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電通

COLUMN「電通」その1

VOL.19
小川 真理生さん

ここでは、「電通」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第19回 「電通」その1

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 銀座の電通本社は接収を免れたが、どういう事績を占領期に残したかを「電通一〇〇年史」は記しているかを、今回から3回にわたり見ていこう。

 まず「第二編 試練の時代」から。その「第四章 敗戦後の混迷と荒廃の中で」で、電通は敗戦を迎える。

●電通の八月十五日
 一九四五年(昭和20)八月十五日、米軍機の空襲で大半が無残な焼け跡と化した銀座の一角に、幸運にも奇跡的に焼け残っていた電通本社ビル(現・電通銀座ビル)の二階広間に、上田碩三社長以下八十人ほどの社員が集まって、ラジオを前にして、この日正午から始まった戦争終結を告げる昭和天皇の玉音放送に耳を傾けた。
 日本はついに敗北した。ある者はただ茫然と、ある者はこぼれ落ちる涙もぬぐわず、またある者は嗚咽をこらえながら聞き入っていた。放送が終わったその時、「これからだ」と大きな声で叫んだ男がいた。「いよいよこれから仕事が始まるぞ」と言ったとも伝えられている(片柳忠男『広告の中に生きる男』オリオン社、一九五九)。吉田秀雄常務取締役であった。戦争は終わった。平和こそ広告事業存立の基本条件である。その平和の時が来た。まさに「これから」であった。
 電通の戦後は、このようにして始まった。

●混迷と荒廃の中で
 敗戦後の日本は米国を主力とする連合国の占領管理下に置かれた。米兵を乗せたジープが街の中を走り抜ける風景が当たり前になった。
 占領政策の目標は、日本の旧体制の解体、非軍国主義化、民主主義化に置かれた。これに、やがて激化した米ソの冷戦を反映して、反共主義化が加わった。連合国軍総司令部(GHQ)がこれらの政策を具体化する指令を次々に打ち出した。
 民主主義が、新生日本の合言葉になった。一九四六年(昭和21)十一月三日には、国民主権、平和主義、民主主義を柱とした新しい日本国憲法が公布(一九四七年五月三日施行)された。革新政党の指導する大衆デモのシュプレヒコールが街頭にこだまし、続々と組織された労働組合の赤い旗が風になびいた。国民の間には、価値観の急激な転換を迫られる中で、変化に対する共感と戸惑いが渦を巻いていた。
 一方、敗戦直後の日本経済は、瀕死の状態にあった。四六年の主要経済指標(経済企画庁調査)を、三四年から三六年の平均を一〇〇とした数字で示してみると、実質国民総生産六二、鉱工業生産三一、農林水産業生産七八、国民一人当たり消費水準五八、製造業実質賃金三〇(この数字は四七年)、卸売物価一六二八、となっていて、卸売物価の十六倍は別として、ほかは戦前水準をはるかに下回っている。戦争による経済の荒廃がいかにすさまじかったかが分かる。
 これに悪性インフレの進行が重なった。四五年八月敗戦時のヤミ物価指数は、同年十二月に二倍、翌四六年二月には三倍に急上昇した。政府は預金封鎖のモラトリアムと新円への通貨切り替えの非常措置を講じた。これで一時的に通貨は収縮したが、しかし間もなく再び膨脹し、悪性インフレの進行は止まらなくなった。
 食糧危機がさらに輪をかけた。配給制の下にあった米穀の規定配給量は、一日一人当たりわずか二合一勺(二九七㌘)であったが、その配給も滞りがちで遅配が珍しくなかった。国民の間では、「ヤミ買い」や「買い出し」に、乏しい貯金や衣類・家財をはたく「たけのこ生活」が日常化していた。
 こうした敗戦後の混迷と荒廃の中で、日本は再出発の模索を始めた。

●敗戦直後の新聞界と「同盟」の解散
 新聞界も惨憺たる状態で戦後を迎えた。
 敗戦時に、本土にあった日刊新聞五十四社中、二十九社が米軍機の空襲で被災し、うち二十三社は社屋を焼失。新聞はすべてペラ二㌻。雑誌も一般紙が五十九誌、それも三十六~四十八㌻という哀れなありさまであった。新聞非常措置も一九四五年(昭和20)十月一日に廃止され、全国紙と地方紙のいわゆる「持分合同」も解除された。
 しかし、敗戦後、明治期以来新聞や雑誌をがんじがらめに縛り上げてきた新聞紙法や、戦時中の言論統制の諸法令は、GHQの指令ですべて廃・停止され、「プレス・コード」(GHQ指令「日本に与える新聞遵則」)によるGHQの検閲は行われたものの、占領軍関係は別として言論報道は原則的に自由となった。新聞発行も自由になり、東京で「時事新報」が復刊したのをはじめ、四六年十月末までに新聞紙の創刊が全国で百八十紙に達した。雑誌も、「中央公論」「改造」が復刊する一方で、「新生」「潮流」「世界」「世界文化」などの総合雑誌をはじめ多数の新雑誌が創刊された。
 しかし、発行が自由になったといっても、用紙事情は、原料パルプの不足や電力供給不足による製紙工場の厳しい稼働制限で依然窮迫状態が続いたため、戦後も用紙割当制度が継続された。その結果、新聞は四八年八月に週一回四㌻が出せるようになるまでペラ二㌻時代が続いた。雑誌用紙も事情は同様であった。こうして新聞も雑誌も引き続き広告スペースの厳しい制約から抜け出せることができなかった。
 ところで、第二次世界大戦で日本より先に降伏したもう一つの敗戦国ドイツでは、連合国が軍政を敷き、既存のすべての新聞、通信社、放送局をナチスに協力したことを理由に一掃した。日本の場合、連合国は逆に既存のマス・メディアをそのまま残して活用する政策を選んだ。ただ、結果として、一つだけ例外があった。それは三六年以来、電通通信部を吸収併合して唯一の国策通信社として活動を続けてきた「同盟」であった。GHQは四五年九月二十四日「政府から新聞を分離する件」の覚書を公表した。この覚書はニュース通信の政府からの分離と自由化を要請したもので、「同盟」について名指しはしていないが、第四項に「国内における現在のニュース頒布組織は、現在の独占事業に代わる適当な民間機関ができる時期まで厳重な検閲制度の下に存続を許される」と規定していた。「同盟」社長古野伊之助は、それを事前に知り、公表の直前にGHQに対し自発的に解散することを通告した。
 実はこれとは別に、GHQ命令による「同盟」解散というあり得べき事態に備えて、「同盟」に代わる新通信社設立の動きが、全国紙三社の首脳の間でひそかに進行していた。その顔触れは朝日新聞社千葉雄次郎(取締役、編集総長)、毎日新聞社高田元三郎(取締役、前編集総長)、読売新聞社高橋雄豺(取締役副社長)、それに電通社長上田碩三も加わっていた。それを察知したことも古野の自発的解散の決意を促した要因の一つであったという(『古野伊之助』古野伊之助伝記編集委員会、一九七〇)。高田元三郎によれば、上田が新通信社計画に参画していることに対し、「同盟」側から強い反発があり、上田は途中から計画から離脱した(高田元三郎『記者の手帖から』時事通信社、一九六七)。
 結局、「同盟」に代わる新通信社としては、「同盟」のニュース通信業務を承継する全国日刊新聞社の組合組織の社団法人「共同通信社」と、別に経済通信業務と出版業務を承継する株式会社「時事通信社」の二社が設立されることになり、四五年十一月一日に発足した。「同盟」は十月三十一日限りで解散し、九年十カ月の歴史を閉じた。同社の清算事務は十一月一日に始まり、四七年七月に終了した(『通信社史』通信社史刊行会、一九五八)。
 戦争末期の四五年三月に、日本新聞会から組織替えした日本新聞公社は、敗戦後の同年十月に、統制色を排した自治的組織の日本新聞連盟に改組された。さらに、翌四六年七月二十三日には、新聞倫理水準の維持向上と共通利益の擁護を目的とした社団法人日本新聞協会が新たに設立された。

●広告代理業の急増
 敗戦時、広告代理業は、一九四四年(昭和19)三月に完了した戦時下の企業整備の結果、既述のように、電通をはじめとする十二社に統合されていた。この時の企業整備に際し、十二社で別に「統制組合」(広告取扱業整備要綱第八項)を結成し、広告代理業界の統制組織とする一方、新聞広告取引の統制も図ることとされていたが、これは意見調整が遅れたまま結局戦後に持ち越されていた。
 しかし、敗戦後、状況が一変し、新たな広告代理業の出現も予想される事態となった。そこで、十二社は、四五年九月二十三日、新たに日本新聞広告同業組合を結成し、理事長に上田碩三電通社長を選任した。新聞業界団体の日本新聞連盟は十月、同組合と、それとは別に結成された案内広告代理業組合を新聞広告取扱業者として指定した。新聞広告取引の秩序維持を業者指定制に求めたものであった。だが、その後、新興紙の登場、あるいは戦後復興に伴う新聞広告需要の増大等の結果として新興の広告代理業が続出した。日本新聞連盟の後身である日本新聞協会は、四六年九月、そのうちの十六社に、新たに全国新聞広告同業組合を組織させ、これを指定業者に加えた(『日本新聞協会十年史』日本新聞協会、一九五六)。四七年五月には、同組合にさらに九社が加入している。
 しかし、四七年四月、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」いわゆる「独占禁止法」が公布(七月二十日施行)され、新聞広告取引を指定業者に限定することは同法に抵触することとなったため、日本新聞協会は、新聞広告取扱業者の指定制度をすべて廃止した。この結果、広告代理業はさらに増大し、四八年末には全国で二百二十四社(「新聞協会報」日本新聞協会、四八年十二月八日)を数えるに至り、再び戦前の大小広告代理業の乱立時代に戻った観を呈した。

●新聞広告料金の自由化
 敗戦後初期の新聞広告料金は、戦時中から引き続き価格等統制令のもとで統制価格扱いを受けた。しかし、物価事情の変化、発行部数の変動等から新聞広告単価算定基準の改訂の必要に迫られ、日本新聞連盟は、一九四六年(昭和21)二月、新たな単価算定方式を決定した。同年三月には、新たな物価統制令が公布されたが、新聞広告料金は引き続き同令による統制価格扱いのままとされた。
 しかし、四七年に入ると、新聞広告料金を自由価格とすべしとの意見が関係業界間で高まり、かつ、これまでの協定価格が同年四月公布の「独占禁止法」に違反することとなったため、日本新聞協会は六月、物価庁に新聞広告料金の統制撤廃を申請した。これを受けて、物価庁は十一月二十日より新聞広告を含む広告料金の統制撤廃を告示(十月二十七日官報)した。これによって、新聞広告料金は、八年ぶりに再び自由価格時代に戻ることになった。
 なお、雑誌広告料金は、価格等統制令下では統制の対象外とされてきた。しかし四六年三月の物価統制令では新聞広告料金と同様の統制価格扱いとされた。雑誌業界は、電通など広告代理業の協力も得てこれに反対したが入れられなかった。四六年十一月、雑誌業界は、雑誌広告料金の自主的査定を行う組織として日本雑誌広告協会を設立(後に日本雑誌広告会と改称、現在の社団法人日本雑誌広告協会)した。しかし、雑誌広告料金も、四八年五月には自由化された。

●戦後復興に踏み出した電通
 以上のような終戦直後の混沌とした状況の中で電通の戦後の苦闘が始まった。
 先に触れたように、電通本社ビルは、見渡す限り荒涼とした西銀座の焼け跡の一角に奇跡的に残っていた。敗戦直後、戦災を免れた都心の大きな建物は、連合国軍総司令部(GHQ)の置かれた日比谷の第一生命本社ビルをはじめ、その多くが占領軍用に接収された。電通本社ビルも接収の候補に挙げられた。しかし、上田社長と親交があり戦後来日していた米国のUP通信社副社長兼極東支配人(当時)マイルス・ボーンを通じたGHQへの働き掛けが奏功して、危ういところで接収を免れた。電通がこの社屋を拠点として、戦後復興の歩みを踏み出すことができたのは、大きな幸いだったというべきであろう。
 復興には何より人材という戦力の確保が必要であった。敗戦直後、本社ビル入り口には社員募集の手書きのビラが張り出されたという。その後も、電通は積極的に人材増強策を打ち出していった。
 営業の主力は戦後も新聞広告であった。敗戦直後の新聞広告は、経済と社会の疲弊と混乱の中で、悲観的な予想に反して異常な活況を呈した。その模様を吉田秀雄常務(当時)は、「現在のところ終戦処理広告、銀行会社の総会広告、政党広告、進駐軍関係広告など『臨時もの』が氾濫して」いて、「その比率は『臨時もの』八割、『営業もの』二割というところ」であり、したがって、「薬品、化粧品、書籍、映画、演劇(広告)等の『営業もの』への切換え」をどう図っていくかが課題だ、と語っている(「日本新聞報」日本新聞連盟、一九四五年十一月十五日)。
 そうした状況に対応して、電通は、四五年十一月六日の薬品・化粧品業界を皮切りに、映画・演劇、デパート業界、書籍出版業界、銀行・信託・保険業界等の各業界代表との「情報懇談会」を四回にわたって開催し、「終戦後の政治経済の転変と広告界の急激なる変貌とに対処し、……広告宣伝の新展開を企画し」た情報交換会を実施している。この「情報懇談会」の演出者でかつ主役は吉田秀雄であった。新しい広告会社電通の未来を暗示させる広告主サービスの手法であった。

●本社機能の整備拡充も進む
 本社の機構も、戦後の業務の拡大や必要に応じて時を追って拡充整備され、一九四六年(昭和21)十二月に業務局内務部を元の中央部と地方部に戻し、休眠中の調査課を調査部に独立させ、企画部を新設するとともに事業局に代理部を新設した。調査部の発足は、経験と勘だけに頼らず、科学的客観的な資料に基づく広告宣伝を目指す電通の新たな戦略的活動の開始を意味した。四七年一月には総務局に渉外課を新設している。
 他方、地方組織の拡充を急ぎ、四五年十二月に札幌に北海道支社を新設、四六年三月に九州支局(小倉市)を九州支社に昇格、大阪、名古屋とともに四支社体制を敷いた。また、四六年五月京都支局の開設をはじめとして地方支局の拡充も推進した。
 社員数は、敗戦時の二三八人から、四六年五月末に三五九人、十一月末に四二九人、四七年五月末には五三四人に増えた。
 なお、四六年二月一日には、電通のみならず広告界の情報紙として、「電通報」(旬刊)が発刊された。他方、同年八月、「電通会」が社員の親睦共済団体として設立されている。また四七年二月には、電通従業員組合が、電通初の労働組合として結成されている。

●戦後初期の営業成績
 戦後初期の営業成績は表(省略)の通りであった。戦後インフレによる新聞雑誌広告料金の急騰の結果が、一九四六年(昭和21)五月期以降の収支の数字に表れている。利益は対前期比横ばいないし減益で、同年十一月期からは配当を七%から五%に抑えており、経営の苦心がうかがわれる。
 なお、戦後初期の異色の事業として四六年二月、電通出版部から発行された月刊総合雑誌「世界文化」の発刊がある。雑誌「改造」元編集長水島治男を編集長に迎えて発足した「世界文化」は当時簇出した新興総合雑誌中の有力誌として注目されたが、同年末、電通から離し、大地書房(編集長は水島のまま)に譲渡された。またそのころ電通は一時系列会社から日刊新聞を発行している。「世界日報」がそれで、四六年八月十五日創刊。資本金一九万五〇〇〇円、大半を電通が出資、発行部数七万部。上田社長は、戦前、通信・広告併営時代の電通通信部長から「電聯合併」で「同盟」常務理事に転じた。戦後、外地から引き揚げてきた上田に連なる記者たちが中心になって、国際報道を特色とする日刊新聞の発刊を計画したもので、社長に元「同盟」華南総局長横田実が就任した。異色の日刊紙として注目されたが、しかし、振るわず、四八年十月前田久吉の産業経済新聞の傘下に入り、「世界経済新聞」と改題された。

●上田社長、公職追放令該当で退任
 ところで、電通が敗戦後の極めて困難な状況の中で、復興へ向けて前進を始めた矢先、思いがけない事態が発生した。
 一九四七年(昭和21)一月四日に政府が公布した改正公職追放令の被追放者に該当して、上田碩三社長が公職から排除されることになり、他方、電通が追放令該当者の就業が禁止される「公職」機関に指定されたため、電通社長を退任せざるを得なくなった。
 改正公職追放令は、対象者と「公職」の範囲を著しく拡大した。上田社長は、同令のG項に該当したものである。上田は、「電聯合併」で電通から「同盟」に移り、四五年電通に復帰して社長に就任するまで戦時中の「同盟」の常務理事、編集局長の地位に就いていたが、それが理由であった。上田は取締役会に社長退任を申し出て、六月二十一日の定時株主総会で承認された。電通第三代社長としては二年の短い在任であった。
 上田は一八八六年(明治19)、熊本県八代郡宮原町に生まれ、一九〇九年東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し電通に入社した。初代社長光永星郎夫人のいとこに当たる。入社後は、終始通信部にあって敏腕を発揮し、通信業・広告代理業併営時代の電通通信部を世界の電通に育て上げた功労者であった。(第三編 飛躍の軌跡 につづく)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー