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「トヨタ自動車75年史」

COLUMN「トヨタ自動車75年史」その2

VOL.53
小川 真理生さん

ここでは、「トヨタ自動車」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第53回「トヨタ自動車75年史」その2

article

 今回は、「トヨタ自動車75年史」の第1部・「第7節 設備近代化」を読み進める。

 

1.フォード社での研修と米国機械メーカーの視察
 1950(昭和25)年6月10日、トヨタ自工では2ヵ月に及ぶ労働争議が終結した。まず、会社側から新職制が発表され、新労働協約や給与制度改定の労使交渉など、再建策の実行に向けて取り組みが始まった。このような状況のなかで、トヨタ自販の神谷正太郎社長は、関東自動車工業の奥田秀次郎社長を同道し、同年6月23日に米国出張に旅立った。
 出張の目的は、米国自動車産業の視察と、フォード社との技術提携契約の交渉であった。約半月遅れて7月11日に米国へ出発した豊田英二常務は、「自販の神谷さんが先発隊として一足先に訪米し、交渉を進め、簡単な技術指導をしてもらうことでまとまり、私が訪米して契約書にサインする段取りになっていた」と回想している。提携交渉は順調に進み、調印直前の段階にまで至ったが、6月25日に勃発した朝鮮戦争の影響で、結局、技術提携契約は白紙還元となった。フォード社との交渉を済ませた神谷社長、奥田社長は、英二常務を残して、9月30日に帰国した。
 フォード社と合意された契約の内容には、3人の技術者の派遣が含まれ、トヨタ自工の生産規模に適応した技術提携が構想されていた、しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、政府から海外投資の禁止とともに、重要技術者に対する禁足令が出されたため、その実現も不可能になった。こうした事態を受けて、フォード社は技術者の派遣に代わり、トヨタ自工から研修者の受け入れを了承した。
 これに沿って、英二常務がフォード社での最初の研修者となり、7月20日から9月8日までの約1ヵ月半、ルージュ工場、ハイランドパーク工場、マウンドロード工場、イプシランティ工場、ディアボーン工場、キャントン工場などの見学を行うとともに、フォード社の各担当者から講義を受けた。そのほか、クライスラー社、バッド社、ティムケン・デトロイト・アクスル社、マスケゴン・ピストン・リング社、バウワー・ローラー・ベアリング社などを見学した。
 さらに、英二常務は8月7日~9月29日に工作機械会社21社を訪問し、最新工作機械の視察を行った。そのうち15社はトヨタ自工の創業期に工作機械を導入した会社で、工作機械の性能進歩を現物で直接確認し、今後の設備更新の参考データを入手した。
 英二常務に続いて、10月3日には齋藤尚一常務が渡米し、約1ヵ月半にわたりフォード社のルージュ工場で研修を受けた。帰国した齋藤常務は、フォード社の提案制度を参考に、広く一般従業員からアイデアを募集する提案制度をトヨタ自工に導入した。1951年5月から運用が始まった「創意くふう提案制度」である。同制度は、時を経るに従って充実・拡大されていった。
 フォード社での研修を終えた英二、齋藤の両常務が口をそろえて言及しているのが、米国でしようされている材料の予想外の良さである。すなわち、英二常務は自動車技術会の取材に対して、「日本の自動車工業の設備と技術者は良いが、工作機械と材料が劣っている。この問題さえ解決できればアメリカに負けない良くて安い車をつくることができる。今度の視察旅行で得た結論はこれだ」と述べている。喜一郎が自動車事業への進出に際し、鋼材と工作機械を内製したのも、当時の日本では材料と工作機械が不十分であったからである。それから17年を経た1950年時点でも、同じ問題を抱えていたということができる。

 のちに英二は、フォード社での研修を回顧して、次のように述べている。

「フォード社はトヨタが知らなかったことはやっていなかった」というのは偽らざる気持ちだが、といって「フォード恐れるに足らず」と思い上がったわけでもない。
 フォードの生産は日産八千台に対しトヨタはわずか四十台。企業規模は月とスッポンほどの違いがある。技術面ではそう大きな差はなかったと思う。違いは生産規模で、トヨタの規模が大きくなれば、日本でも米国流の生産方式は十分にこなせると思った。

 

2.朝鮮戦争による特需の発生
 1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯38度線を越え、大観民国(韓国)に侵攻した。朝鮮戦争の勃発である。
 韓国軍の装備を早急に補うため、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、同年7月10日には早くも米国第8軍調達部からトラックの引き合いがあった。トヨタでは、BM型トラック1000台を受注し、7月31日にトヨタ自工・自販共同で契約を締結した。納入は、翌8月に200台、9月と10月に各400台であった。その後もトヨタは、8月29日に2329台、翌1951年3月1日に1350台と合計4679台のBM型トラックを受注した。金額にすると36億600万円である。
 このような特需の発生に対して、トヨタ自工では生産計画を月産650台から1000台へと引き上げた。要員については、現有人員による2時間残業で対応し、また計画中であったBM型への切り替えは、特需車両の完納後まで繰り延べることとした。
 トヨタ自工の業績は、朝鮮特需により急速な回復をみせた。その様子を「第22回事業報告書」(1950年4~9月)は、次のように伝えている。

過去に於て常に経営上の重い桎梏となって居た自動車の販売統制価格が四月中旬撤廃されたので、朝鮮動乱勃発後素材、部品、タイヤ等
累次の価格騰貴にもかかわらず自動車販売価格を改訂することによって随時採算を是正することが出来、需要並に生産の上昇と相俟って、争議解決後、業績は逐月向上するに到った。

 トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである。

 

3.「設備近代化5ヵ年計画」―月産3000台体制に向けて
●既存設備機械の修復整備
 1950(昭和25)年、米国視察から帰った豊田英二常務と齋藤尚一常務は、業績の好転を背景に、設備の合理化・近代化に取り組んだ。
 豊田喜一郎社長は、既述のとおり、1946年4月~1947年3月の間、自ら「臨時復興局」の局長に就任し、戦時中に酷使された工作機械の修復を推進した。しかし、これは緊急的な最小限度の修復にすぎなかった。計画的な修復整備は1948年から始まったが、工程内で使用中の工作機械を修復整備するには、代替補充機が必要であるため、その実施には限界があった。
 1951年1月には国有ならびに一部民間の賠償指定機械の一部借用が許可され、こうした状況に変化が訪れた。賠償指定機械を利用することで、汎用工作機械については、計画に沿った修復整備が期待できるようになったのである。
 修復整備を担当した工機工場の調査によると、トヨタ自工には、1950年末時点で工作機械が約2700台、プレス機や鍛造機などの産業機械が約2000台、合計約4700台の設備機械が存在した。それらを使用年数で区分すると、10年以内が47%、10年以上20年以下が53%であった。また、工作機械の製造国別では、国産機が69%、輸入機が31%となっていた。
 設備機械の精度・機能の程度については、次のように分けられた。

精度・機能が良好なもの、もしくはおおむね良好なものが1556台(33%)
精度・機能がやや不良なものが2262台(48%)
精度・機能は著しく不良なもの、もしくは使用不能に近いものが888台(19%)

 3については早急な修復整備を要し、2については逐次計画的に実施する必要があった。
 この調査に基づき、修復整備を進めた結果、1952年なかごろには著しい不良を抱えた機械の修復整備が完了し、ベルト駆け駆動の旧式な旋盤、フライス盤などを廃却できる状態にまで改善された。また、精度・機能の復旧に加えて、性能の近代化(改造)を積極的に取り入れ、平ベルト伝動のVベルト伝動化や歯車伝動化、必要機能の自動化ないし半自動化、遊休パワーユニットを利用した自動専用機化などを実施した。
●工作機械の自動化と複数台担当
 設備機械の修復整備と同時に、工作機械の自動化が推進された。具体的には、板カムを用いた自動送り装置や、マイクロスイッチを使用した自動停止装置などが採用された。これらは、米国視察によりもたらされた技術であった。
 工作機械の自動化は、挙母工場の機械工場長大野耐一が提唱していた、一人の作業者による工作機械の複数台担当には不可欠の条件であった。
 豊田紡織の技術者であった大野工場長は、1人の作業者が自動織機を20台程度担当するのを経験していたので、機械工場で作業者1人が工作機械を1台しか担当しないことを不合理と考えていた。
 1949(昭和24)年8月、それまで機関工場と駆動工場とに分かれていた挙母工場の機械加工部門が統合され、機械工場として一本化された。これをきっかけに、大野耐一工場長を中心に工作機械の複数台担当制の検討が始まった。
 1人で工作機械を複数台担当するには、自動送りや自動停止といった工作機械の自動化が前提となる。自動多刃旋盤や各種パワーユニットを用いた自動専用機などを利用して工程を構成すれば可能であるが、それには相当の費用がかかり、小規模の生産量では採算が取れなかった。
 そこで、簡易なカム送り機構やマイクロスイッチを工作機械に取り付け、自動送りと自動停止の機能を備えた簡便な自動機に改造する方法を採用したのである。このような自動化の導入により、工作機械の複数台担当制が可能となり、作業効率の大幅な向上が実現した。
 なお、1人で複数台の工作機械を担当すると、各人が工作機械の工具(刃具)を研ぐ時間的余裕がなくなり、工具研磨を専門化する必要が生じた。このため、1951年11月に全機械工場に集中研磨制度を導入し、工具の回収、再研磨、配達を中央工具室が行うことになった。
●運搬の合理化
 運搬の合理化は、豊田英二常務、齋藤尚一常務ともにフォード社での研修時から着目していたテーマである。1951(昭和26)年初めには運搬対策委員会が発足し、運搬管理体制の確立、運搬効率の向上を目的とする運搬機器の改良および規格化など、運搬に関する調査研究・改良が取り組まれた。
 まず、構内運搬に用いていた手押し車、人力トロッコ、トラックなどに代わって、フォークリフト・トラックやトラック・トレーラー・トレーン(トーイング・トラクター)を採用した。あわせて、運搬用具のパレット、ボックス・パレットなどの規格化を進めた。また、電気ホイスト、各種コンベアを広範囲に導入し、作業能率の向上を図った。
 1951年7月にはB型エンジンのシリンダーブロック、シリンダーヘッド、カムシャフトの運搬用に、神鋼電機製電動フォークリフト(FHL-1)を鋳物工場と第1機械工場との間に導入した。これら鋳物3部品を各1000個運ぶのに要する時間は、人力トロッコと手押し車の場合、作業者5人で月間合計635.05時間であったが、フォークリフトの導入後は、作業者1人で月間合計87.5時間へと激減した。当然コストダウンも図られ、償却費、維持費、工賃などを含む運搬費を比較すると、月額5万2166円の節減となった。
 トーイング・トラクター(牽引車)については、SB型小型トラックの荷台部分を短縮した改造車を用い、部品を搭載した複数の台車を牽引して各工程へと運搬した。トーイング・トラクターの運行時間を定めることによって、必要な部品を、必要な場所へ、必要な時に届けることができ、「ジャスト・イン・タイム」生産を実現する手段の一つとして利用された。
 その後、フォークリフトに関しては、トヨタ自工製S型エンジン(950㏄)を搭載したフォークリフトが神鋼電機などから発売されたことを受け、1956年3月に豊田自動織機製作所が同エンジン搭載のフォークリフトLA型を開発・製造した。その販売にはトヨタ自販があたった。
 なお、フォークリフトはじめ産業車両の販売はトヨタ自販の事業として大きく成長し、トヨタ自工とトヨタ自販の合併後は、トヨタ自動車の事業となったが、2000(平成12)年12月に豊田自動織機に営業譲渡され、2001年には製造・販売を統合したトヨタL&Fカンパニーが豊田自動織機の企業内カンパニーとして発足した。
●「設備近代化5ヵ年計画」前半の成果
 トヨタ自工の機械設備は老朽化し、既述のように、1950(昭和25)年末には10年以上経たものが53%と半数以上に達していた。このような状況から、老朽設備の更新と能力増強が企図され、1951年2月に「設備近代化5ヵ年計画」(1951年4月~1956年3月)が策定された。同計画の目標月産台数は、1951年3月の月産実績1542台の約2倍にあたる3000台であった。
 5年間の設備投資総額は約58億円で、第1年目の1951年度に約7億円、翌1952年度には約6億円の投資が計画された。1951年の計画は老朽設備の更新を主体とし、国内機械メーカーの供給能力が乏しかったため、旧賠償指定機械の取得と、外国製工作機械の輸入によって補充を行った。
 1952年には試作・試験が進行中であったR型新エンジン(1500㏄クラス)の生産設備の新設を重点的に進めた。1953年4月の生産立ち上げを目標に、刈谷工機(豊田工機が戦後の一時期用いた社名)が設計・製造した専用機や治工具を導入した。なお、R型エンジンの開発は設計変更により遅延し、実際には1953年9月の生産開始となった。
 この時期の新設設備で注目されるのは、1951年6月に稼働を開始したクリアリング型内製2000トン・プレス機である。それまでは、1935年に導入された小松製作所製の乗用車フレーム用700トン・クランクプレス機が稼働していたが、トラック用フレームを成形するには、金型を前部と後部に分割して製作し、2度に分けてプレスしなければならなかった。こうした能力不足を解消するため、2000トン・プレス機が導入されたのであるが、この間の経緯を振り返ると、およそ以下のとおりである。
 1940年7月、商工省が主宰する自動車技術委員会から、トラックの足まわり強化と積載量増大が要請され、4トン積みKB型トラックの開発に着手した。そのフレームを成形する大型プレス機を米国から導入しようとしたが、ヨーロッパで戦火が拡大していたことから、大型プレス機は輸入禁止となり、入手できなかった。
 そのため、1941年夏ごろ、住友機械の協力のもとに、車体部の中村達也が担当して社内で製作することになり、神奈川県の鋼板工場が所有するクリアリング社製2000トン・プレス機をモデルに設計を開始した。1944年初夏までに大物部材の仮図面が完成し、製作に取りかかったものの、戦況の悪化から中断を余儀なくされたまま、終戦を迎えた。
 1946年4月、「臨時復興局」による設備復旧が始まるとともに、2000トン・プレス機の製作も再開された。駆動装置などを担当した住友機械の協力により、総重量216トンのクリアリング型2000トン・プレス機の据付が1951年4月に完了し、6月から稼働を開始した。
 このクリアリング型2000トン・プレス機は、トラック用フレームの製造に用いられたばかりでなく、トランスファー・プレスのような使われ方もした。すなわち、横長のスライドとボルスタを利用してプレス型を4個取り付け、ストロークごとに成形パネルを手送りでプレス型間を移送し、プレス部品(ブレーキ・バッキング・プレートなど)がストロークごとに完成する方法である。
 設備メーカーの協力を得たとはいうものの、大型プレス機を自社でつくったのであり、トヨタの自助努力によるモノづくりの精神を象徴する記念碑的な設備であった。なお、この2000トン・プレス機は、2006(平成18)年にタイ国の武部鉄工所現地法人のフレーム製造工場に移設された。
●「設備近代化5ヵ年計画」後半の成果
「設備近代化5ヵ年計画」の前半の実績を概観すると、1951(昭和26)年9月末~1953年11月末に機械装置の簿価は4億2100万円から8億4400万円へと、わずか2年2ヵ月で2倍に拡大した。数量ベースでも、工作機械と産業機械の合計台数は同期間に4761台から5645台へと19%の増加をみせた。簿価の増加が著しいのは、高額の輸入機や国産専用機を購入したためで、1952年12月~1953年11月には輸入新鋭機が103台、Rエンジン用専用機が43台も導入された。
 設備近代化5ヵ年計画の後半では、新型乗用車クラウン(RS型)の製造設備の新設が中心となった。それまで、荒川板金工業、関東自動車工業、中日本重工業(現・三菱重工業)などに製作を委託していた小型乗用車ボデーの内製化が図られ、プレス工場、車体工場への投資が増加した。
 小型乗用車ボデーを内製することになったのは、1952年初めに豊田喜一郎の社長復帰が内定したからである。豊田英二の回想によると、「石田さんは二十七年の初めに喜一郎に復帰を要請したが、喜一郎はテレくさかったのか、『乗用車をやっていないような会社は自動車会社ではない。そんな会社を引き受けるつもりはない』とゴネていた。内心うれしかったのだろう。石田さんから『乗用車はあんたが帰ってきてやればいい』と説得され、喜一郎のトヨタ社長復帰が決まった」とのことであった。このとき、初代「クラウン」の開発と、挙母工場でのボデーを含めた完成乗用車の製造が決定した。
 小型乗用車ボデーの内製化に際しては、車両設計と同時に工場計画と設備計画も並行して進められ、設計技術者と生産技術者の密接な共同作業のもとに、設備を整えていく方針をとった。1952年5月にはプレス工場、車体工場の増築が完成し、翌6月から小型乗用車生産設備計画、新型(R型)エンジン生産設備計画をスタートさせた。
 設備近代化5ヵ年計画の後半の実績を見ると、最終年にあたる1955年11月末の機械装置の簿価は19億8600万円で、工作機械と産業機械の合計台数は5602台であった。1953年11月末との比較では、簿価が2.35倍に増加したのに対して、台数は若干の減少を示していた。高性能・高生産性の機械装置の導入により、1台当たりの価格がじょうしょうしたといえる。すなわち、工作機械については、3~4台の汎用機を用いて加工していたものが、1台の専用機で対応できるようになり、台数を増やさずに加工能力の大幅な向上が図られたのである。
 一方、1951~55年の設備近代化5ヵ年計画の全期間を通じた設備投資額は、合計46億200万円に達した。その内訳は、輸入機械設備が14億3700万円、国産機械設備が27億4900万円、設備関係経常費が4億1600万円であった。
 この結果、目標に掲げた月産3000台の生産能力が実現した。ところが、トヨタ自工では、1955年6月から翌年1月まで週5日稼働の操業短縮が続き、その能力を発揮する機会がなかった。1956年2月以降、生産台数は逐月増加するようになり、2~3月に2000台、4~6月に3000台、7~9月に4000台、10~12月には5000台と、四半期ごとに月産台数が1000台ずつ上積みされる状態となった。旺盛な需要に対応して、早くも計画能力を大幅に上回る生産実績を達成したのである。
●創業者豊田喜一郎と豊田利三郎の死
「設備近代化5ヵ年計画」が進行中の1952(昭和27)年3月27日、創業者豊田喜一郎が亡くなった。同年7月の株主総会で社長に復帰することが内定し、復帰の準備に専念しているさなか、突然のできごとであった。豊田英二は、喜一郎の死について、次のように回想している。
「復帰が決まってからは本人もその気になり、張り切っていた。ところが三月二十七日、脳いっ血で突然死んでしまった。まだ五十七歳で、これからという時期であった。いま思うと『張り切りすぎて死んだ』と言えるぐらい張り切っていた。」
 喜一郎は、1950年6月に社長を辞任したあと、東京と名古屋の間を行き来しながら、ヘリコプターとそれに搭載する新方式のガソリンエンジンの研究に取り組んでいた。
 喜一郎の死から2ヵ月あまり経った1952年6月3日、初代社長の豊田利三郎が68歳で亡くなった。英二の回想は、以下のとおりである。
「利三郎は喜一郎が死んだときすでに病気で寝込んでおり、葬式にも出られる状態ではなかった。私は喜一郎の葬式の経過を名古屋の家に報告に行ったが、その時、利三郎は『とにかくトヨタは乗用車をやれ』と床の中からうめくように言った。トヨタが自動車をやることに一番反対した人が、死ぬ間際に『トヨタはいまごろトラックばかりやってはいかぬ。何が何でも乗用車をやれ』とハッパをかける。私は利三郎に向かって『乗用車は今準備を進めております。間もなく完成するので、必ず見てください』と励ましたが、利三郎は遂にこれを見ることなく他界した。」

 

4.スーパーマーケット方式
 生産台数の増加に伴って、生産管理の重要性が認識されるようになり、1954(昭和29)年にはスーパーマーケット方式が導入された。
 それまでの生産方式は、機械工場を例に見ると、機械加工されたすべての部品について、1品ごとに1葉の伝票を付し、運搬班が後工程の機械組付工場に運んでいた。いわゆる「前工程かた後工程に運ぶ」方式であり、後工程の必要性とは無関係に部品が送り届けられた。したがって、機械組付工場には必要以上の加工済み部品が集積し、組付作業場よりも部品置場のほうがはるかに広いスペースを必要とした。
 機械組付工程では、部品の在庫を確認しながら、どの型式のアッセンブリー部品が組み付けられるかを調べて作業に取りかかった。部品がそろっていない場合は、届いている分だけを組み付け、残りの部品がそろうまで一時ラインからはずしておくといった具合である。特に部品がそろいにくい月初は、予定の半分程度しか組み付けられなかった。
 完成したアッセンブリー部品は、後工程である総組立工場のライン側に持ち込まれる。組立工程では型式が何であれ、そろった分から組んでいくので、予定した型式を必要な台数だけ組み立てることはほとんど不可能であった。そのため、部品が徐々に集まってくる月半ばぐらいまでは、日程計画を予定どおり進行することが非常に難しかった。
 そして、部品がそろう月末には、いわゆる「月末追込生産」が行われた。月末にコンベアの速度を上げて、月初と同じ作業者数で追い込みをかけるのである。つまり、それだけ人員に余裕があったともいえ、その分は当然、部品がそろわない月初に手待ちを生む結果につながっていた。原因は、機械加工、機械組付、総組立などの生産が月間を通して平均化されていなかったことにあり、結局予定の1日分台数は未達成に終わった。
 このような状態であっても、生産台数が少なく、人員に余裕があるうちはあまり問題にならず、管理面の不備も人の裁量で対応できた。しかし、生産台数の増加とともに、生産管理体制の整備が急務となり、以下のような対策を進めていった。

  1. 機械加工の種類別規格化・標準化と、それに基づく工作機械の配置
  2. 品別加工ラインについての標準作業票の作成と、同票による標準作業の指導
  3. 機械の日常点検と、予防保全の実施
  4. ムダ、ムリ、ムラをなくすための作業改善

 これらの措置により、機械加工工程で計画的な流れ生産が実現すると、同工程から機械組付工程への部品の運搬作業を見直す必要が生じた。そこで、導入が検討されたのがスーパーマーケット方式である。
 スーパーマーケット方式は、1954年春に業界紙が報じた米国ロッキード社の航空機工場での事例をヒントに導入された。この記事によると、ジェット爆撃機の組立にスーパーマーケット方式を採用したことで、1年間に25万ドルの経費節減と、6万平方フィートの部品置場の転用が可能になったとのことであった。
 当時、日本ではスーパーマーケットはまだ一般的でなく、その方式を理解するに際して実体験はなかった。トヨタ自工では、簡単な記事の内容から類推し、後工程を「お客さん」、前工程を「スーパーマーケット」に見立てて、お客さんが店の棚から必要な商品を取り出してくる方式を、「後工程が前工程に取りに行く」と解した。
 この考え方を組立工程に適用すると、機械組付工場は型式別組立順序に基づき、アッセンブリー部品を先行して組み付け、その部品を総組立工場から取りに行けば、必要な型式の車を計画の順序どおりに組み立てることができた。また、機械組付工場でも同じ方法を採用し、機械加工工場へ必要な部品を取りに行くシステムとした。こうして、トヨタ自工のスーパーマーケット方式が構築されたのである。
 その後、スーパーマーケット方式は、「かんばん」と呼ばれる生産指示票(品名、品番、個数を記載したカードや表示板)が追加され、「かんばん方式」へと進化していった。さらに、この方式は必要なものを、必要な時に、必要なだけ生産する「ジャスト・イン・タイム」生産の確立へと発展し、仕入先を含めた広い範囲に適用される壮大なシステムが構築されることになる。

 

5.トランスファーマシンの導入
 「設備近代化5ヵ年計画」を推進する過程で、超硬合金工具(刃具)を安定的に入手・使用できるようになり、工作機械の加工速度が飛躍的に高まると同時に、能率の大幅な向上が実現した。
 このような工具・工作機械の高性能化と並行して、自動化を目指した工作機械の配列方法も大きく変化し、トランスファーマシンが登場した。トランスファーマシンとは、自動化された専用機を加工順に配置し、工作物を自動的に移送するトランスファー装置によって各専用機間の連結した機械設備である。
 その研究のため、豊田工機とトヨタ自工は、1954(昭和29)年8月5日付で通産省の工業化試験補助金(工作機械等試作補助金)800万円の交付を受け、「自動車エンジン用トランスファーマシン」の研究製作に共同で着手した。1956年3月には国産第1号のトランスファーマシンが完成し、機番TR1(トランスファーマシン1号機)として、6月から挙母工場機械工場で稼働を開始した。
 この設備は、6気筒F型エンジン・シリンダーブロックのリフター穴加工に用いられた。リフター穴や各種取付ネジ穴を8加工ステーションで連続加工できるなど、優れた性能を持ち、増産と合理化に大いに貢献した。
 その後、トランスファーマシンの改良と導入は着実に進み、トランスファーマシン間の工作物搬送制御に、トヨタ生産方式の考え方を組み込むことも行われた。例えば、つくり過ぎのムダを防止するため、後工程で加工待ち工作物の個数が所定量に達すると、前工程の加工を停止する
フルワーク制御を考案・実用化した。同様に、ストック・コンベア上の工作物が一定量に達すると、前工程からの供給を停止するプールオーバー制御なども開発された。

 

6.品質管理への取り組み
●豊田喜一郎の品質向上に関する考え方
 豊田喜一郎は、1938(昭和13)年の挙母工場の完成後、品質向上の方策として、次の項目をあげている。

  1. 監査改良課を復活し、喜一郎副社長自らが課長となって品質改善を担当する。
  2. サービス掛から申告された欠点は、監査改良掛が一品一品について調査を行う。そして、各工場責任者が立ち合いのうえ、製造方法や検査方法を見直し、作業方式を新たに設定する。
  3. 監査改良課に技術指導員を設ける。指導員は標準動作を設定し、それに基づいて作業員を指導する。
  4. 不良品処理場に不良見本を展示し、各工場責任者は担当部品の不良原因除去対策を研究するとともに、毎月不良の統計をとって対策の進行を確認する。
  5. 検査掛を工務部の直属とし、検査規程を定める。検査掛に必要な知識を教育し、検査工具の改良を図る。

 上記の方策は、工程内での品質の造り込み、統計的手法による管理、特性値による品質確認などの点で、現在の品質管理に通じるものがある。しかし、このような喜一郎の考え方は、「ジャスト・イン・タイム」生産方式と同じく、戦時の数量優先主義のもとで実現できなくなった。
 自動車工業は総合工業であるため、多種類の材料・副資材や部品を広範な仕入先から購入している。したがって、それらの品質が最終製品に及ぼす影響はきわめて大きく、自動車工場だけが品質管理に努めても、その目的を達成するのは困難であった。自動車の総合的品質を向上させるためには、広い範囲を包含した大規模な品質管理体制が必要であると考えられた。
 自動車事業への進出以来、喜一郎が折に触れて指摘してきたように、自動車の品質向上の鍵を握っていたのは、中心的な材料である鋼材であった。鋼材の不良は、しばしば自動車の品質不良をもたらしたが、品質管理以前の問題として、その品質不良の原因解決さえできなかった。
 戦後、「日本の鉄鋼技術には米国より20年ないし30年遅れているものがある」といわれたが、製鉄会社は積極的な技術導入を図り、鉄鋼材料の品質を高めることに努力を払った。「産業の米」といわれた鉄鋼材料の品質向上は、鉄鋼材料の消費部門である自動車工業の品質管理を容易にするという側面を持っていた。
●品質管理体制の確立
 トヨタ自工では、1949(昭和24)年初頭から機械工場をモデル工場として、統計的品質管理の標準的な研究調査を開始した。そして、翌1950年1月には本格的な研究に移り、機械加工部品の品質管理をスタートさせた。
 品質管理業務は、検査部と機械部が担当し、本来の業務に統計的品質管理手法を適用した。機械加工部品の材料不良については不良率管理図を用いて管理を行い、管理限界を超えた場合には、粗形材部門に連絡して再発防止対策を講じた。同様に、加工不良についても管理図を利用し、不良が発生した場合には、その原因を探求して対策を検討・実施した。現場に初めて管理図が掲げられたとき、作業者の示した反応は、まったくの無関心、管理されることへの反発、あるいは必要以上に神経質な対応とさまざまであったが、講習会や日々の実践を通じて、統計による管理図の役割が認識されていった。
 1953年5月には豊田章一郎取締役が検査部長に就任し、品質管理体制の強化を図った。具体策としては、新設の品質管理係が全製造工程に対する品質管理の実施計画を策定し、その普及を目的に講習会を開いた。また、協力工場でも品質管理を実施するため、協豊会の総会で導入の趣旨を説明し、その徹底と協力を依頼した。
 続いて、同年秋には品質管理委員会と7つの専門委員会が設置された。本委員会では、品質管理の普及や教育など制度全般にかかわる事項を立案・審議し、専門委員会では、各製造分野の品質管理に関する事項を審議・推進した。社内・協力工場ともに、品質管理教育に重点を置いて推進に努めた。
 さらに、1954年には各工場に分散していた検査業務を検査部に集約し、全社の品質情報を迅速に把握できる体制に改めた。これに伴い、検査部の業務は品質管理へと重点が移ったため、1959年6月に部の名称を品質管理部に変更した。一方、1959年の元町工場の完成後、トヨタ自工の生産台数と従業員は急増し、1955~60年に年間生産台数は2万1909台から14万6207台へと6.7倍に、従業員数は5162人から9950人へと1.9倍になった。
 生産台数と従業員数の急増により、品質や従業員の教育に対する配慮が行き届かず、減少を続けていた1台当たりのクレーム費は、1959年から増加に転じた。この状況に危機感を抱いた豊田英二副社長は、1960年6月に「検査に対する要望」を提示し、品質管理委員会で対策の検討を進めた。その結果、1961年6月に品質管理(QC:Quality Control)的な手法を用いて、全社的に経営を管理する全社的品質管理(TQC:Total Quality Control)を導入することが決まった。
 その後、1964年にQC推進本部が設置され、本部長に英二副社長、副本部長に章一郎常務と梅原半二常務が就任した。このような体制のもとで、全社的にTQCが推進され、1965年10月11日にはデミング賞実施賞を受賞した。

 

7.電子計算機の導入
●事務の機械化
 1947(昭和22)年4月から「PD作業」と呼ばれる米軍の自動車修理作業を挙母工場で実施した際、作業に関する事務はすべて米国式の処理方法で行われた。その結果、帳票の様式や文書の保管方法など、新しい事務管理の技法を習得することができ、この経験は以後の文書事務の改善に役立つとともに、事務の合理化・能率化に取り組む契機となった。
 1950年代に入ると、業績の好転と事業規模の拡大を背景に、事務の機械化が着手された。そのためにまず、事務の簡素化・標準化、帳票や事務手続きの定形化、事務処理組織の明確化など、事務機械化に向けて前提条件の整備に努めた。
 このような準備段階を経て、1953年12月にはパンチカード式のIBM統計会計機を導入し、材料原価計算、減価償却費計算、人事統計などの計算事務を機械化した。ついで、1955年9月にNCR会計機を導入して月賦手形処理を機械化し、これ以降、給与計算、工数計算、検査統計、外注部品納入計算などの機械化を進めた。
 1959年、元町工場が操業を開始すると、事務処理費は従来の処理能力の限界に達し、本格的な電子計算機の導入が必要となった。そこで、同年2月に月賦手形処理用にバロースE101を、翌1960年1月にはIBM650型を導入し、事務処理能力の不足を補った。また、同年から生産管理業務の機械化を新たに開始した。
 一方、3万点を超える補給部品については、カーデックス(カード式台帳により人手で管理していたが、1961年8月にIBM305型を導入し、補給部品の発注・出庫・在庫管理を機械化した。さらに、経営規模の拡大に伴う事務処理の急増により、事務処理能力の不足が顕在化したため、1963年10月に大型機のIBM7074型とIBM1401型の導入を図った。
 これら電算機の導入は、トヨタ自工、トヨタ自販の両社が特定の業務に適用するために進めたものであった。したがって、最も基本的な車両に関する受注から、生産、配車に至る一連の業務については、電算機による機械化は行われていなかった。
 それが実現するのは、1966年11月にカローラの生産を開始した高岡工場にIBM1440型を導入してからである。組立工場でALC(Assembly Line Control、車両組立ライン生産指示システム)が機能するとともに、受注―生産―配車を旬間計画で管理するシステムが実現した。
 1964年には第3世代のIBM360シリーズが登場し、トヨタ自工とトヨタ自販では、1967年以降、在来機種をIBM360/40、同/50に切り替えていった。
●電算機の設計・生産部門への利用―CAD・CAMシステムの開発・導入
 技術分野での電算機の利用は、1960(昭和35)年に間接相似型アナログ電算機を導入し、微分方程式の解析を行ったのが始まりである。同年に導入された事務用のIBM650型も一部技術用に用いられたが、1962年10月には科学技術用電算機FACOM202型を技術専用に導入した。
 同機種は、1967年1月に高性能のFACOM230-50型に切り替えられた。これにより、多自由度の車両運動解析、ボデー構造の強度・振動解析、トルコン油圧回路解析など、大容量メモリを必要とする計算が可能になり、電算機の利用分野は一挙に広がった。例えば、FACOM230-50型は生産技術部門のNC(数値制御)加工の研究にも利用され、NC加工技術の確立に貢献した。
 電算機の利用範囲の拡大とともに、1969年前半になると、電算機の月間稼働時間は400時間(稼働日1日当たり20時間)を超え、さらに24時間終日稼動、あるいは休日運転といった厳しい運用状況となった。そこで、多数の端末利用者が同時に1台の電算機を利用できる本格的なタイム・シェアリング・システムの採用が検討され、それに適した機種として、同年12月にUNIVAC1108型を導入した。
 当時は開発車種が増加し、新車開発の工数低減や期間短縮が課題となっていた。その解決策の一環として、UNIVACシステムの計算処理能力を利用し、プロジェクト・チームによるシステム開発が始まった。その代表例が「複合自由曲面加工システム(TINCA)」である。これは、電算機を用いてプレス型などをNC加工する、いわゆるCAMに属するシステムであった。
 1969年10月に開発に着手された同システムは、1973年秋に第1期分が完了し、カローラ(KE30型)の外板部品加工に実用化された。プロジェクト・チームには、ボデー形状設計、型設計、NC加工、情報処理など、各分野の技術者がトヨタグループ各社からも多数参加し、共同開発を行った。

今回は以上で終わり、次回は「第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場」に続きます。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー