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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第14回
「鎌倉とマッカーサー」

地方占領期調査報告第14回「鎌倉とマッカーサー」

 1945年9月2日の午前中に、戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印式が行われた。その様子をUNITED NEWSがどう伝えているかは、以下の動画で見てほしい。

 また、日本側随行者の加瀬俊一の回想を、彼の著『加瀬俊一回想録』(下)山手書房、1981年、から見てみよう。

 

 一九四五年九月二日。
 その日は九月にしては珍しく涼しかった。だが、私にとって久しぶりに着るモーニングは肩に重く感じられた。重いはずである。降伏使節の礼装なのだから。シルクハットは空襲で焼いてしまったので、小林次郎貴族院書記官長から拝借した。どうせ、形式的に持参すればよいのだ。冠るまでのこともあるまいと思った。
 一行は重光葵、梅津美治郎正副両全権に、陸・海・外三相から各三名ずつ九名の随員を加え、皆で十一名だった。早朝四時半、永田町の首相官邸に集まって、東久邇首相以下の閣僚に出発の挨拶をした。挨拶というよりは訣別という感じが強かった。いまでこそ、実感は湧かぬが、この日の我々一行は、あるいは生きて帰れまい、という気持だったし、見送る人々の目の色も同じ思いを語っていた。だから、我々の労をねぎらう首相の声も沈んでいたし、冷酒の乾杯も、さながら水杯をくみかわす趣があった。
 なにしろ、八月十五日に廟議が終戦に決定してから、まだ日が浅く、意気盛んな少壮将校のなかには降伏を潔しとせず、最後の一撃を怨敵に加えようと猛り立つ者も少なくなかったのである。したがって、降伏使節の一行が途中で襲撃されることも充分あり得ると考えられた。だからこそ、私は路上に屍を横たえる際の心構えとして、下着類はすべて新しいものを身につけた。私などは、もしそうなっても、いっこうに差し支えないと思っていた。暗殺沙汰は褒めたことではない。だが、たとえ、時勢を解さぬ無知の暴行であっても、愛国の至情に促された行動であることには疑問の余地がない。敗残の祖国を再興する民族的原動力は、唯ひとつ愛国心だけである。その愛国心は敗戦によって、恐らく希薄となろう。
 この際、我々が愛国者の手にかかって果てるのは、必ずしも無意味ではあるまい、と考えたのである。いずれにしても、マッカーサー元帥に危害を加えたり、ミズリー号に特攻攻撃を試みられたら、それこそ、一大事であって、せっかく苦心に苦心を重ねて取り運んだ終戦は吹き飛んでしまう。むしろ、我々が終戦の人柱にーそういう心境だった。
 首相官邸には、「承詔必謹」という額がかかっていた。私は晴れの国際会議に赴くたびに、この額の下で、いくたびか、時の首相から激励の言葉を受けたものである。そういう時には、格別の感慨をもよおさぬ額だった。だが、この日は、ちょっと違っていた。
 というのは、降伏使節には誰もなりたがらず、人選が困難だったのである。東久邇稔彦首相は皇族だから別として、近衛公爵―副首相格で重きをなしていた―を初めとして、重臣は、みな、口実を設けて断った。そこで、ついに、重光外相のほかない、ということになった。
 陛下に召されて参内すると、外相は、
 「事ここに至ったのは真に遺憾の極みでありますが、歴史あってこのかた、多くの国が戦って、勝ったり負けたり到しました。しかし、勝敗そのものは、さして重要とは思われませぬ。真実に重要なのはどうして敗れたのかその原因を深くさぐり、真の敗因を除き去って、速やかに祖国を再建することであります。私のみるところでは、破局を招来した最大の禍根は、倫理的欠陥にあると存じます。これが真の敗因であり、これを清算しなくては、日本の再建は期し難いと存じます。
 降伏文書の調印は、実に、その機会を提供するものであります。すなわち、この日にこそ、日本は倫理的再生の途につき、自由と民主主義のもとに民族復興の第一歩を力強く踏み出さねばなりません。私はこれが陛下の思し召しであることを、かねがね、よく承知しております。ですから、降伏を屈辱とのみ思わず、むしろ、日本に再起の出発点を約束するものとして、誇り高く肩をそびやかし、胸を張り、使命を果して後世の史家に、この日こそ日本民族の栄誉の日であったと、感嘆させる決心であります」
 と述べた。陛下は涙を抑えて深く領かれた。この内奏書は私が起草したのである。外相は私に、
 「ぜひ君にも一緒に来てもらいたい。君とは終戦の促進について、つぶさに辛苦を分け合ってきたではないか。だから、最後まで見届けてほしいと思う」
 と訴えた。私はこの朝の外相の心境こそ、まさに、「承詔必謹」だと思った。そう思うと、この四字がいつになく躍動して見える。東郷平八郎元帥の書である。
 重光外相は政府を代表し、梅津参謀総長は統帥部を代表したのだが、外相はこのような心境だったから、まだしもとして、総長の苦痛は察するに余りあった。日本には降伏を卑怯と考え、むしろ、玉砕を尊ぶ気風がある。とくに、これが武人の伝統だった。それに軍部は、つい先日まで、一億玉砕を叫んでいたのである。だから、総長が降伏使節に選ばれた時、憤然として色をなし、
 「それなら、腹を切ったはうがよい」
 といって、激しく拒絶したのは無理もない。それが、ついに説得されて引き受けたのである。陛下の意向が反映した結果である。その他の随員にしても、それぞれに、「承詔必謹」だった。それにしても、随員の氏名が公表されなかったのは、なにやら意味深い。いまでも思い出すが、私たちのもらった辞令には、
 降伏文書調印全権随員ヲ命ズ
 と認めてあった。いたって粗末な紙で、形も小さく貧弱だった。それを手にした時の暗然たる感慨を、いまもって忘れ得ない。
 一行は五台の車をつらねて、京浜国道を横浜に向かって疾走した。もっとも疾走とはいっても、爆撃のために路面には随所に大穴があいているので、ジグザグ運転だったから、さしたるスピードではなかった。かつて、工場や民家の密集していた沿道は、目のとどく限り一望の焦土と化していた。わずかに半壊の倉庫が点々と焼け残っているだけだった。それは奇妙なほどに平面的な風景であって、すべての物が倒れて焼け焦げ、焼けただれ、焼け崩れていた。瞳をこらせば、余燼のなかに死体らしいものさえころがっていて、異臭は鼻を刺さんばかり、とても正視に耐え得る情景ではなかった。私は車窓の地獄絵をみて、“焦土抗戦”という言葉の意味を改めて噛みしめる思いだった。
 “国破レテ山河アリ”というが、いまは山河さえも、むごたらしく破壊されたではないか。もし、終戦の廟議が成らず、軍部の主張によって一億玉砕に猪突していたら、日本全土が荒廃したに違いない―眼前のこの焦土と同様に……。
 それを思えば、及ばずながら終戦促進のために身を挺したのは正しかったのだし、いまこうして、降伏使節団に加わって屈辱を忍ぶのも、あるいは外交官としての本分をつくすことなのかもしれぬと胸中密かに自らを慰めたのである。
 やがて一行は神奈川県庁に到着し、小憩をかねて調印式に関する最後の事務的打ち合わせを遂げた。敵将マッカーサー元帥は三日前書八月三十日午後―に厚木飛行場に着陸し、横浜市に進駐して、ニューグランド・ホテルに本拠を構えていた。調印式は港外に停泊する戦艦ミズリー号で行われる。行事は簡単で、演説などの予定はなく、日本全権は降伏文書に調印さえすればそれでよい、ということだった。
 ここで、自動車は日章旗をおろし、軍人は帯剣をはずした。旗なき外交官と剣なき軍人と、我々は敗北の悲哀を切々と感じつつ、埠頭に向かって、葬列のような行進を黙々と続けた。市内は進駐軍の兵士が警備に当っていたが、怪しく光る銃剣の問を縫うように徐行したのである。
 埠頭には、四隻の駆逐艦がABCDの標識をマストに掲げて待機していた。一行はそのD・ランスダウン号に乗った。太平洋戦争に殊勲をたてた歴戦の軍艦である。乗艦したとたんに顔を見合わせて驚いた。艦長は開戦当時に東京のアメリカ大使館に海軍武官として勤務していたスミス・ハットンではないか! 私は日米交渉を主管したうえに、同じハーバード大学出身の縁故もあって、グルー大使以下の館員とは極めて親しい間がらだった。スミス・ハットン武官とも家族的に交際していた。場合が場合だから、旧交を温める余裕は互いになかった。だが、降伏全権団を迎える艦長に、かつての日本の友人を起用したのには、なにかの含蓄があるように思われて、そこはかとなく明るい感じを抱いたのである。
 日ざすミズリー号は十八マイルの沖に投錨している。ランスダウン号が湾口を出ると、遠近に無数の軍艦が海面を圧して整列している光景が目にはいった。まさに、壮観である。観艦式のように陽気でさえある。それもそのはずであって、その一艦一艦がミッドウェーにビスマーク海にラバウルに、激戦を交えたあげく、今日やっと東京湾頭に集結して、VJデー(対日戦争勝利の日)の晴れの盛宴に列するのである。
 白波をけって進むこと暫くミズリー号に接近した。四万五千トンの戦艦は巨城の量感をもって、灰色にそそり立っている。マストにひるがえる星条旗は、カサブランカにローマにベルリンに、米軍が勝利の入城をした際につねに掲げられた、栄光の旗である。舷側に整列する水兵の純白の軍服が、ひときわ鮮かに波頭に映ずるのを見たと思うと、ランスダウンは、すでに、ミズリーと指呼の距離に止まっていた。
 一行は快速艇に移乗した。ところが、これが義足の重光全権にとっては、容易でない。それと察したスミス・ハットン大佐は、
 「カ自慢の者を四名集めよ」
 と命令した。たちまち屈強な水兵が現われ、重光全権を前後から抱きかかえた。すると、全権は私に小声で、
 「抱きおろされるところを撮影せぬように、断ってくれ給え」
 というのである。私はすぐに艦長にこれを申し入れた。全権は威厳(デイグニテイ)を傷つけるような写真を撮られると、これが公開された場合には国家の名誉を損ずる恐れがあると考えたのだろう。もっともな心配だった。昨日までの宿敵日本に対する戦勝国民とくにアメリカ人の憎悪は深刻だったのであって、ずいぶん、悪意に満ちた写真や映画を撮らぬでもなかったのである。
 古い話だが、満州事変が突発した時、ある米国の大新聞はその第一報を、出淵駐米大使夫妻がマイアミ海岸で水着姿で寝ころんでいる写真とともに掲載したことがある。それが、日本では右翼の外務省攻撃の材料に利用されたりした。そういうこともあるのだから、外交官や政治家は写真の撮られ方を心得ていなければならぬ。幸いに艦長は快く私の要請に応じ、即座に投影を禁止してくれた。
 こうしてランチに乗り移ったが、ミズリー号に接舷してタラップを登る段になって、また、ひと苦労した。隻脚(上海事変の際に朝鮮人の投げた爆弾で右脚を失った)の重光全権が、ステッキをたよりに重い義足を引きずって、一歩一歩喘ぐようによじ登る姿は、実に、痛ましかった。無事に登り切ってホッとしたのである。
 上甲板は黒山の人だった。我々は両全権を最前列にして、そのうしろに三列に並んだ。すぐ前には緑の布におおわれたテーブルの上に降伏文書と覚しき書類が置いてあり、これをはさんで、戦勝国代表が一団になって立っていた。赤・青・緑・金・茶と色とりどりの服装に、肩章・徽章・勲章が眩しく輝く。周囲には褐色の軍服を着た米軍の将官が立ち並び、燃えるような憎悪の眼―と私は思った―を光らせている。後日知ったことだが、ハルゼイ提督などは、日本全権の顔のどまんなかを泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動をかろうじて抑えていたのである。
 甲板ばかりではない。マストの上に、砲塔の上に、煙突の上に、実に、ありとあらゆるところに、さながら曲芸の猿のように、“観衆”は鈴なりになって、我々を凝視していた。将校も水兵も記者もカメラマンも、みな、一個の巨大な“観衆”となって、日本全権団の動作を、その一挙一動を、追っていたのである―露骨な敵意と無限の好奇心とをもって。
 私は彼らの視線が鋭い矢になって、皮膚をつらぬき、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。その矢は幾千本であり、幾万本だった。生れていまだかつて、人間の視線がこれほどの苦痛を与えるものだとは知らなかった。私は歯を食いしばって屈辱感と戦いながら、冷静を失うまいと必死に努力した。
 ふと見ると、傍らの壁に小さな日章旗が描かれている。幾つもある。多分、ミズリー号が撃墜・撃沈した日本の飛行機・艦船の数に相当するのではあるまいか。一つ、二つ、三つ―数えているうちに、涙であろうか、目が曇ってしまった。花と散り急いだ特攻隊の青年たち、彼らの霊がこの旗にこもっているとすれば、今日この調印式の光景を、そも、なんと見るであろうか……。
 私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。
 マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。意外なだけに私は緊張した。一語も聞きもらすまいと思って、全身を耳にして傾聴した。
 意外である。まったく意外である。元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。
 私は外務省で米英関係の事務を多く主管し、在外任地もワシントン、ロンドンが長かったし、終戦当時は情報部長の職責にもあって、マッカーサー元帥の人物・識見については、ある程度の研究はしていた。だが、刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。彼さえ望むならば、鉄の鞭をふるって、満座のなかで、我々に痛烈な汚辱を与えることもできたのである。現に、戦勝国民の間には―米国民も―それを期待する世論が強かった。それなのに、自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。
 私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。彼は劇的センスが豊かであり、自己演出が巧みである。風はなかったのだが、元帥の手にする紙片は明らかにふるえていた。故意か偶然か―それによって劇的効果はさらに増し、世紀の歴史の瞬間は白熱昇華したのである。演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。
 重光全権が進み出た。私は介添えに立った。全権はおもむろにテーブルの前に着席すると万年筆を握って、二、三度インクの滑りをためしたうえ、私に「漢字にするか、ローマ字にするか」と尋ねた。
 「むろん漢字です」
 と答えると、達筆で、「重光葵」と署名した。その次に時刻を書きこむ空欄がある。全権は黙って私を仰ぎ見る。私は腕時計をみる。時刻をささやくと、うなずいて、九〇四と書き入れた。午前九時四分過ぎである。
 続いて、梅津全権が署名し、次にマッカーサー元帥が署名した。これが九時八分だった。あとは、アメリカ、中国、イギリス、ソ連邦、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順番で戦勝国代表が次々に署名した。
 これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。国民政府代表が進み出た時には、アジアの二大国として親善たるべき日華両国が長く抗争し、いま、勝者と敗者に分かれて相対する悲劇を、形容に絶する哀感をもって味わった。
 また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。“酔後各各分散ス”であって、VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。とすれば、戦勝国の祝杯も必ずしも甘露ではなかったろう。
 このような感慨にふけっている間に署名は終り、元帥はおごそかに調印式の終了を宣すると、直ちに退場した。
 そこで、降伏文書(二通署名した)を一部受領せねばならぬ。私はサザーランド参謀長からこれを手交されると、その場でいちおう点検した。参謀長は、なにをぐずぐずしているのか、といわんばかりの態度で、頻りに我々の退場を目顔で督促したが、私は知らんふりをしてゆっくりと点検を続けた。すると重大な誤記がある。カナダ代表が誤って次のフランスの欄に署名したので、順送りに、国名と代表者名が一致しなくなったのである。私は参謀長にこれを指摘して、
 「これは持ち帰れない」
 といった。参謀長は当惑の態で、これで我慢しろというようなことを繰り返す。結局、我々一行は正確な調印文書を受領して、天皇陛下に復命する義務があるのだ、といって押し問答をしたあげく、参謀長が所要の訂正を加えて体裁を整え、とにかくケリをつけた。この問、随員の多くは何事が起ったのか気がつかなかったようである。他聞を悍ることでもあったので、私語的交歩をしたから。事実、このエピソードは今日も知る人は少なかろう。
 重光全権は、
 「よく念を入れて点検してくれた。やっばり君に来てもらった意味はあるよ」
 と語ったが、こんなことがあるから油断は禁物である。よく調べずに持ち帰ったら末代までの名折れである。私が、
 「昔、木村長門守が使者に立って、徳川家康の偽血判を見破ったとかいう巷説がありますが、あれですよ」
 というと、全権は、
 「講談も案外役に立つものだね」
 とはじめて笑った。
 さて、これで式は滞りなく終了し、我々一行は、往路を逆に、再びランスダウン号に乗って、横浜港に向かった。駆逐艦の上では全権団は、さすがに緊張感から解放されて、思い思いに印象を語り合っている。この時、暗雲散じて青空に明るく太陽が輝き始めたが、VJデーを慶祝して、四百のB29と一千五百機の艦載機が一大ページェントを展開した。その轟音の問から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流れる。これが、また、流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して、
 「日本民族の精力が平面的でなく立体的に発動し、その才能が建設的に活用されれば、必ずや現在の悲境から脱出して、尊敬に値する国際的地位を回復するであろう」
 と大胆に予言したのである。
 私は駆逐艦の一隅に座を占めると、急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。マッカーサー元帥がその著『レムニセンセス』(回想録)のなかで長々と引用した拙文――『朝日新聞』に邦訳が掲載された――はこの報告を敷衍して、私の英文著述‘Journey to the Missouri’(『ミズリー号への道程』エール大学出版部)の巻頭に収めた一文なのである。
 私はこの報告書を、
 「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」
 という疑問で結んだ。
 これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。
 日華事変以来、我が軍は陸に海に空に善戦し、銃後の国民も犠牲を忍んでよく困苦に堪えたのに、ついに敗戦の憂き目をみたのは、敵の巨大な物量に圧倒されたからだけではない。それもさることながら、それよりも軍部の暴走を許した国民倫理に大きな欠陥があった。日米戦争は、ある意味では、非倫理と倫理の戦争だったし―史家エドマンド・バークの言葉を借りれば、「両者の距離は高等数学をもってしても計量できぬほどに大きかった」のである。
 いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。
 全権と別れると、私は首相官邸の地下・執務室に近衛公爵を訪ねた。帰ったらすぐ来てくれ、と頼まれていたからである。報告を終えると、「そうですか。それなら幾らか安心だが……」といって、公爵はしばらく瞑黙した。万感去来という表情だった。これが私の接した公爵の最後だった。淋しい公爵だった。その後、三カ月で自決したからである。
 私は首相官邸から議事堂へ急いだ。衆参両院議員が私の帰るのを待ちわびていたのである。ほとんど全員が参集していて、会場には異様な熱気がこもっていた。いろいろに批評はされても、とにかく憂国の情においては純真な人が多かった。調印式の経過を説明したうえ、
 「占領は厳格だと思う。だが、マッカーサー元帥は、“寛容と正義”を力説しているから、我が国の前途は必ずしも悲観するに当るまい。正しい主張ならば、元帥も快く耳を傾けるのではあるまいか。ただ、それには、今日を再出発の日として、全国民が一億一心となって祖国の再建に猛然と全力を結集せねばならぬと信ずる」
 という趣旨を訴えた。私も真剣だったが、議員たちも真剣に聴いてくれた。大麻唯男氏をはじめ、最前席を占めた幹部のなかには声を呑んで涙にむせぶ姿も見受けた。盛んな拍手をあとにして辞去する時、私は、これこそ愛国心の爆発だと思った。マッカーサーにこの愛国の拍手をきかせたいと思ったことだった。
 その日も薄暮、私は情報部長として外人記者と初会見をした。部長室から溢れ出るほどに多勢集まった。みな、軍服姿であって、ミズリー艦上で取材した連中ばかりである。戦前からの顔見知りの者も少なくない。会見が終わっても、一人だけ居残った老記者がいた。彼は大きな手を差し出し、「けさは辛かったろうね。私も辛かった」という。温かい手だった。
 UP通信社のマイルス・ボーンだった。人も知る親日家である。
 彼が立ち去ったあとで、なにげなく机の上に置いたシルク・ハットを取り上げると、美しく包装されたチョコレートが音を立てて転がり出た。金も、銀も、赤も、青も、緑もある。久しぶりに見る珍品だった。
 ああ、平和が戻った―そう思った、つくづくと。
 調印式は無事終了したが、この日午後、連合軍当局は、「日本国民に米軍票を使用させ、日本の裁判所を閉鎖し米軍事法廷で一切の裁判を行う」という布告を公表すると通告してきた。これには内閣は色を失ったが、三日、重光が元帥と談判して中止に同意させた。重光の功績である。
 ところが、終戦連絡事務局を外務省から内閣に移管する問題が起り、重光は外交を多元化するものとして強硬に反対して、緒方書記官長と対立し、ついに辞任した。東久邇内閣在任は僅か一カ月だった。その夜、新喜楽に重光が主人となって、渋沢敬三・小日山直登らと会合したが、みな緒方が繆斌(みょうひん)事件の報復をしたのだ、と推測していた。後任外相には吉田茂が起用された。

 

 こうして、降伏調印式は終わったのだが、それは午前中には終わっているはずである。
 マッカーサーたちは、この後、鎌倉に行っているが、その件について「読売新聞」は、2週間以上経った9月18日に、下記のように報じている。

 

“厳粛”崩さぬマ元帥――鎌倉八幡宮詣でに示す人格の片鱗
【鎌倉 電話】米軍進駐以来約半ケ月、わが国内はこの間に未曾有の改善が急速に行はれ、米軍の進駐また最高司令部の厳格な命令が徹底して極めて平和裡に精々と勧められてゐる
 その間マッカーサー元帥の動静は公的なもの以外殆どわが国民に知らされてゐないが、こゝにマッカーサー元帥の床しい人格を物語る一つの挿話がある
 それは去る二日、あのミズーリ号で歴史的降伏調印式の日のことである
その日午後三時ごろ鎌倉鶴ケ岡八幡宮社前三の鳥居前に十四名の米軍将官を乗せた薄緑色の自動車がゆるゆると止つた、一行は“馬車の乗入を禁ず”と書かれた御札を見ると自動車から降り、長い砂利道を踏んで宮殿前に参進、先頭の将軍が恭しく挙手の礼拝をすると(それがマ元帥であることが後になつて知れた)他の将官達もそれに倣つて厳かな参拝を行つた
 参拝を終ると元帥は神札授與所で白羽の”破魔矢”の授與を乞ひ他の幕僚達の手にもそれぞれ一本の破魔矢が渡された、さうして再び宮殿に向つて礼拝すると一行静かに緩い石段を下つた、その間元帥の厳粛な態度は些かも崩れなかつた
 一行が石段を降り切つたころ通訳の米士官が社務所に立寄り、朱印帳を開ひて捺印を求めた、そこではじめてこの将軍が連合国軍総司令官マッカーサー元帥の一行であることが知れた
 何の前触れもない、しかも意外な元帥の参拝に驚いた藤田宮司が慌てて応対すると、元帥は通訳を通じて気楽に
 「私は四十年前このお宮に参拝したことがある、そのときと少しも変わらない、しかしそのころ君は未だ少年だつたらう」
 等と語り、懐かしさうに境内を眺め廻した、その表情や態度は実に穏やかで、数時間前行はれた降伏調印式のことなど全く感ずることが出来なかつた
 「どうぞご少憩を」
 と勧める宮司の詞にも
 「有難う、けふは急ぐから」
 と静かな足取りで幕僚達と共に辞したのである、元帥によつては日本進駐以来これが最初の私的な行動だつたらう、八幡宮参拝のマ元帥の印象を藤田宮司は次のやうに語つた
 「なんの予告もなく突然の参拝だつたので本当に吃驚しました、元帥の動作や言葉は実に穏やかで、終始敬虔な態度を持してをられたのには感服致しました、そののちも時々米軍の指揮官や兵達が参拝に見えますが神社の規則をよく守り「ここで写真を撮つても差支へないか」と訊ねたり「写真を撮つても構はぬか」と聞いたり、公徳心の行き届いてゐることは実に敬服します、日本人でも土足のまま入る宮殿前の石段をわざわざ靴をぬぐ士官や、参拝にあたり帯剣をとつて敬礼するなど、その●●の念の無さには大いに学びましたこれも一つに総司令官の人格が下にまでよく反映してゐるのではないかと思ひます」

 

 この後、マッカーサーは、ニューグランド・ホテルに次いで宿舎として設けられていた「横浜・根岸の山の上にある元スタンダード石油の支社長、C・マイヤーズ邸」に向かったのでる。