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東京會舘いまむかし

COLUMN「東京會舘いまむかし」-3

VOL.5
小川 真理生さん

ここでは、「東京會舘社史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第5回 「東京會舘いまむかし」(3)

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 今回は、「東京會舘いまむかし」の第二部 東京會舘時代・前史、を見ていこう。新会社の体制整備が着々と進み、「帝国劇場別館での営業再開」へと進む。

「[帝劇別館を借り受け]新会社の体制は整ったものの、東京會舘が本来の事業を自主的に運営するまでには、もう少し時間がかかる。何よりも、その本拠ともいうべき本舘の建物がGHQに接収されたままで、返還の目途が立っていなかった。会社も従業員も実質的にはアメリカ占領軍の支配下に置かれていた。実体は、政府(特別調達庁)から建物の家賃をもらう経営であり、管理・運営の実質精算による請負い営業であった。
 こうした状況の中で、東京會舘は独自の道を模索し続けていた。建物の接収状態がいつまでも続くとは誰も考えていない。いつかは本舘の接収が解除される時がくる。その日に備えて、会社としては経験も積み、組織体制を整えておく必要がある。
 こうした判断から、東京會舘は、他の営業場所を捜しはじめた。その結果、東宝が所有している帝国劇場の別館を借り受け、食堂・宴会場の再開を決めた。昭和二十二年十一月一日、東宝との賃貸契約を成立させた東京會舘は、営業開始に向けて昼夜兼行の内部改装に取りかかった。
 帝国劇場別館は、東京會舘の正門玄関と道路をへだてて向い合っている。建坪一三四坪、鉄筋コンクリートの四階建で、一階の一部は、日本交通丸の内営業所がガレージとして使っていた。
 もともとこの別館の建物は、帝国劇場の付属施設として建設された。二、三階は帝国劇場の事務所、四階は、芝居の稽古場として使われていた。
[別館の改装](省略)
[待望の自主営業再開]……こうしてすべての準備を整えた東京會舘は、建物の改装を待って、昭和二十二年十一月二十五日、これを「東京會舘別館」として待望の自主営業を開始した。宴会場と調理場が別棟になるなど、条件は必ずしも十分ではなかったが、まだ焼け野原にバラックという生活が続く首都で、何はともあれ自主営業を開始したことは注目すべきことだった。……
[パシフィック・シティズンズ・クラブ・オブ・トーキョー]東京會舘の営業が再開されると、占領下の新時代を反映した人々が、続々と来舘するようになった。そして一種のサロンが形成され、以後の東京會舘の発展に、有形無形の支えを与えてくれることになる。
 サロンに集まる人々には、たとえば日米親善に尽力した明治大学教授の松本滝蔵、評論家の平沢和重などがいた。松本はハワイ生まれの二世で、後に衆議院議員となり、外務政務次官などを務めた。また平沢は、外交官としてニューヨーク領事を務め、後にNHKのニュース解説者として活躍した。いずれも当時では数少ない国際人であり、かつ占領下の日本で、民間の隠れた外交官として重要な役割を果していた。このほか、外交官、国連大使として活躍し、後に共同通信社社長となった福島慎太郎、政界の芦田均、三木武夫、福田赳夫といった人々もしばしば顔を見せた。
 平沢、松本、三木らは、その後、東京會舘別館を拠点に「パシフィック・シティズンズ・クラブ・オブ・トーキョー」を結成し、東京會舘の事業についても側面からさまざまな協力をしてくれることになった。そのアドバイスは、東京會舘にさまざまな形で利益を与えた」

 こうした発展のあゆみはさておき、「第二章 本舘の接収解除と営業再開」の話に移っていこう。まずは、対日講和条約の成立が接収解除のきっかけであった。

「本舘、待望の接収解除なる
[七年間に及ぶ接収の解除]講和条約の発効によってGHQは解散し、連合国の撤退が開始された。それによって、GHQに接収されていた諸施設も続々と返還されていった。
 こうした中で、昭和二十七年七月一日、東京會舘の本舘も、無事、接収を解除された。本舘の接収は、戦時中の東京都庁による徴用も含めて、実に七年四ヵ月の長期間に及んだことになる。
 接収解除の報を受けた東京會舘は、営業再開の日を七月十日と決め、ただちに大がかりな改装工事に取りかかった。接収解除後十日でのオープンである。極めて急なスケジュールに、昼夜兼行の突貫工事となった。
 加えてこの時点での本舘内部は、ほとんど宴会場・食堂としての機能と設備を失っていた。それだけに改装工事も、普通のものとは異なっていた。
 前にも述べたように、占領軍は、接収した本舘をアメリカンクラブ・オブ・トーキョーと名づけて将校用の高級クラブとして使用していたが、それは東京會舘の本来の使用形態からは、いくぶんはずれていた。すなわち、クラブとはいっても、主として将校の宿舎としての利用であり、一階と三階の格天井の間、四階のバンケット・ホール以外は、すべて宿泊用施設として改装されていた。
[別世界だったアメリカンクラブ]ちなみに、接収中の本舘利用の変遷は、およそ次のとおりであった。
 まず、格天井の間とバンケット・ホールは、それぞれ「ゴールドルーム」、「ローズルーム」と名づけられ、文字どおりクラブとして使用された。そして定食堂は、「カクテル・ラウンジ」。このラウンジは、その後、昭和二十二年に「トリアノン・ルーム」と改められた。アメリカから取り寄せた材料で内装を整え、三つのコーナーを設けた。それぞれのコーナーで異なった雰囲気を楽しむことができ、素晴らしい感覚を見せていた。
 毎晩のように、華やかなダンスパーティや自動車を景品にしたビンゴ大会などが開かれていた。もちろん一般の日本人の出入りできる場所ではなかったが、敗戦後の暗く沈んだ空気の中で、ここだけはまったく別世界の観を見せていた。
 クラブは、昭和二十四年四月一日からシビリアン・クラブ「ユニオン・クラブ・オブ・トーキョー」と改められ、昭和二十七年七月の接収解除・返還の日まで営業が続けられていた。
 七年間の接収の間、本舘は、本舘としての歴史を刻み続けてきたのである。連夜の華やかなパーティの陰で、日本の明日に光明を招く場としても足跡を残した」
 ともかく急ピッチに本舘の修復工事を順次進めてきて、昭和二十七年「七月十日、装いも新たな本舘再オープンのパーティ」が開かれるのである。

 ここでは、社史が「“接収”が残したもの」を総括しているので、紹介しておこう。
「[サービスと衛生観念]。占領軍による本舘の接収は、六年半に及んだ。
 この間の営業活動を通じて、東京會舘は、いくつかの貴重な体験をした。主導権は持たないものの、従業員がそのまま営業に携っていたことから、多くのものを学び取る機会となったのである。
 第一に、占領軍高官を相手の営業だったことから、いわゆる西洋人のマナーや料理の嗜好などを肌で知ることができた。その結果、従業員は、巧まずして西洋感覚のサービスを身につけることになった。それは、以後も、高級フランス料理の提供とサービスを追求する東京會舘にとって、無形の貴重な財産となった。
 第二は、西洋の進歩した衛生思想を学びとったことである。もともと日本人は清潔を好む民族であり、ほとんどの人が、そう信じていた。だが、実際に占領軍の指揮下に入って見ると、調理場の衛生基準は日本よりもかなり厳しいものだった。例えば、調理台の継ぎ目が少しでも黒くなると、垢がたまって不潔だといって包丁で削り取らせる。また、タイルの継ぎ目が変色したり、ストーブが少しでも錆ついても同じである。
 食品についても、非常に神経を使う。缶詰のフタを開けたら、すぐにガラスの器に移してパラフィン紙で覆わせる。少しの間も、中身を缶の中に入れたままにしておくことは決して許さなかった。
[新しい運営法のノウハウ]第三は、防火等に関する合理的な知識の習得である。それまでの日本の現場教育は、どちらかというと、それが起こる前の防火よりも、起こってからの消火に重点がおかれていた。ところが占領軍の考え方は、まったく逆である。要するに、そうした事故が起こらないための合理的な方法・知識を徹底的に指導するのである。
 それらのことは、経営に対する基本的な考え方、感覚の違いを示していた。外見的には西洋の進んだ文化の先導者であり、すべての面で西洋の一部を切り取った別世界と見られる雰囲気を持っていた。だが、ひとり東京會舘だけでなく、その経営は、経験や経験律によって行われていた。まだ、科学的・合理的な思考が定着していなかった。その事実を、接収という他動的体験を経ることによって知らされ、学び取ったのである。
 占領軍の接収は、わが国の宴会・料理業、ホテル業に新しい運営のノウハウを持ち込み、定着させていく役目を果したのであった。それは、東京會舘の自主運営に大きな役割を果し、よりその実力を向上させることになった。しかし、それらを確実に身につけることができたのは、基本的には、東京會舘が、それまでの営業の中で、その土台となる力を養ってきていたことも忘れてはならない」

 ここでは、接収がどういうメリットをもたらしてくれたかを総括している。悪いことばかりでなく、いい点もあったのだという肯定的な評価もしているのである。(「東京會舘」の巻終わり)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー