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CIE
FILMニュース映画とCIE映画

VOL.1
GHQクラブ編集部

このシリーズでは、占領期を記録したニュース映画の映像について、
一方、GHQ=支配者サイドが日本を民主化する一環として活用した
短編映画(ナトコ映画)について、考究していきます。

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ニュース映画とCIE映画

 

 このシリーズでは、占領期を記録したニュース映画の映像について、一方、GHQ=支配者サイドが日本を民主化する一環として活用した短編映画(ナトコ映画)について、考究していきます。それらについて、別冊「日本占領の正体」において、宮崎経生さんが「ニュース映画 映し出された占領期の日本」と、山内隆治さんが「CIE映画 あなたは占領期にこれを見たか」と題して、寄稿しています。
 そこで、まず社団法人ニュース映画製作者連盟の小冊子がまとめた、1930年代から50年代までの占領時代前後の日本のニュース映画史を何回かに分けて紹介していきます。この「日本ニュース映画史」の文責は、重田一男さんで、黒木宏さん(元日本映画新社演出/事業部長)の調査協力のもと、まとめられています。
 なお、参考資料として、「日本映画発達史Ⅰ~Ⅴ」田中純一郎著 中央公論社/「世界映画史」G・サドゥール著 丸尾定訳 みすず書房/「一億人の昭和史・別冊日本ニュース映画史」毎日新聞社/「ニュースカメラマン」(激動の昭和史を撮る)藤波健彰著 中央文庫/「くらしと産業―戦後50年の歩み―」社団法人くらしのリサーチセンター/「日本史年表」岩波書店/「昭和平成・現代史年表」小学館ほかが示されています。

 

 

「日本ニュース映画史」その1
(4)戦争が生んだニュース映画の時代

 

◆1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発すると、いわゆる時局映画、軍事映画が劇映画会社や大小の映画プロダクションによって続々と製作されるようになった。
「肉弾三勇士」「守れ満蒙」「北満の偵察」「非常時日本」というような、それらの時局映画は新聞社や教育団体によって各地に巡回され、全国の映画館で大々的に興行された。
 戦争は、ニュース映画にとっても最も興行に適した題材であったので、ニュース映画の製作も一気に活況を呈した。
 松竹ニュースを創始した城戸四郎は、「満州事変で世間が騒がしくなると、ニュースがひっぱり凧になり、ニュース映画の黄金時代がきた。そのうちに朝日や毎日などの新聞社が大々的にはひめたので、情報網では彼等の方が完備しているから、松竹は自然に手を引くようになった」と言っている。

 

◆こうしたなかで、時の政府も映画が社会に及ぼす影響の大きさに監視を強めてきた。そして、取締りと並行して映画を国策普及の方面に活用しようという考えが生まれた。そのため、内務省がドイツ、イタリアその他諸外国の映画政策を研究し、昭和9年に省内に映画統制委員会を組織した。さらに昭和10年には、政府の映画国策を助ける機関として、「大日本映画協会」が設立された。
 また、ニュース映画については、昭和9年5月には、外務省の提唱で官民合同の「日本ニュース実写映画連盟」が結成された。結成の趣旨は、「日本の実写及びニュース映画の向上発展と業者相互の連絡を図り、日本の正鵠なる事態状況を内外国に伝えることを使命とする」というものだった。

 

◆1934年(昭和9年)の時点でニュース映画を製作していたのは、松竹、毎日新聞社、朝日新聞社の3社だった。
 松竹ニュースは、昭和7年から音響版に、昭和8年からは発声版(トーキー)になり、正確に週刊発行を厳守して自社の興行ルートで上映していたが、昭和10年末の第249号をもって終刊となった。

 

◆毎日新聞社のニュース映画製作は、大正13年の「大毎キネマニュース」で月2回の定期発行をしていたが、この当時にはまだ興行ルートに乗っていなかった。昭和9年春からは、トーキーニュースとし、週1回定期的に発行した。
 しかし、同じ経営体であるのに、大毎毎日新聞社が「大毎キネマニュース」を出し、東京日日新聞社が「東日ニュース」の名で不定期にニュース映画を発行していた。そこで、昭和10年6月、大阪の本拠を東京に移してニュース映画の製作を一本化し、一本化したニュース映画の名称を「東日大毎国際ニュース」と改めた。
 また、新興キネマ系に配給する分については、別に「新興ニュース」というタイトルを設けていた。

 

◆朝日新聞社は、昭和7年4月に社内に映画班をつくり、記録映画の製作活動を積極的に進めていたが、東宝劇場チェーンとの提携に目算がついたので、昭和9年2月から定期的なニュース映画の製作にのりだした。
 タイトルを「東宝発声ニュース」とし、当初は月2回の発行だったが、月2回の発行では番組編成上不都合だったので、アメリカの「ユニヴァーサル」とドイツの「ウファ」のニュース・フィルムを交互に取り入れて、名称を「朝日ユニヴァーサル発声ニュース」、「朝日ウファ発声ニュース」と改め、週1回の発行に踏み切った。
 さらに、昭和9年7月からは、この両者を統合して「朝日世界ニュース」とした。

 

◆1936年(昭和11年)になると、満州事変はますます拡大して大戦争に発展する様相をみせてきた。そして、現地の状況を直接に眼で知ることができるニュース映画への需要が増し、ニュース映画の興行力はさらに高まってきた。
 こうした社会的な背景のもとに、各地にニュース映画専門の上映館が急増した。そして、毎日、朝日の両新聞社を追って、読売新聞社や地方の有力新聞社、同盟通信社などが相次いでニュース映画の定期製作を開始した。

 

◆読売新聞社は、昭和10年4月から読者勧誘用に巡回活動写真班を設け、同時に日活から招いたカメラマンを専属にして、不定期なニュース映画や短編映画を提供していた。昭和12年4月からは社内に映画課を設け、ニュース映画の定期発行を開始した。その内容は、「聯盟ニュース」に独自に撮影したニュースを加えたものだった。

 

◆1936年(昭和11年)11月、東京牛込の録音スタジオ「映音研究所」が地方の有力新聞社によびかけて「全日本発声ニュース新聞聯盟」を結成。「週報・聯盟発声ニュース」を製作し、ニュース映画のタイトルには各新聞社の社名を冠して各地に配給した。

 

◆同盟通信社は、昭和11年1月に政府の情報伝達機関として発足した東洋最大の通信社だったが、同年9月から、事業の一環としてニュース映画部を設け、「同盟ニュース」の製作を開始した。
 同盟通信社は政府の協力機関であったので、同盟ニュースには満州の現地で撮影されたフィルムが刻々と送られてきた。同盟ニュースの戦況場面は他社ニュースの追随をゆるさぬものとなり、特に敵前での同時録音で撮影した「徐州大会戦の実況」は、ニュース映画の新機軸として注目を集めた。

 

◆1937年(昭和12年)7月、北京近郊の盧溝橋で日中両軍が衝突。満州事変はついに全面的な日中戦争に発展した。そして、ニュース映画に新たな転機が訪れた。
(つづく)

記事:GHQクラブ編集部