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資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年

COLUMN「資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年」

VOL.9
小川 真理生さん

ここでは、「資生堂」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第9回 「資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年」

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戦中の資生堂がどういう苦難にあったか、社史の第六章 戦禍に耐える」から見てみよう。

「太平洋戦争前夜
 事実上の経済封鎖が日本を緊めつけていた。いわゆるABCDラインの包囲である。重慶に移った蒋介石政権を援助するアメリカ・イギリス・オランダの政策は、日本の経済的破滅をつよく打ち出していた。明治政府によって樹てられた、封建的国家から近代資本主義国家への構想は、アジアに於ける二つの戦争と、世界大戦への参加とその捷利によって、所期の目標に到達したばかりでなく、列強の一翼として、日本の発言は国際政局の舞台で重きをなすに至っていた。近代的産業を背景として、国家は発展し、資本は蓄積されたのである。そのようなわが国がつぎの発展段階を準備して突きあたった壁が、いまABCDラインをもって表現されるところの国際資本であった――と、言ってもよかった。軍旅は満州を略し、北支を圧し、長江深くに達し、南支に及び、北部仏印にまで進んだが、日本の経済はいよいよ圧迫されてきた。重苦しい空気のなかに、非常時という言葉と翼賛政治という現実で、開戦への準備が着々なされて行った。
 昨年の、大政翼賛会、国民服、隣組、大日本産業報国会につづいて、今年は、まず年頭に戦陣訓が発表された。生活必需品の配給制度に加えて、各種軍需に関連して日常生活の代用品化がはじまった。
 日本の運命にとって決定的役割を演じた昭和十六年(一九四一年)の姿である。

 経営の分割
 緊迫した非常時局のもとで、事業はすばやい機動性を必要とした。そのためには事業の機構は単純化されなくてはならない。そしてまた機構は、輸送力の激減と物資の地域的存在に対処するため、個々単位で活動できなくてはならなかった。そのような情況のもと、昭和十六年一月、株式会社資生堂から、資生堂薬粧販売株式会社(現在の株式会社資生堂化粧品店・それまでは小売部と呼ばれた)と資生堂食品販売株式会社(現在の株式会社資生堂パーラー)が分離独立し、大阪市北浜三丁目に大阪支店が設置された。前者は株式会社資生堂を純粋にチェインストア本部としての任務に従わせ、後者は大陸との交渉の活発化にともない地域的に大阪および九州の市況の重視されるに至った実情に応じさせたものである。大阪支店長には伊藤隆男があたった。

 戦運利あらず
 化粧品業界はいよいよ逼迫して行った。資生堂化粧品も、製造中止品が激増した。製造が続けられているものでも、化粧品にとって第二の生命ともいうべき容器の代替を余儀なくされた。内容も外装もともに代替品の製造ということが、この年の課題であったとも言えた。薬品・雑貨類が、販売組織を維持するために次々に新発売された。
 昭和十六年十二月八日、早朝から国を挙げて、異常な興奮につつまれた。アメリカ及びイギリスに対して宣戦が布告されたのである。重苦しい圧迫感が一瞬吹きとんだ感じであった。だが次の瞬間、事態の重大さがいっそう強く人々を緊迫した。実際に戦況は、昭和十七年(一九四二年)前半までは有利に展開したが、後半からは不利になって行った。昭和十八年二月ガダルカナル島敗退、四月山本聯合艦隊司令長官戦死、五月アッツ島玉砕と相次ぐ悲報は、物心ともに国民生活のあらゆる面を緊めつけた。
 長いあいだ銀座の名物であった資生堂画廊も三月に閉鎖された。ついで四月、わが国で最善最美を誇る資生堂美容室も閉鎖され、その施設の金属類は資源として献納された。
 化粧品本舗としての資生堂の事業は急速度に下降して行った。代替品をもとめても平和産業には資材が許されなかった。石鹸は八月から配給品となった。経営をつづけるためには、これまでにも増して薬品・雑貨類に活路を見出さなくてはならない。そのような情勢下に、資生堂製薬株式会社が吸収合併された。

 企業整備
 整備という名のもとに、まず小売店から始まり、戦争遂行に深い関係のない産業はすべて整理されつつあった。資材面においては言うまでもなく、働く人の面においても、召集あるいは徴用によって、青壮年はことごとく軍隊または軍需工場に動員された。作戦目的に直接縁のない企業は、その存在を否定されているに等しかった。
 昭和十九年三月、在内地の資生堂販売会社五十一社のうち三十七社が業務を中止することになった。業務を継続する販売会社は、六大都市以外では仙台、広島、高松、福岡の四社にすぎない。男子七十八名、女子二十七名、別に管理薬剤師というのが残された販売会社の人員である。千数百名をかぞえる人員をもって、資生堂の販売組織における卸売機関として全国に活躍していた盛時を思うとき、それは余りにも変貌した姿であった。
 その十月、株式会社資生堂においても本社機構の大部分が、疎開の意味で、東京工場及び工場発送部内に移転した。

 破滅に瀕した事業
 ここ一年の裡にすっかり変り果てた世の中である。男子学生は学徒兵として戦場へ、女子学生は挺身隊員として軍需工場へ駆りたてられた。銀座の街路灯は、すでに長いあいだ消えていたのが、金属非常回収によって取りはずされてしまった。街路灯ばかりでない。市内電車の路線まで、新橋・三原橋間が二月に、土橋・数寄屋橋間が四月に、それぞれ撤収された。道路には防空壕が掘られた。劇場、料理店は閉鎖された。疎開のため店舗や住宅は強制破壊された。しかも戦局は日毎に不利である。今日あって明日なきに等しい現実のなかで、資生堂化粧品は限られた乏しい資材を工夫して製造されたわずかな数量を、送荷用に通い籠を用い、残存の資生堂販売会社を通じて出荷されていた。
 今回の配送品は木箱御送附の向に對してだけ直送の手配を執りました。
 このような出荷案内も書かれた。
 しかし、資生堂の事業は、戦火に耐えて生きなくてはならない。それは懸って外地にあった。さきに開設された資生堂撫順分工場は新設の満州資生堂株式会社の撫順工場になったが、既に北支資生堂株式会社によって天津に、中支資生堂株式会社によって上海に化粧品工場が、台湾資生堂株式会社によって新竹に潤製歯磨工場が、朝鮮資生堂株式会社によって京城郊外永登浦に化粧品及び歯磨工場が設けられていた。また中支漢口に歯刷子工場が建設された。更に天津及び青島には石鹸の委託工場も設けられた。そして、マニラ、ジャカルタ及びバンコックでの製造について、社員が派遣され、その一部は実際に作業をはじめた。

 決戦下の高級化粧品
 それは旱天の慈雨にも似た朗報であった。化粧品の相当の量が製造できることになったのである。しかも高級化粧品であった。政府特別指令により、交易営団を通じて必要資材を調達する措置も講じられた。北支から政府が銅を輸入するその見返り物資として、写真機が小西六に、高級衣料が伊藤忠に、医薬品が武田及び三共に、高級化粧品が資生堂に、それぞれ下命されたのである。軍需工場に動員された女子行員のために配給用として資材が交付されている化粧水、バニシングクリーム、粉白粉を除いては、確たる製造目標をほとんど失っていた資生堂にとって、この高級化粧品の受注こそは、まさに天与の恩恵でもあった。
 余談ながら、この北支向け高級化粧品の完納につづき、ソ連向け高級香水の製造が政府措置をもって具体化しようとしていたが、これは遂に実現をみなかった。米ソ密約を察知しない日本政府が、日ソ中立条約を拠りどころとしてソ連に戦争終結の斡旋を依頼しようと考え、その際ソ連高官夫人への贈り物の一つとしようとしたものである。

 三たび廃墟となる
 昭和十九年十一月二十四日、東京ははじめてB29によって空襲をうけた。昭和一七年四月のノースアメリカンによる空襲は規模も小さく被害も少なかったが、今回はサイパン島に基地を置いての本格的な攻撃態勢である。この空襲をきっかけに、東京は、この年大晦日までに十五回、翌昭和二十年(一九四五年)は八月十五日終戦までに五十七回、合わせて七十二回被爆し、ほとんど廃墟に近くなった。
 銀座は、まず一月二十七日午後の空襲で、泰明国民学校が直撃弾二発をうけ教員四名が爆死した他、銀座四丁目、西四丁目、西五丁目、西六丁目の家屋が破壊、そして火災となった。
 一月三十一日。帰途、銀座の災害地を過ぐ。尾張町の交叉點に佇てば、服部一軒を残して教文館までの西側その跡をとどめず。硝子の破片小砂利の如く道路を埋めて惨たり。数寄屋橋外は第一書房より昼夜銀行、更に左折した旧弓町のあたりまで完全なる家屋は一軒もあるなし。爆弾の川へ落ちたりとて朝日新聞社は一枚の窓硝子をも留めず。日本劇場と朝日の中間道路に落下せる爆弾は多数の人命を奪ひたりしといふ。当日の惨想ふべし。泰明国民学校亦直撃弾を受けしにや、附近の港屋、料理店辰巳などと共に焼け落ちて影なし。骨董屋本多春雄の店舗は、鉄扉もろともに傾きて用をなさず。徒らに硝子の破片山積せるのみ。心まったく暗し。ああ何たる大激変ぞや。大東亜戦争の開始されし後と雖も銀座は常に帝都の中心としてその文化を誇り、道往く人は或は柳絮の波を愉しみ、或はウヰンドの飾りつけに慰安を覚えて、生活の裕ならんことを希ひしものなるに、この一年餘以前より俄に暗き影の襲ひ来るありて、銀座はまったく昔日の面影を失ひ、人に生気なく、街に活気なき有様を見るに至れるが、しかも今回のB29の爆撃は根こそぎ銀座をくつがえすに至れり。(邦枝完二・空襲日記)
なお銀座西六丁目には五百キロ爆弾が落下したが、これは僥倖にも不発であった。
 しかしこの被爆は、銀座にとってはまだ序の口であった。次に、三月九日夜半から十日未明へかけての大空襲によって、銀座一丁目、二丁目、西二丁目、西三丁目、西四丁目が焼夷弾で炎上した。
五月二十四日夜半からはじまった焼夷弾による大空襲はさらにすさまじかった。全銀座が夜の絨緞爆撃の恐怖に曝された。そしてそれまでに焼け残っていた土地の殆んどが焼きはらわれた。一丁目から五丁目まではそのすべてが、六丁目はその大部分が失われた。辛うじて七丁目と八丁目がその大半を保つことができたばかりである。それも山下町から外濠をこえて襲いかかってくる火勢に危かったが、銀座残留町民の、手押しポンプをもっての決死的な防火活動によってようやく焼失を免れたものであった。あとは焔のあとを惨しく残して点々と立っているビルディングだけである。関東大震災から二十三年目、銀座は、その大部分を三たび焦土と化した……。

 被爆する
 東京での操業がほとんど絶望といってよかった空襲下の昭和二十年、前橋市百軒町に資生堂前橋工場が設立、一月二十五日歯磨の製造が開始された。そして資生堂東京工場の施設は埼玉県北埼玉郡羽生町及び長野県下高井郡中野町へ疎開するべく準備されつつあった。
 その一月二十七日午後、東京工場に爆弾が落ちた。資生堂として最初の被爆である。さいわい爆弾は小型で、落下点が貯水槽であったため、被害は、爆風による、工員五名の軽傷と窓硝子破壊にとどまった。しかし三月九日夜半からの大空襲では向島区寺島町八丁目所在の製薬工場と本所区横網町所在の資生堂化学研究所が灰燼となってしまったのである。

 壊滅的損害
 このようにして八月十五日、日本中の都市と名のつく処をほとんど焦土とし、二つの原子核爆弾のほか無数の爆弾と焼夷弾により本州だけで婦女子を含む数十万におよぶ非戦闘員の死傷者、一千万人に垂んとする罹災者を犠牲として、大戦争は終了した。東京だけでも二十万ちかい死傷者と二百五十万を超える罹災者であった。
 資生堂の事業がうけた損害はまさに壊滅的であった。それは再び立つ能わざるほど致命的であった。人的の面は勿論、物的の面においても、資生堂本社としては資生堂化学研究所と製薬工場が空襲で焼失、東京工場の一部が疎開のため撤去され、台北郊外の資生堂農園が失われた。製造部門の同系会社としては、資生堂絵具工業株式会社工場が被爆炎上した。資生堂販売会社としては存続十四社のうち東京、名古屋、京都、大阪四社を除く十社が空襲で焼失した。資生堂チェインストア並びに資生堂セールスメンバーは全国都市の大部分が罹災したため大半が失われてしまった。
 外地関係はもちろん悉く奪われた。旧版図にあっては前記農園のほか、台湾資生堂株式会社とその新竹工場、朝鮮資生堂株式会社とその永登浦工場、加えて台湾、釜山、京城の各資生堂販売株式会社が、支那大陸にあっては、満州資生堂株式会社とその撫順工場、北支資生堂株式会社とその天津工場、中支資生堂株式会社とその上海工場、資生堂海南島開発株式会社とその瓊山農園、さらに漢口工場、天津及び青島の委託工場等の製造及び原料施設とともに、奉天、大連、新京、哈爾賓、斉々哈爾、図們、天津、上海、漢口、青島、広東の各資生堂販売株式会社ならびに資生堂香港出張所が、すべて放棄される運命にたち到った。
 そして、東洋の市場が一切喪われたのである」

 

 ここまでが敗戦までの資生堂と銀座のあゆみについて、社史が記録していることである。(つづく)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー