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COLUMN「エーザイ」
- VOL.37
- 小川 真理生さん
ここでは、「エーザイ」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第37回「エーザイ」
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「戦後史年表」(小学館)の「1949年(昭和24年)」の項に、「4月 エーザイ、避妊薬『サンプーン』を発売。戦後初の新薬」とあったので、今回は、エーザイの歩みを取り上げる。ネットに、「エーザイの歩み―第2章―日本衛材株式会社の船出(1938-1954年)」がアップされているので、それを見てみよう。
太平洋戦争の直前に、「日本衛材」を設立。
そして、「桜ヶ岡研究所」との合併。
桜ヶ岡研究所は1938(昭和13)年、小麦胚芽油から抽出した日本で初のビタミンE剤『ユベラ』を開発したのをはじめ、生理用品『さんぽん』、薬用香粉『らへんで』などを世に出した。この頃、桜ヶ岡研究所の工員は74人に膨れ上がり、三河島の敷地では手狭になっていた。そこで、埼玉県本庄町(現、本庄市)の鶴巻製糸工場を買い取り、1941(昭和16)年12月6日、資本金18万円の日本衛材株式会社を設立(現在のエーザイの母体)。豊次53歳、太平洋戦争が始まる2日前のことであった。
1942(昭和17)年5月、戦争を遂行する名目で、資本金50万円以下の企業は合併か廃業かを強制する企業整備令が公布された。そのため、1944(昭和19)年12月26日、桜ヶ岡研究所と日本衛材は合併して存続することになった。
戦後、軍需産業から民需産業へ。
ベビーブームを商機に『サンプーン』を発売。
戦局が悪化し、本土空襲が始まる中、日本衛材の経営を支えたのは軍の携帯食(乾燥食糧)だった。医薬品工場というより、軍の食糧工場という色合いを強めていた。1945(昭和20)年8月15日、戦争が終結すると、日本衛材は民需中心の「平和産業」に切り替えることを決断し、民需製品の開発に力を注いだ。
当時、戦後の日本ではベビーブームが起こっていた。そんな折、英国の医学雑誌「Lancet」に掲載された、酢酸フェニール水銀の避妊効果に関する論文を目にした豊次は、女性用避妊薬『サンプーン』を開発し、1948(昭和23)年に発売した。豊次は自ら全国各地を回り、“計画産児”を啓発する講演を行った。
エーザイの主力商品となる『チョコラ』開発。
社名も「日本衛材」から「エーザイ」へ。
戦後の混乱期を乗り越え、1951(昭和26)年上期は、創業以来初の黒字決算となった。そしてこの年、長らくエーザイを支え続けることになるヒット商品が生み出された。チョコラブランドの第1号『チョコラA』である。夜盲症、皮膚乾燥症、小児の栄養障害などに幅広く用いられた『チョコラA』は順調に売上を伸ばし、その後、『チョコラC』、『チョコラD』を相次いで発売した。
1953(昭和28)年には喘息剤『アストフィリン』、消化性潰瘍治療剤『メサフィリン』などの新製品が発売され、事業は急成長した。さらに、1955(昭和30)年5月、社名を「呼びやすく、かつ書きやすく」との考えから、日本衛材株式会社からエーザイ株式会社へと改名。こうして、戦時中、軍需産業として出発した日本衛材株式会社は、新社名「エーザイ」のもと、新たにやってくる高度経済成長の時代を迎えようとしていた。
以下は、「エーザイの年表(1941~1952年)」からの引用である。
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- 1941年(昭和16年)
- 埼玉県本庄町に「日本衛材株式会社」を設立。
エーザイロゴマークの由来
- 1944年(昭和19年)
- 「合資会社桜ヶ岡研究所」と「日本衛材株式会社」は対等合併により「日本衛材株式会社」となる。
- 1945年(昭和20年)
- 第二次世界大戦が終戦。
- 1950年(昭和25年)
- 戦後のベビーブームを機に研究開発を進めていた避妊薬『サンプーン錠』が国家検定にパス。
歴史ギャラリー
強心剤『ネオフィリン』を日本で発売。
- 1952年(昭和27年)
- 高単位B2B1剤『チョコラBB錠』を日本で発売。
チョコラドットコム
乗物酔防止薬『トラベルミン錠』を日本で発売。
以上で引用は終わる。日本が開発した戦後初の新薬が避妊薬だったとは、それだけ人口問題―食糧問題が頭痛のタネだったということだろう。
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー