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COLUMN「東京會舘いまむかし」-2

VOL.4
小川 真理生さん

ここでは、「東京會舘社史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第4回 「東京會舘いまむかし」(2)

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第4回 「東京會館いまむかし」(2)
 今回は、占領期に東京會館がどういう運命をたどったかを社史がどう綴ったか、見ていこう。次は「第五章 戦後再建への胎動」である。

「占領軍による會館の接収
[戦災を免れた大東亜会館]昭和二十年八月十日、日本は、ポツダム宣言の受諾を決定、八月十五日、ついに無条件降伏をした。
 アメリカ軍による徹底した空爆によって、首都東京は、ほとんど荒廃の極みに達していた。東京の街は、文字どおりの焼け野原であった。
 日本最大のビジネス街として経済の中心をなしてきた丸の内界隈も、ほとんど人影がなく静まりかえっている。
 帝国ホテルは、二十年五月の空襲によって本館を除く南館、宴会場の大部分を焼失していた。界隈で、なんとか生き残った建物は、帝国劇場、東京會館、第一生命、東京商工会議所、明治生命、日本興業銀行、日本工業倶楽部ぐらいのものであった。
 激しい戦火の中で、東京會館は生き延びた。雨のように降り注いだ焼夷弾を、宿直の従業員や自衛団が消し止め、何度となく襲いかかった焼失の危機を防いだのである。戦争が終わり、建屋は残った。だが、東京會館がその荒廃から立ち直るには、まだまだ長い時間を要した。
 日本のポツダム宣言受諾の報を受けた連合軍は、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥を連合軍最高司令官(SCAP)に任命し、フィリピンに日本代表を呼び寄せて日本占領に関する事務折衝に入り、八月二十八日[実際は30日]、マッカーサー司令官は、厚木飛行場から日本の土を踏んだ。そして、その月の三十日から連合国軍隊の日本進駐が始まった。さらに九月二日、東京湾に姿を現したアメリカ海軍のミズーリ号艦上で降伏文書が交され、日本は、正式に連合国の占領下におかれることとなった。
 当初、横浜に本拠を置いていたマッカーサーは、九月十一日[実際は8日]、東京・赤坂のアメリカ大使館に移動した。大使館で東京への進駐式を終えると帝国ホテルに赴き、四〇名の連合軍高官と昼食会を開き、その足で焼け跡を視察し、」焼失をまぬがれた目ぼしい建物を次々に接収していった。
 まっ先に第一生命の本社ビルが接収され、連合軍総司令部(GHQ)が置かれた。また、明治生命ビルには、極東空軍の司令部が置かれることになった。これといった建物は、最終的には、ほとんど接収の対象となる。
[GHQのクラブとして接収]マッカーサーが東京に進駐してきた一週間後の九月十七日、帝国ホテルが総司令部直轄の宿舎として接収された。そして、それからおよそ二ヵ月半後の十二月四日、東京會館も接収の運命に遇う。
 当時、大東亜会館は東京都庁の仮庁舎として都に徴用されていた。占領軍の接収によってこの契約は自動的に解除され、同時に建物の名前も、元の東京會館に戻されることに決まった。
 この接収は、東京會館に大きな不安を抱かせた。なぜなら、終戦と同時に、営業再開に向けての復旧工事の準備が着々と進められていたからである。事実、都庁が使っていなかった五階では、一部工事が開始されていた。
 大正十一年の竣工・開業以来、東京會館の国際総合宴会場としての堂々たる風格は、どのようなときにも失われることがなかった。それぞれの部屋は、事務所として使われていたものの、宴会場としての機能は損われていなかった。例えば、桃山調の意匠の粋を集めて造られた三階の格天井の間や、ルネッサンス様式の縮図といわれた四階のバンケット・ホールなどは、そっくり開業当時の風格を残していた。
 こうしたすぐれた建物が、接収の運命にあったのは、当然のことであった。東京會館の内部に一歩足を踏み入れた占領軍の高官たちは、その立派さに一様に驚きの声をあげ、格天井の間を“ゴールドルーム”、バンケット・ホールを“ローズルーム”と呼びかえて賛嘆の声を上げたものである。
 占領軍は当初、東京會館を主に高級将校のための宿舎とクラブとして使ったが、二年を経ずして将校クラブ専用となり、“アメリカンクラブ・オブ・トーキョー”と呼ばれた。

 

 

財閥解体と東京會館
[GHQの占領政策]アメリカンクラブ・オブ・トーキョーの運営は、東京會館が、占領軍との日本政府側窓口となった外務省・終戦連絡中央事務局の委託を受けて行うという形がとられた。したがって、東京會館そのものに限っていえば、実際の運営は、従前からのスタッフ、従業員によって行われたわけで、外見上は、文字どおりの営業再開であった。
 新しい主人を迎えた東京會館の対応は、素早くかつみごとなものだった。創業以来のノウハウを十二分に生かして、調理、サービスに当たり、占領軍の将校たちを十分に感嘆せしめた。
 それとは別に、東京會館の立場は、連合軍の占領政策の中で大きく揺れ、変化しはじめていた。
 昭和二十年十一月一日、連合軍総司令部は、戦争遂行の中核となった日本の産業・経済構造を根底から改革し民主化する目的で、財閥解体を指令した。簡単にいえば、巨大経営体を分散させ、力を弱めようということである。その手初めとして三井、三菱をはじめ一五財閥を指定し、解体令を発したのである。
 財閥解体からはじまった産業の民主化は、昭和二十二年七月の独占禁止法の実施に発展し、さらに十二月、過度経済力集中排除法へと進んでいく。そして、これらの政策に沿って設けられた持株整理委員会が中心となって、具体的な作業がどんどん進められていった。
 こうした事態の推移に対して、帝国劇場をはじめ多くの事業体を包含する東宝は、解体の対象になるのではないかと恐れられていた。規模からいえば、三井や三菱の大財閥に比ぶべくもないが、独禁法、過度経済力集中排除法の成立を予想して、事態の窮迫を認識せざるを得なくなった。
[東宝からの分離独立]そこで東宝は、まず本来の映画製作にまったく関係のない東京會館を分離、独立させることにした。東宝の傘下に入ったとはいえ、東京會館は、独立した組織として運営されてきたことは前にも述べたとおりであり、分離、独立しやすい条件を持っていたことも、この決定を促す一つの要因であった。
 ただ、独立新会社の設立には、大きな障害があった。つまり、当時は、資本金二〇万円以上の新会社の設立が認められていなかったのである。そこで東宝は、子会社で事実上の休眠会社であった大正土地建物株式会社に東京會館の資産を移し、この会社の社名、本店所在地う、事業目的等を変更して、事実上、新しい「株式会社東京會館」を設立するという方策を考えだした。
 財閥解体令で、自身の解体の危機を察知した判断は、正しく的中した。つまり、東宝は、昭和二十三年二月二十二日、過度経済力集中排除法の指定を受ける。素早い判断と行動によって、東京會館は“独立”への新しい第一歩を歩み出していくのである」

 こうして、東京會館から東京會舘へと新しい社名になり、新しい歴史を刻みはじめるのだが、その社史は次回に譲ろう。(つづく)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー