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COLUMN占領時代を検証する-1
- VOL.1
- 片野 勧さん
ここでは、「GHQによる日本占領時代」にまつわるコラムを紹介します。
片野 勧さん(フリージャーナリスト)
日本版「マンハッタン計画」の解体について
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日本版「マンハッタン計画」の解体
日本にも原爆製造計画があったことをご存知でしょうか。
意外に知られていないように思われます。
特に若い青年たちに聞いても、ほとんどが知らないと答えます。
しかし、実はあったのです。
昭和16年(1941)4月、陸軍は理化学研究所に、海軍は京都帝国大学に委嘱して、“魔の殺戮兵器”を開発しようとしていました。理化学研究所の中心者は仁科芳雄博士で、その原爆研究は仁科博士の頭文字「ニ」をとって「ニ号研究」の暗号名で呼ばれていました。
一方、海軍の原爆研究は「F研究」と呼ばれ、京都帝大の荒勝文策博士が中心者。「F研究」のFはフッ素の頭文字「F」からとったといわれていますが、真偽は不明です。
原爆はウラン235に中性子を当てると核分裂が起きて2億電子ボルトという巨大なエネルギーを生みます。と同時に平均2個半の中性子が飛び出します。そして、この中性子が隣の2個の原子核を割ると、次は中性子が4個になり、その次が8個――ネズミ算式に倍、倍と増えていくのです。この理屈を物理学者たちは皆、知っていました。
しかし、理屈ではなく、どうしたら核分裂反応を爆発的に起こさせることができるのか。それにはウラン235と238を分離・濃縮する必要があります。実はウラン235はウラン原石のなかに〇・七パーセントしか含まれていません。
ですから抽出するのに大変な手間とお金がかかります。当時、ウラン235を抽出するには電磁法や熱拡散法など4つの方法がありましたが、「ニ号研究」は熱拡散法、「F研究」は遠心分離法による研究を進めていました。
しかし、日本は戦争も落ち目で設備も資金もありません。それに使う材料や資材、電力量もありません。その上、分離・濃縮作業そのものの技術が進んでいませんでした。しかし、日本の軍部は1944年7月、マリアナ諸島のサイパン、テニアンを失ったことで原爆開発を急ぎました。
「戦況を一変する兵器はないか」「軍の言うとおりに早くつくれ」「ウラン鉱石を探せ」……。東條英機は檄を飛ばしました。
福島県石川町。昔から鉱物資源の産地として知られ、陸軍はペグマタイト(巨晶花崗岩)に含まれるわずかな天然ウランに目をつけ、その採掘に旧制私立石川中学校(現、私立石川高校)の3年生約150人を動員しました。いずれも14、15歳の少年たちでした。婦人会も駆り出され、官民一体となって原爆開発が進められたのです。
その中の一人、有賀究(きわむ)さん(84)は昭和20年(1945)4月から毎日、休みなく働いたと言います。それは終戦の8月15日まで続きました。しかし、採れる鉱石の種類は豊富でも量はわずかで原爆をつくれる量のウラン鉱石はほとんど採れなかったと言います。
原爆をつくるにはウラン235が10キロ必要とされました。そのために天然ウランを約1・5トン、集めなければなりません。それは日本の国力をはるかに超えていました。
東京・駒込にあった理化学研究所の49号館。ウランを濃縮する分離筒が据えつけられ、それを入れる六フッ化ウランもつくられました。しかし、1945年4月13日の山手方面の東京大空襲で熱拡散分離筒のある49号館は焼失しました。
5月15日。理研は鈴木辰三郎技術将校に「もう原子爆弾の開発は無理だ。とても出来る状態ではない」と伝えました。原爆開発の中止宣言です。
海軍も昭和19年(1944)10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅、追いつめられるところまで追いつめられました。原爆をこしらえて何とか巻き返さなければならない――。これが海軍の考え方でした。しかし、肝心の遠心分離器は設計段階で稼働することなく、広島への原爆投下を迎えたのです。
一方、日本の原爆製造計画が頓挫したころ、アメリカの原爆開発の「マンハッタン計画」(総指揮官はグローブス少将)は最終局面を迎えていました。1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験「トリニティ」に成功しました。それで8月6日に広島、9日に長崎に落とされました。
このマンハッタン計画に学者や技術者は12万5千人が動員され、天然ウラン6千トンを国内外から確保しました。濃縮工場と、ウランからプルトニウムを分離する工場や研究所も次々と建設されました。
この計画に費やした費用は総額で20億ドル(当時のレートで約85億円)。それは日本の1940年度の国家予算(61億円)を上回っていました。それに対して日本は1000万円、200人ほどの科学者、技術者。その結果は火を見るより明らかでした。
原子爆弾リトルボーイ(実物)
8・15。日本は終戦を迎えました。そしてアメリカに占領されました。1945年10月、米占領軍は日本の原爆製造の息の根をとめるために、CIC(米陸軍諜報局)の指令を受けた特殊部隊によって、理研のウラン分離施設は解体され、世界最高水準を誇ったサイクロトロン(荷電粒子を加速する装置)はトレーラーの荷台に移され、東京湾の中ほどに投棄されました。
同じ運命は京都帝大のサイクロトロンでも起こりました。それらはまだ完成していなかったのですが、容赦なく破壊され、大阪湾に捨てられました。これによって日本の原爆開発は文字通り、幕を閉じました。日本版「マンハッタン計画」の頓挫です。
プロフィール:片野 勧(かたの・すすむ)
略歴:1943年、新潟県生まれ。
フリージャーナリスト。日本ペンクラブ会員、日本マス・コミュニケーション学会会員。著書に『マスコミ裁判―戦後編』(幸洋出版)『メディアは日本を救えるか』(蝸牛社)『捏造報道―言論の犯罪』(音羽出版)『戦後マスコミ裁判と名誉毀損』(論創社)『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)『8・15戦災と3・11震災』(第三文明社)ほか。