の高いディーゼル・トラックの需要が増大したことを受け、1957年3月にFA60型のF型ガソリン・エンジンを新開発のD型ディーゼル・エンジンに換装した5トン積みDA60型トラックを発売した。
●ランドクルーザーなどの全輪駆動車の開発
1950(昭和25)年8月、米軍および発足直後の警察予備隊から、四輪駆動の1/4トン積みトラック(ジープ型)と3/4トン積みトラック(ウエポン・キャリアー)の試作要請を受けた。朝鮮戦争が勃発してから2ヵ月後という、騒然とした世相のなかでの発注であった。
戦前、トヨタ自工では陸軍の求めに応じて、四輪駆動車を生産した経験があった。その経験と残存部品を活用と同時に、SB型トラックの後車軸などの足まわり部品を利用し、わずか5ヵ月の開発期間で、1951年1月に1/4トン積みトラック(ジープ型)の試作車を完成させた。このトヨタBJ型四輪駆動トラックは、ジープ型トラックであるところから、通称「トヨタ・ジープ」と呼ばれた。しかし、「ジープ」は米国ウィリス社の登録商標であるため、通称名を変更する必要が生じ、「トヨタBJ」と改めたのち、1954年6月に「トヨタ・ランドクルーザー」と正式名称を設定した。トヨタBJ型四輪駆動トラックの仕様は、以下のとおりである。
トヨタBJ型四輪駆動トラック(初代ランドクルーザー)の仕様(1951年)
・エンジン B型(3389㏄、82馬力)
・ホイール・ベース 2400㎜
・全長 3793㎜
・全幅 1575㎜
・全高 1900㎜
・シャシー重量 ―
・車両重量 1230㎏
・最大積載重量(乗員込み) 360㎏
・最高速度 100km/h
(トヨタ技術会『トヨタ技術』1951年4月1日、2頁)より)
1955年11月にはBJ型ランドクルーザーの全面改良を実施し、BJ25型系とするとともに、F型エンジンを搭載したFJ25型系を追加して発売した。BJ型が軍事用を重点に開発されたのに対して、BJ/FJ25型系は一般民間用として広く使用されることを目的としていた。具体的な改良点は、ホイール・ベース短縮による機動性の向上、シンクロメッシュ方式の採用によるトランスミッション操作性の向上、室内空間の大幅拡大による居住性の向上、板ばねの変更による乗り心地の改善であった。
こうした機能・性能の改善に加えて、富士山6合目まで走破したランドクルーザー本来の踏破性能の高さは、世界の山岳地帯、砂漠地帯の国々で高く評価され、輸出先国と輸出台数は大幅に伸びていった。すなわち、1955年にトヨタの輸出先国は14ヵ国、ランドクルーザーの輸出台数は98台であったが、1956年に35ヵ国・518台、1957年には47ヵ国・2502台へと急伸した。
一方、3/4トン積み四輪駆動トラックは、1951年1月にBQ型試作車として完成し、翌2月には警察予備隊による公式試験が行われた。BQ型四輪駆動トラックも、戦時期の技術的経験を生かして開発され、数次にわたる運行試験を繰り返したうえで正式採用となった。
また、BQ型の開発に並行して、1951年8月から2.5トン積み六輪駆動トラックFQS型の開発に着手し、1952年2月にその試作車が完成した。FQS型六輪駆動トラックは、約1年をかけて警察予備隊(保安隊)の試験をクリアし、1953年2月に正式採用となった。
これらの全輪駆動トラックは、その後逐次改良され、1958年以降、APA特需車両(後述)として大量に納入された。
●D型ディーゼル・エンジンの開発
トヨタ自工でのディーゼル・エンジンの研究は早くから取り組まれ、1939(昭和14)年ごろにはユンカース社製ディーゼル・エンジンを参考に開発が始まっていた。しかし、業界や官庁などとの関係から、戦前には商品化されるに至らなかった。
戦後、1948年春ごろにディーゼル・エンジンの研究室を蒲田工場内に設け、専門家の長野利平や岡剛らを招聘して、改めてディーゼル・エンジンの研究開発を開始した。その結果、1950年にはY型およびZ型ディーゼル・エンジンが5台ずつ試作された。
Y型・Z型ディーゼル・エンジンの仕様(1950年)
項目 Y型 Z型
型式 4サイクル、予燃焼室式、4気筒 2サイクル、予燃焼室式、2気筒
内径×行程 105×140㎜ 85×88㎜
総排気量 4850㏄ 1000㏄
圧縮比 17:1 17:1
最高出力 70HP/2300rpm 35HP/3000rpm
(「トヨタ自動車製造・計画車両一覧表」1950年11月9日)
この間、1950年4月からの労働争議により、蒲田工場は同年6月に閉鎖され、ディーゼル・エンジンの研究は挙母の本社に移管された。同年中にBM型トラック改造車を用いてY型ディーゼル・エンジンの試験を開始し、1951年3月にはBX型トラック改造車でも試験を行ったが、結局このときも商品化に至らなかった。こうして、ディーゼル・エンジンの研究は再び中断することになった。
その後、ディーゼル・エンジンの開発は、1954年10月に再開され、翌1955年8月にはD型ディーゼル・エンジンの試作機が完成した。同エンジンをBA型トラックに搭載した改造試作トラックが製作され、各種試験・改良を行ったうえで、1957年3月にDA60型トラックとして発売された。
D型ディーゼル・エンジンの製作は、トヨタグループ各社が協力し、シリンダーブロックとシリンダーヘッドの鋳造・機械加工は豊田自動織機製作所、クランクシャフトの機械加工は豊田工機、歯車類の機械加工は愛知工業、噴射ポンプとディーゼル・エンジン用電飾品は日本電装、組立はトヨタ自工が分担した。同エンジンの仕様は、以下のとおりである。
D型ディーゼル・エンジンの仕様(1957年)
・型式 4サイクル、予燃焼室式、直列6気筒
・内径×行程 100×125㎜
・総排気量 5890㏄
・圧縮比 17.2:1
・最高出力 110HP/2600rpm
・最高トルク 35m・㎏/1200rpm
(トヨタ技術会『トヨタ技術』1957年9月1日、6頁より)
ところで、ディーゼル・エンジンの性能は、心臓にも例えられる燃料噴射ポンプの性能に大きく依存している。D型ディーゼル・エンジンの場合、西ドイツのロバート・ボッシュ社から技術導入した日本電装製の燃料噴射ポンプが用いられた。
ロバート・ボッシュ社からの技術導入の話は、1951年秋に相談役となっていた豊田喜一郎のもとへ、三島徳七博士からもたらされた。三島博士は、喜一郎と東京帝大工学部の同期で、MK磁石鋼の特許がロバート・ボッシュ社に供与された関係から、同社は日本企業との技術提携を三島博士に打診した。三島博士はトヨタ自工の創業期に研究顧問を務めたことがあり、喜一郎相談役を通じて日本電装へ技術提携の話が伝えられたのである。
日本電装とロバート・ボッシュ社は、1953年11月に電装品に関する技術援助契約を締結し、1955年2月には燃料噴射ポンプとスパークプラグに関する条項を契約に追加した。この契約に基づき、日本電装はロバート・ボッシュ社の設計・製作指導のもと、1956年3月に噴射ポンプの試作第1号を完成させた。
D型ディーゼル・エンジンの開発当初は、ロバート・ボッシュ社製の噴射ポンプや噴射ノズルを用いて試験を行ったが、日本電装の製作技術が進展するに伴い、逐次同社製の部品に切り替えられていった。その後、1957年3月14日にD型ディーゼル・エンジンを搭載した5トン積みDA60型トラックが発売されるころには、日本電装製噴射ポンプの性能は完全にロバート・ボッシュ社製と同一水準に達していた。
●C型ディーゼル・エンジンの開発
1957(昭和32)年、DA60型トラックの発売に際して、通商産業省は既存のディーゼル・トラック・メーカーを保護する観点から、反対の意を表した。豊田英二専務は、同省重工業局に呼び出され、生産・販売の中止を要請された。
トヨタ自工は、戦前から戦後にかけて過当競争を理由に、ディーゼル・エンジン・トラックの開発をたびたび中止させられてきた。大学の卒業設計に「自動車用ヂーゼル機関」の図面を提出し、入社後もユンカース式ディーゼル・エンジンなどの研究開発に携わった経験を持つ英二専務としては、長年の思いを断ち切るわけにはいかなかった。しかも、1500㏄クラスの乗用車用小型ディーゼル・エンジン(開発番号:3E 、製品型式:C型)の施策が955年末に完成し、同エンジンを搭載した車両の発売が準備中であった。このエンジンは、豊田章一郎取締役検査部長が大学の研究室で行ってきた燃料微粒化の研究を基礎に、開発が進められてきたものである。
また、既述のように、日本電装は1955年2月に政府の認可を得て、ロバート・ボッシュ社から噴射ポンプの技術を導入し、その生産を開始していた。したがって、いまさら通商産業省の生産・販売の中止要請を受け入れることはできなかった。
トヨタ自工は既定の方針どおりに進むことを確認し、乗用車用小型ディーゼル・エンジンC型を搭載したCS20 型クラウン・ディーゼルの試作車を、1958年10月11日~20日開催の第5回全日本自動車ショーに出品した。そして、翌年10月19日から同車種の販売をスタートさせた。
なお、クラウン・ディーゼル試作車に搭載した「自動車用小型ディーゼル機関(C型)」は、当時世界最小の乗用車用ディーゼル・エンジンとして、その独創性と優秀な性能が評価され、1958年度の日本機械学会賞(製品の部)を受賞した。
CS20型クラウン・ディーゼルの発売と同時に、D型ディーゼル・エンジンの内径を拡大し、排気量と出力の増大を図った2D 型ディーゼル・エンジン(6494㏄、130HP/2600rpm)も発売された。初期のD型および2D型ディーゼル・エンジンは、構成部品の耐摩耗性や耐久性に問題があったが、着実な改良の積み重ねにより、これらの課題を解消していった。
その後、5~6トン積みから8トン積み、10トン積みへとトラックの大型化が進行したのに伴い、5~6トン積みトラック用のD型系ディーゼル・エンジンの需要は縮小し始めた。これに対して、乗用車の需要が急増したため、エンジン生産は乗用車用に重点が置かれるようになった。大衆乗用車として初代カローラが誕生した1966年には、1月にD型系ディーゼル・エンジンの組立が豊田自動織機製作所共和工場に移管された。同工場では、鋳造から機械加工・組立まで一貫生産を行った。
一方、CS型ディーゼル・クラウンは、1060年10月に3R型エンジン(1897㏄、90HP/5000rpm)を搭載したRS31型クラウン1900・デラックスが登場すると、最高出力が40馬力にとどまるC型ディーゼル・エンジンの力不足が目立つようになった。同エンジンは、1500㏄クラスR型エンジンのシリンダーブロックをそのまま流用して、渦流室式燃料室を採用した実験的なエンジンであった。
C型ディーゼル・エンジン(CS20型クラウン・ディーゼルに搭載)の仕様(1959年)
・型式 4サイクル、渦流室式、直列4気筒
・内径×行程 78×78㎜
・総排気量 1491㏄
・圧縮比 19:1
・最高出力 40HP/4000rpm
・最高トルク 8.5m・㎏/2400rpm
(トヨタ技術会『トヨタ技術』1959年9月30日、52頁より)
出力を高めるには、改めてシリンダーブロックを作り直す必要があり、C型ディーゼル・エンジンの生産は、1961年をもって打ち切られた。
1964年にはD型系やC型のディーゼル・エンジンで得た経験を生かし、3R型エンジンと同等の出力を有するJ型ディーゼル・エンジンが開発された。生産を担当したのは、豊田自動織機製作所共和工場である。
以後、トヨタ車のディーゼル・エンジン生産は、豊田自動織機製作所に引き継がれ、排気量の大きさを考慮しなければ、生産台数では世界のトップクラスの座を占めるようになった。
3.本格的乗用車トヨペット・クラウンの開発
●国産技術による独自の開発
1950(昭和25)年ごろになると、経済復興の進展に伴って、タクシー用乗用車の需要が増大し、外国製乗用車の輸入自由化に対する要望が強まった。国内自動車メーカーの乗用車の生産制限は、GHQ(連合国軍総司令部)によって1949年10月に解除されたばかりであったが、こうした動きに対応して、本格的な乗用車の開発を急ぐ必要があった。
トヨタ自工では、トヨペット乗用車として、SA型、SD型、SF型系、SH・RH型系を販売してきたが、それらはトヨタ自工製のシャシーに、ボデー・メーカーが設計・製造したボデーを架装したものであった。トヨペットの名を冠しているものの、このような販売形態をとっている限り、本格的な乗用車を提供することは難しかった。そこでまず、自社で製造した製品に対して、販売価格と品質保証に責任をもてる体制の確立に取り組んだ。
1952年7月26日、トヨタ自工の石田退三社長は、第13回国会第36回参議院運輸委員会に、業界関係者5人とともに参考人の1人として出席した。その際、国産乗用車の小売価格は販売店が自由に設定し、トヨタ自工は責任をもって定価提示ができない状況であったと述べている。これを是正するため、トヨタ自工では、1951年8月発売のBX型トラックから、自社設計による全鋼製完成キャブ付きシャシーで出荷していた(キャブはトヨタ車体製)。完成車として出荷することにより、トヨタ自工が定価の設定や品質保証の責任を担う体制を目指したのである。
また、石田社長は参議院運輸委員会での質問に答えて、「私どもの技術が追いつかんようなことなら、私も今日のお叱りに従って、あえて国産車をやめるというくらいの気構えは持っておるのであります」、「必ず近い将来において、或る程度よくやったと言われるような時代が来ると思って私どもは実は楽しみにいたしております」と述べている。トヨタ自工は、国産技術によって乗用車を開発する方針であり、それを近い将来実現してみせるとの決意を控えめに表明した発言であった。
当時、国内の自動車業界では、乗用車の生産に関して外国メーカーとの技術提携が相次いで行われた。三菱重工業が米国のカイザー・フレーザー社と提携し、1951年6月から乗用車「ヘンリーJ」の組立生産を開始したのを皮切りに、1952年7月に日野ヂーゼル工業(現・日野自動車)がフランスのルノー公団と乗用車「ルノー4CV」製造・販売に関する提携を、同年12月に日産自動車がイギリスのオースチン社と乗用車「オースチンA40」に関する技術提携を、1953年2月にはいすゞ自動車がイギリスのルーツ社と乗用車「ヒルマン・ミンクス」に関する技術提携を結んだ。
このような状況のなかで、トヨタ自工は純国産技術による開発を表明したのである。ジャーナリズムの評価は、トヨタ自工を時流に乗り遅れた田舎会社とする向きがあった半面、外国技術の導入に走る企業への批判的な見方も存在するなど、国産乗用車の行方が各方面の関心を集めた。
トヨタ自工にとって、豊田佐吉、喜一郎以来の自助努力による研究と創造の信念から、乗用車を自主開発するのは当然のことであった。この年(1952年)の3月に急逝した喜一郎の指示に基づき、トヨタ自工ではすでに1月から本格的な乗用車の開発を開始していた。
さらに、石田社長の発言で注目されるのは、「一つのボデーのプレス化によって相当額引下げもできるであろうということを期待しております」と述べている点である。新型乗用車の第2次試作モデルが完成していた1952年7月の時点では、ボデーをプレス成形パネルで構成する方針が固まっており、それによる製造原価の引き下げが期待できるとの趣旨であった。ただし、トヨタ自工では、車両本体の開発より前に、エンジンの開発が進んでいた。
●R型エンジンの開発
1947(昭和22)年4月発売のSB型小型トラックに搭載されたS型エンジンは、当初からボデーの大きさに対して、エンジンの力不足が指摘されていた。これを受けて、トヨタ自工では、1948年初めにS型と同じくサイドバルブ(SV)式を採用した1500㏄エンジンの試作を決定し、P型エンジンを製作した。
S型・P型・R型第1次試作エンジンの仕様比較
項目 S型(1947年) P型(1948年) R型第1次試作(1951年)
型式 水冷、直列4気筒、SV式 左同 水冷、直列4気筒、OHV式
内径×行程 65×75㎜ 不明 75×82㎜
総排気量 995㏄ 約1500㏄(詳細不明) 1449㏄
最高出力 27HP/4000rpm 40.5HP/3800rpm 44.6HP/4000rpm
(『トヨタ技術』より)
その後、運行試験データの解析結果などから、性能の優れたオーバー・ヘッド・バルブ(OHV)式に変更することになり、1951年1月にはR型エンジンの第1次試作が完成した。SB型トラックにR型エンジンを載せ換えて、性能の確認を行ったうえで、同エンジンの量産を決定し、1952年3月に設計が完了した。
ところが、同年5月に豊田英二専務から内径と工程の寸法変更の提案があり、両寸法が等しいスケアになるべく近づけるように設計を変更することになった。その理由は、(1)OHV式エンジンの全高および重心位置が高くなることをできる限り抑える、(2)エンジンの回転数を高くできる、(3)新設計の外車に搭載されているエンジンはほとんどスケアである、などの点があげられている。1952年8月に設計が完了した最終的なR型エンジンの仕様は、以下のとおりである。
R型エンジンの仕様(1952年)
・型式 水冷直列4気筒、OHV式
・内径×行程 77×78㎜
・総排気量 1453㏄
・圧縮比 6.8:1
・最高出力 48HP/4000rpm
・最大トルク 10㎏・m/2400rpm
(『トヨタ技術』1954年1月1日、9頁、「R型エンジン」より)
R型エンジンは、A型エンジン以来のトヨタ伝統のOHV式を採用した。部品・設計面では、カーター型下向通風キャブレター、濾紙式エア・クリーナーをはじめ、種々の機構・装置などがB型エンジンと共通していた。その外観はB型エンジンに酷似し、一見してトヨタ開発エンジンとわかる印象であった。
R型エンジンを搭載した車種としては、1943年9月にSF型系乗用車を改造したトヨペット・スーパーRH型系乗用車と、SG型トラックを改造した1.25トン積みトヨペット・トラックRK型が発売された。RH型系乗用車は、関東自動車工業製(PHK型)と三菱重工業製(RHN型)の2種類があり、ボデーは従来どおり、それぞれの会社が設計・生産を担った。そのため、これらの乗用車に関しては、トヨタ自工が価格設定や品質保証を行うことは難しかった。
R型エンジンの出力は48馬力となり、S型エンジンの28馬力に対して、大幅に増大したにもかかわらず、燃費では大差がなく、経済性に優れていた。その出力を生かした走行性能は格段に向上し、RH型系乗用車を試乗したタクシー業界関係者は、乗り心地、力、運転性にまったく問題ないと評価した。
生産体制については、設備近代化5ヵ年計画の後半で、挙母工場機械工場の専用工作機械を主体とする最新鋭の生産設備が整えられ、発売直前の1953年7月には月産500台のR型 エンジン・ラインが完成した。また、R型エンジンを搭載すべき新型乗用車も、1952年1月から開発が始まっていた。
●トヨペット・クラウンRS型の開発
豊田喜一郎の社長復帰が決まった1952(昭和27)年1月、新型乗用車の開発がスタートした。開発責任者に命じられたのは、車体部次長の中村健也である。中村は、自社製クリヤリング型2000トン・プレス機の製作責任者として、10年間にわたる奮闘の末、1951年6月に完成させた実績があった。
今回の新型乗用車は、ボデーメーカーへのボデー設計・製作の委託を取りやめ、自社内でのボデー製造・架装により、完成車として出荷する計画であった。まず、1952年1月に当時の大口顧客であるタクシー業界へ聴き散り調査を行い、トヨタ自販の市場調査結果なども参考に、これまでのトラック・シャシーの流用とはまったく異なる発想から、乗用車専用シャシーの設計方針を策定した。中村が記した「トヨペットクラウンRS型乗用車の誕生」によると、具体的に次のようなコンセプトが決定された。
「最初仕事に着手するため設計方針として、当時売出中のSFを画期的に改良し、床の低い乗心地の良い運転性能のすぐれたものにして、従来の特色である堅牢さを失わず、悪路にも充分耐える車とする。それをさらに具体的に書くと、アメリカ風小型規格一杯の寸法、明るく軽快な感じ、貧弱に見えない車。重量1200㎏、タクシー用格安車、1500㏄エンジン、リモートコントロール・ミッション、フロント・ニーアクション、最高速度100㎞以上、etcであった。」
そして、大きさは小型車の寸法規格内で最大とし、板金試作車4モデルの製作に着手した。車両型式はRS型と設定され、車名もすでに喜一郎の発案で「クラウン」と決まっていた。
その製作に取りかかった矢先、1952年3月27日に創業者豊田喜一郎が突然亡くなった。本格的な乗用車の開発は、喜一郎が長年抱いていた構想であり、それがいよいよ実現に向けて動き出したなかでの死に、開発陣の落胆は大きかった。
スタイル検討用の4試作モデルは、1952年4月23日までに実寸大の手叩き板金製で完成した。1号車は米国「ヘンリーJ」モデル、2号車は米国「キャディラック」モデル、3号車は米国「ナッシュ」モデル、4号車は英国フォード「ゼファー」モデルであった。
その後、1次試作モデルの1・2号車を修正し、同年6月6日までに2次試作モデルとして2台を製作した。さらに、2次試作モデルの両車を1台に合わせて、9月1日までに3次試作モデルを完成させた。3次試作モデルの輪郭は、ほぼ完成車に近い形になっており、スタイルは9月中に最終決定したと思われる。
1953年1月にはRSボデー設備会議を開催し、溶接機の発注手配を決定する一方、製品設計と並行してボデー内製用設備の検討を進めた。そして、同月中にまとめられた仕様に基づき、RS型乗用車の設計を開始し、3月には試作用図面の作成を終えた。これを受けて、4月4日に豊田英二常務、齋藤尚一常務の連名で「RSに関する件」が発せられ、試作車の製作段階に入った。
なお、同年5月1日には技術部門の組織変更が行われ、技術部に主査室が設置された。RS型開発責任者の中村は、主査室の主査として、「エンジン、車両の設計から生産準備までを総合して推進」する役割を担った。
RS型乗用車の第1次試作では、1号車から8号車までの8台が製作された。1号車は1953年6月に完成し、早速実施した走行試験の結果に基づき、「RS第一次試作車改造要領」を作成した。ついで、1号車の改造車と2号車を用いて、9月15日~10月3日に昼夜兼行で交互に挙母・静岡間往復(320㎞)と、挙母・京都間往復(360㎞)を走行する試験を行った。1号車の走行距離は、その前の運行試験を加えると1万4000㎞を超えた。
1次試作車8台による耐久試験、シャシー試験、ボデー試験、ベンチ試験などの成果を取り入れ、1954年2月から2次試作車6台(11~16号車)の製作を開始した。7月12日~8月16日には12・13号車を使用し、タクシーの走行条件よりも厳しい2万㎞の運行試験を行った。このような試験結果を踏まえ、試作車の改善を進めたことで、最後の試作車である16号車は、サンプルカーとして運輸省認定試験に用いられるほど完成度の高い車両となった。
RS型乗用車の最大の特徴は、ボデーを内製して完成車として出荷することにあったため、ボデーとシャシーを一体ととらえ、綜合的な設計を心がけた。製造設備に関しては、設計技術者と生産技術者との密接な共同作業のもとに、工場計画や設備設計を立案し、その際の検討内容は設計細部にも反映された。
ボデー設計では、手作業による打ち出し板金加工を廃し、プレス機で成形した鋼板を溶接する方法を採用した。そのため、鋼板を成形するプレス機や、各プレス部品を固定する溶接治具、それを接合するための抵抗溶接機やアーク溶接機など、機械設備が多数必要となった。ボデー製造設備の費用としては、1954年までに車体工場の建物増築を含めて総額10億円を要したが、そのうちプレス型だけで約4億円が投資された。
●トヨペット・マスターRR型の開発
RS型乗用車の開発と並行して、1953(昭和28)年10月には関東自動車工業製RHK型乗用車の後継車として、RR型乗用車の開発が始まった。RS型乗用車が前輪独立懸架を採用したのに対して、RR型乗用車はRHK型を踏襲したビーム式前輪懸架である。その頑丈な構造から、使用条件が過酷なタクシー業界をターゲットとした。シャシーについては、RHK型乗用車から引き継いだ部品とRS型乗用車と共用する部品で構成された。
RR型乗用車の開発責任者は主査室の薮田東三主査が務めたが、ボデーの設計は関東自動車工業がそれまでどおり担当したRS型乗用車は完成車販売とする方針であったことから、関東自動車工業が行っていたRHK型乗用車の架装事業が消滅するため、急遽その後継車としてRR型乗用車のシャシーは、トヨタ自工の挙母工場で製造され、そこからボデー架装のため、神奈川県横須賀市の関東自動車工業へ送られた。1954年3月にはRR型試作車の第1号が完成し、同年9月から量産を開始した。
RR型乗用車は、「トヨペット・マスター」と命名され、「トヨペット・クラウン」と同時に、1955年1月8日に発売された(それらの仕様は省略する)。
また、関東自動車工業では、トヨペット・マスターRR型のシャシーを改造し、変わり型ボデーを架装した「マスターライン」シリーズを開発した。同シリーズの車種としては、同年9月発売のマスターライン・シングル・ピックアップRR16型、マスターライン・ライトバンRR17型、1956年8月発売のマスターライン・ダブル・ピックアップRR19型があった。
その後、1956年12月にトヨペット・マスターRR型は販売が中止され、関東自動車工業はマスターライン・シリーズを中心に製造することになった。同シリーズは、1959年3月までに3車種合計で約1万9400台が製造された。
なお、関東自動車工業では、既述のとおり、1957年7月にトヨペット・マスターRR型のボデーを利用し、初代「トヨペット・コロナST10型」を開発している。
●日本初の本格的乗用車
トヨタ初の乗用車は、1935(昭和10)年にシボレー車とデソート車を参考に設計されたトヨダAA型乗用車である。カタログには「スタンダード・セダン」と表示されていたが、それは自動車先進国の米国から見てのスタンダードであった。当時の日本の国情からすれば、「大型乗用車」であり、「スタンダード」といえるものではなかった。
しかし、AA型乗用車がその後の自動車設計、製造技術の基になったことは間違いなく、トヨタ自工ではその技術を基盤として、独力で日本初の本格的乗用車「トヨペット・クラウン」を開発した。つまり、クラウンの登場によって、日本の国情に適合したスタンダード・セダンが初めて誕生したのである。
当時の自動車雑誌は、RS型クラウンの発売について、「新トヨペット 豪華、国際水準のクラウン 実用本位のマスター」のタイトル記事で、次のように伝えている。
「新トヨペットに接して“流石はトヨタ”であるの感を深めたのは筆者だけではなかったと思う。国産車のためにホッとしたというのは偽りのないわれわれの心境であり、国際水準の構造と機能をもつだけでなく、日本の道路や使用状況に応じた“懸架装置や制動装置に対する考慮”など大いに感服するに値するものがあり、国産車として正にわが意を得たものである。」
このように、クラウンは日本の国情に配慮した国産車として、高い評価を得ていた。そして、トヨタ製乗用車の基準となる仕様を確立すると同時に、のちの国産乗用車にも大きな影響を及ぼした。
●特徴的な装置・機構
(1)スケア・タイプの高速型エンジン
クラウンに搭載のR型エンジンは、1953(昭和28)年9月にRH系乗用車トヨペット・スーパーや、トヨペット・トラックRK型に初めて搭載された。このエンジンは、口径と行程の寸法が77㎜×78㎜とほぼ等しく、スケア・タイプの高速度エンジンである。クラウンの発売時には、すでに1年以上の使用実績があり、性能・品質は安定していた。RS型・RR型の発売直後に監査改良室が集約した不具合報告にも、エンジン本体に関するものはなかった。
R型エンジンが登場した1953年当時、外国メーカーとの技術提携により販売されていた乗用車のエンジンは、以下のとおりである。
外国メーカーとの提携による乗用車搭載のエンジン(1953年)
エンジン名 型式 口径×行程
オースチンA-40用エンジン OHV式、1200㏄、42HP 65.4㎜×88.9㎜
ヒルマン・ミンクス用エンジン SV式、1265㏄ 37.5HP 65㎜×95㎜
ルノー4CV用エンジン OHV式、748㏄、21HP 54.5㎜×80㎜
(雑誌『モーターファン』より)
その口径(ボア)と行程(ストローク)の関係を見ると、前者よりも後者が長いロングストローク・エンジンが主流であり、国産勢のプリンス(75㎜×84㎜)やオオタ(61.5㎜×76㎜)も同様であった。しかし、クラウンが発売された1955年には、早くもヒルマン・ミンクス用に76.2㎜×76.2㎜(オーバー・ヘッド・バルブ<OHV>式、1390㏄、43HP)のスケア・タイプの新エンジンが現れている。その後、R型エンジンは2R型(78㎜×78㎜、1490㏄)に改良され、さらに3R型(88㎜×78㎜、1897㏄)では、口径が行程よりも大きいオーバースケア・タイプへと進化した。
また、R型エンジンのシリンダーブロックを利用し、小型高速ディーゼル・エンジンが開発された。1500㏄クラスの乗用車用小型ディーゼル・エンジン(開発番号:3E、製品型式:C型)の試作が1955年末に完成し、1958年度の「日本機械学会賞(製品の部)」を受賞したことは、既述のとおりである。
R型系エンジンの最終の型式となった22R型(92㎜×89㎜、2366㏄、115HP/5100rpm)は、マイクロバスのコースターに搭載された。シリンダーブロックの外形寸法があまり変わっていないにもかかわらず、初期のR型エンジンの排気量・出力に対して、それぞれ1.6倍、2.4倍の増大を実現した。ちなみに。R型系エンジンのなかで最も出力が大きかったのは、初代コロナ・マークⅡGSSに搭載された10R型(86㎜×80㎜、1858㏄、140HP/6400rpm、DOHC、ツインキャブレター)である。
このように、R型系エンジンは改良が重ねられ、高出力化・高速化によく適応したため、1994(平成6)年まで41年間にわたって活躍した。
(2)シンクロメッシュ機構付き常時噛合い式トランスミッション
トヨタ自工の初期のトランスミッション(変速機)は、G1型トラックやAA型乗用車をはじめ、すべての車種が手動による選択摺動式の変速操作であった。選択摺動式は、回転する2つの歯車を円滑に噛み合わせる操作に熟練を要し、変速条件によってはダブルクラッチと称する煩わしい操作を必要とした。
これに対して、クラウンに採用した変速機は、前進3段変速である。トップおよびセカンド・ギアにシンクロメッシュ機構付き常時噛合い式ヘリカル・ギアを採用したことで、選択摺動式に比べてより円滑に変速操作ができた。その後、変速操作をいっそう容易にするため、全段にシンクロメッシュ機構を採用したオール・シンクロ、あるいはフル・シンクロと呼ばれるトランスミッションを開発するなど、性能の向上を図った。さらに、この分野での技術は、変速時のクラッチ操作をなくした自動クラッチ「サキソマット」や、クラッチと変速切り替えの操作が不要な自動変速機「トヨグライド」へと発展していった。
このような点から、RS型クラウンに搭載されたシンクロメッシュ機構付きトランスミッションは、トヨタ自工におけるイージー・ドライブ化の出発点とも位置づけられる。
(3)前輪独立懸架と後輪3枚板ばね懸架
クラウンの前輪懸架は、トヨタ車で初めて独立懸架方式が採用された。わが国の道路事情に合わせ、最も普遍的なウイッシュボーン型を快適な乗り心地が得られるように改良するとともに、信頼性と耐久性を高める設計とした。
後輪懸架には、東京大学の亘理厚博士が研究開発した3枚板ばねを用いた。この新しいばね方式は、全長や幅が大きい板厚の3枚ばねを使用するもので、軽量・柔軟なうえ、ばね間の摩擦が少なく、振動数が小さいため、前輪の独立懸架と相まって快適な乗り心地を実現した。
(4)画期的なハイポイド・ギアを用いた減速歯車
ディファレンシャル部の減速歯車には、国産車初のハイポイド・ギアを採用した。ハイポイド・ギアは、ドライブ・ピニオンがリング・ギア中心よりも下側でリング・ギアに噛み合うため、ドライブ・ピニオンが連結するプロペラシャフト
の位置が下がり、ボデーの床面を低くすることができる。また、リング・ギアとドライブ・ピニオンの歯が噛み合う範囲が広くなり、大きな力に耐えられるところから、減速歯車自体を小型・軽量化することが可能である。
このハイポイド・ギアの採用により、クラウンの車体は、全高(1525㎜)と標準床面地上高(320㎜)が低く抑えられる一方、最低地上高(210㎜)を高くすることができた。重心が下がったため、走行がより安定すると同時に、車体と地表面との間隔が広がったことで、未舗装の悪路も余裕をもって走行できるようになった。
なお、ハイポイド・ギアの加工機として、米国グリーソン社製のハイポイド歯切り盤を1953(昭和28)年5月までに輸入した。同年6月にはRS型乗用車の第1次試作1号車が完成しているので、車両の企画・設計と製造設備の調達、試作品の製作が連携して進行していたことがわかる。また、発売直後の調査では、減速歯車に関する不具合の報告は見られなかった。
●トヨペット・クラウンの生産増加
1955(昭和30)年1月に発売されたRS型クラウンとRR型マスターは、車両の好評にもかかわらず、販売は伸びなかった。販売が低迷するなかで、同年6月から翌1956年1月まで週6日稼働を5日にする操業短縮が行われた。当初の生産計画では、クラウンとマスターの両車種で月産1000台を予定していたが、1955年の両車合計の平均月産台数は617台、クラウンは229台にとどまった。
RS型クラウンは自家用車向け、RR型マスターは営業車向けに販売されたが、クラウンの足まわりが営業用として充分耐えることがわかり、ハイヤー・タクシー業界からクラウンの営業車利用の要望が出された。これを受けてトヨタ自工は、1955年12月に自家用車向けにクラウン・デラックス(RSD型)を発売し、RS型をクラウン・スタンダードの名称で営業車向けも販売することになった。
1956年になるとクラウンの生産台数は急増し、同年の平均月産台数は771台に達した。クラウンとマスターの合計では、年間1万2001台と月平均1000台を達成し、10月にはクラウン単独で月産1000台を超えた。このため、同年11月にはRR型マスターの生産を打ち切った。
その後、クラウン・スタンダード(RS型)、クラウン・デラックス(RSD型)は、逐次性能の向上が図られ、1956年10月にエンジン出力が48馬力から55馬力に、1958年4月には58馬力に増強された。そして、同年10月には両車種の改良を実施し、新しいクラウン・スタンダード(RS20型)とクラウン・デラックス(RS21型)を発売した。
4.自動車市場の変化
●小型車の需要増大
1951(昭和26)年からの「設備近代化5ヵ年計画」により、トヨタ自工では1955年に月産3000台体制が確立し、1956年10~12月期には月産台数が5000台を超えた。
1951年と1956年との比較で生産実績を見ると、生産台数全体では3.26倍の伸びを示しており、なかでも小型乗用車(1951年の1470台から56年の1万2001台へ)、小型トラック(1951年の3769台から56年の2万5289台へ)の伸びが著しかった。これに対して、大型トラックはほとんど横ばい(1951年の8989台から56年の9127台へ)で、生産台数に占める比率を63%から20%へと大幅に後退させた。
豊田英二常務は、設備近代化5ヵ年計画がスタートした1951年の『トヨタ技術』1月号の「巻頭言」で、「今後の五年間は必ず新しいチャンスをもたらすだろう」と述べているが、それは、こうした小型自動車の普及を予測したものと思われる。そのチャンスを確実にとらえることができたのは、設備近代化5ヵ年計画を着実に実施した成果であった。
このような自動車需要の急速な拡大と構造の変化に対応して、販売体制、生産体制を見直す必要が生じた。
●国民車構想
1955(昭和30)年1月のトヨペット・クラウンの登場は、各界の注目を集め、日本の自動車産業に新たな展開をもたらした。その一つに「国民車構想」がある。
通商産業省自動車課は、1955年5月18日に国産自動車技術を前提とする「国民車育成要綱案」を発表した。国民車の条件は、最高時速100㎞以上、定員4人、エンジン排気量350~500㏄、燃費30㎞/L以上、販売価格25万円以下である。この条件を満たす自動車を募り、試作車の試験により量産に適した1車種を選定し、財政資金を投入して育成を図るとの構想であった。
この国民車構想に対しては、自動車業界からもさまざまな案や意見が表明されたが、最終的に1955年9月8日の自動車工業会理事会で、25万円程度の国民車の開発は不可能という結論が出された。ところが、同年12月初旬になって、自動車部門への進出を企図する小松製作所の河合良成社長が、国民車構想に沿った小型乗用車の生産を準備していることを発表したのである。西ドイツのポルシェ社に基本設計を依頼し、車両価格を30万円に抑える計画であったといわれる。この計画にトヨタ自販の神谷社長が関与していたところから、トヨタ自工はその対応に苦慮することになった。
じつは、トヨタ自工では豊田英二専務の指示により、1955年5月に国民車構想と比べて一回り大きいFF式(フロントエンジン・フロントドライブ)の小型乗用車の開発に着手していた。同年9月にはこの小型乗用車に「1A」、搭載するエンジンに「4E」の開発ナンバーを付与した。
1A試作車の第1号は、1956年8月に完成した。
1A試作車の仕様(1956年)
・型式 前輪駆動式、2ドア
・エンジン 空冷水平方向2気筒、4ストローク、698㏄
・全長 3650㎜
・全幅 1420㎜
・全高 1385㎜
・ホイール・ベース 2100㎜
(『トヨタ新聞』第201号、1956年10月2日、1面より)
トヨタ自工は、国民車構想をめぐって憶測が生まれていたこともあり、9月22日に報道機関やタクシー業界の関係者を挙母工場に招き、開発中の試作車を発表するという異例の公開を行った。
しかし、1A試作車は、FF車として所期の性能を実現できなかった。そこで、開発番号を「11A」に改めたうえで、4Eエンジンを搭載するFF車の試作を継続し、1958年7月に第2次試作車の製作を終えた。ところが、この11A試作車も性能を満たすことができず、1959年5月には基本的な諸元のうちFF式をFR式(フロントエンジン・リアドライブ)に変更することになった。第3次試作車は、「68A」の開発ナンバーで製作に着手し、1960年4月に完成した。68A試作車の車両型式は「UP10型」と決まり、4Eエンジンは「U型」エンジンと呼称された。1960年10月には全日本自動車ショーに大衆車として出展するとともに、車名の公募を実施し、1961年6月に「パブリカ」の名称で発売した。
このように、国民車構想に端を発した新車開発は、紆余曲折を経たものの、初代パブリカの誕生という成果をもたらし、新たに大衆車市場を出現させた。
●クラウンの「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」
1956(昭和31)年4月30日、朝日新聞社の辻記者と土橋カメラマンは、トヨペット・クラウン・デラックスを運転してロンドンを出発した。これは、「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」と銘打った同社のイベントで、国産乗用車によるロンドン・東京間の走行状況を伝える連載記事のための企画であった。トヨペット・クラウンは、山岳路や砂漠地帯の厳しい道路事情に悪戦苦闘しながら、ヨーロッパやアジアの国々を走破し、同年12月29日に東京に到着した。
その19年前の1937年4月6日、朝日新聞社所有の純国産機「神風号」(三菱重工業製「キ15」(試作2号機)が、英国王戴冠式の奉祝飛行のため、ロンドンに向けて東京を飛び立った。全飛行距離1万5000㎞、所要時間94時間56秒で、同月10日にロンドンへ到着した。奇しくも、この年にトヨタ自工が設立され、東京・ロンドン間の所要時間を当てる懸賞の副賞として贈呈されたのが、トヨタAA型乗用車であった。
国産乗用車トヨペット・クラウンの快挙に重ねて合わせて、19年前の神風号を想起した読者は少なくなかったはずである。トヨタ自工にとっては、古い縁がよみがえるとともに、トヨタ車が海外市場で活躍する将来の姿を想像させるものであり、海外進出を現実のこととして検討する契機となったといえよう。
今回はこれで終了。次回の「第9節 量産量販に向けての準備」に入ります。GHQの乗用車生産制限の解除以降のトヨタの発展の最初期における話です。