拾遺記 Vol.2 番衆 三光さん | GHQ.club

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POSTSCRIPT拾遺記

VOL.2
番衆 三光さん

「重ね地図東京マッカーサーの時代編」の執筆陣が、それぞれのテーマに関して、紙幅の
関係で書ききれなかったことや書き洩らしたことなどを、改めて記載するコーナーです。

第2回 番衆三光さん
「新宿から青梅街道――Kアベニューをパトロール」

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当時は高い建物もなく、空気もきれいだったので、
この西口から富士山が眺められた。
焼野原の焼けた立木の間から望見される富士は、
『国破れて山河あり』の一節を思い出させたものである。

 

■まずは新宿二丁目の赤線へ
原田弘は通訳警察官としてMPのジープに同乗して東京をパトロールしていたという。『MPのジープから見た占領下の日本』に詳しくレポートしているが、ここではその一端を紹介しよう。
 原田など「日本側警察官は日比谷の東京地区憲兵隊司令部=PMO(帝国生命ビル、今の朝日生命日比谷ビル)まで行き、そこにやってくるMPのジープを待って同乗した」という。
 原田は「カー35」というカー・ナンバーのジープで、Kアベニュー(青梅街道)とHアベニュー(甲州街道)をパトロールしている。
「日比谷を出発したカー35は、まず皇居のお堀沿いを通り、半蔵門へ向かう。終戦後、皇居の各門には、連合軍兵士が着剣して警戒にあたっていた。半蔵門も例外ではなく、ネパールやトルコの兵隊の姿も見られた。現在の最高裁判所のところにはパレスハイツ・ドライブインという米軍用の喫茶、軽食の建物があり、その隣、国立劇場の一帯にはジュラルミンかトタン製の米軍簡易宿舎、通称カマボコ兵舎が並んでいた。半蔵門会館の東側には警視庁職員の殉職者を祀る弥生神社があったが、このころ九段田安門の中に移されてしまった。さらに四谷方向に走ると、右側(北側)の焼跡に『マッカーサー元帥顕彰碑建立計画云々』と書いた看板が立っているのが見えた。日本語で何が書いてあるのかをMPに説明すると、彼らは『マッカーサー元帥は偉大な軍人、政治家である』と、よく胸を張ったものだ」
 そして四谷を過ぎて新宿2丁目にさしかかるが、それまでは、「両側ともほとんど焼野原で、焼トタンのみすぼらしい壕舎がいたるところにその姿を残していた」という惨憺たる姿だった。では、赤線の2丁目に踏みこんでみよう。
 原田らは必ずといっていいくらい、「この赤線を巡回した。MPも私たちと同じ24、5歳の若者なので、赤線に興味があったのは当然のことであろう。もちろん米兵の立入禁止地区で、米兵は発見しだい、立ち去るように指導した。
 昭和20年代後半の新宿2丁目で営業していた特殊飲食店(赤線)は営業者約70余軒、そこで働く女性従業員450余名であった。この女郎屋は江戸時代には青梅街道筋に並んで営業していた内藤新宿が前身であった。新宿2丁目の赤線は青梅街道から北側、靖国通りまで戦後の安普請の建物で、部屋もベニヤなどで仕切られていたところが多かった。ここの女性は店の敷居から一歩でも外へ出て男を引いてはいけない、つまり店の敷地内から呼び込まねばならない規則になっていたのだが、そのルールは厳密に守られてはいなかったようで、靖国通りを走っていると、よく女が通行人の手を引っ張る姿が見られた。
 昭和25年ごろ、ここは皇太子殿下(現天皇陛下)の学習院への通学路線にあたっていたが、登校されるのは早朝であり、さして問題のある場面はなかった。しかし、夕方お帰りのときは、お目にとまる可能性があり、ついに環境整備ということで、その周囲に板塀を巡らされてしまった」
 その「赤線の西側は都電の軌道で区切られていた。軌道の西側では『末広亭』などがすでに営業を開始していたが、そのすぐ近くに『武蔵野ビヤホール』という連合軍将兵向きのビヤホールが麗々しく回転営業していた。ここでもよく、米兵の喧嘩があった。あるとき、英連邦軍の豪州兵が10名ほど、入口にスクラムを組んで米兵と対立抗争を起こし、われわれの米軍MPとキャンプ・エビスの英憲兵司令部から駆けつけた英軍MPとで、相互を説得し鎮めたこともあった。さいわいこのときは流血事件には至らずに収まったが、工兵隊というのはどこの国でも気質の荒っぽいのが多いらしく、伊勢丹ビルに駐屯していた米軍工兵にも、いろいろ武勇伝があったようだ」
 この伊勢丹ビルについて、当時、中野の国民学校6年生だった歌手のペギー葉山が証言している。
「私のうちは東中野だったが、まわりは全部焼け野原で、なぜかうちだけが、ポツンと残っていた。焼夷弾は一応落ちたけど、それを消して。ですから私のうちから新宿がポカーンと、その間何にもなかった。夜になりますと、新宿の伊勢丹が丸見えで、はるか彼方に。3階から上が米軍の接収のビルになります。1階、2階はかろうじてデパートの営業してたんですが、夜になると3階から上がワッーと明かりがつくの。ちょうど大きなクリスマスケーキが空中に浮いているみたい。ちょっと異様な光景でした」(NHK「ラジオ深夜便」より)
 伊勢丹の3階より上は、米陸軍第64工兵地形大隊が接収、6階は下士官食堂、7階は将校食堂だった。そこからの残飯で作ったシチューは、栄養満点で、ヤミ市では人気があったそうだ。
 なお、新宿2丁目の赤線について、木村聡の『赤線跡を歩く』は、「戦後は豪華な施設の店が整然と区割りされた街に建ち、美形の女性を集めていたこともあって料金は割高だった」と書く。

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    戦後の新宿周辺地図
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    現在の新宿周辺地図

■新宿駅周辺のヤミ市
 そのヤミ市について、原田はこう証言する。
「新宿駅の東口にはこの地域の顔役が直轄するマーケットが生まれていた。新宿はその土地柄からテキ屋が多く、和田、極東、旧安田、尾津、野原などという各組が勢力を競っていた。いまの高野フルーツパーラーの西の一角は『竜宮マーケット』と称し、PXの横流し品やわいせつ写真などを密かに売買していたが、なかなか現行犯で逮捕するのは難しかった」と。
 では、新宿の西口に大ガードをくぐっていくと、
「新宿駅の駅舎はおおかた焼け落ちており、ホームは雨風の吹きざらしだった。……西口はだだっぴろい広場で、その前の道路をはさんで淀橋署(現新宿署)の交番があった。周辺は空地で、公衆便所がひとつだけ離れたところにあった。夜になるとこの公衆便所の周辺に男娼が現れた。人数は3、4人と少なかったが、ときに米兵なども近くのドヤへ引っ張りこんでいたようである。
 当時は高い建物もなく、空気もきれいだったので、この西口から富士山が眺められた。焼野原の焼けた立木の間から望見される富士は、『国破れて山河あり』の一節を思い出させたものである。広場の西には『学同』と呼ばれる朝鮮人学校があり、淀橋署から常時2、3人の警官が警戒のために駐在していた。その西側は淀橋浄水場である。土手の上に登らないと中は見えなかった。
 大ガードを抜け(たところに)、都電荻窪線のターミナルの安全地帯がある。この安全地帯の反対側にゲテ物食いの店があり、熊やら猪やらが吊されていた。ここを通る都電、荻窪線は最後まで他の都電と連結することはなかった。相互の軌道の幅が違っていたとのことである。
 成子坂から中野方面にかけては実にきれいさっぱりと焼払われていた。ここでも、江戸以前の武蔵野の地形がはっきりと見てとれた。西から東へ丘陵があり、その谷間を神田川が流れ、緩やかに上り坂となる柏木(新宿区西新宿・北新宿)付近」である。

■焼跡がえんえんと続く青梅街道に入る
「昭和24年当時のパトロールでは、青梅街道はこの中野坂上から西側へは原則として行かなかった。40ストリートすなわち山手通りの交差点でUターンして、都内に戻るのである。しかし、のちに第二期パトロール時代になってからは、都内23区の境界をPMO(東京地区憲兵隊司令部)管轄の境界線、シティ・リミットとしたので、さらに善福寺、練馬の関町まで遠出するようになった。
 中野坂上から西にかけては、まだまだ焼野原は続いていた。晴れた日には富士山をはじめ大山など、丹沢山塊が望まれた。北側に宝仙寺という名刹があったが、この寺も焼失し、江戸時代にはじめて渡来した寺宝の像の骨も焼けてしまったと聞く。中野署の手前には明治期に造られたようなレンガの高い塀が焼け残っていた。中野鍋屋横町の次に杉山公園の交差点がある。これが48ストリート(中野通り)である。この先、中野・杉並境の天神様の大公孫樹は遠くからよい目印になったが、それも数年前の台風で折れてしまった。杉並公園の手前に丸吉という古本屋が焼跡に建っていたが、ここへアメリカ軍の大型トラックが飛び込んで店を大破させたこともあった。農林省の蚕糸試験場は罹災していなかった。この先、高円寺の都電車庫あたりまで新宿からずっと焼野原がつづき、また一部は強制疎開で建物が壊されて空き地が目立った。
 青梅街道も馬橋から阿佐ヶ谷以西になると、戦災の被害は少なく、戦前の姿を残していた。ところどころに藁葺き屋根の農家や竹林が見られ、二階建て以上の建物は少なかった。成宗の都電停留所を過ぎるあたりで、青梅街道は新道と旧道に分かれた。旧道は荻窪駅南口のほうへ向かうのだが、新道はまっすぐ駅北口へ向かい、中央線をまたぐ陸橋を越える。所沢のジョンソン基地方面から来る米軍車両は皆この新道を走ってくる。武蔵野市にはグリーンパークという米軍宿舎が旧中島飛行機の工場跡地に造られていた。まだ武蔵野の欅の森に囲まれていたようなところであった。
 荻窪から先は都電の軌道もなく、道路自体も若干広いので、スピードを出す車も多く、したがって事故も多かった。荻窪駅周辺にはバラックのマーケットが建てられ、小さな店舗の間の細い路地には人の波が溢れていた。駅北口の青梅街道上に荻窪署の交番があった。その真後ろに小さい都バスのターミナル休憩所があった。われわれはよくこの休憩所入口の脇にジープを停め、無線のコードを伸ばして休憩所内でもすぐ応答できるようにし、休憩所の中で暖をとったものだ。ここから百メートルぐらい新宿方向に戻ったところに、当時、宮本武蔵などの朗読で有名であった徳川夢声の家があり、黒い塀と門はいつも閉まっていた。
 シティ・リミットの練馬・杉並の境を過ぎると、青梅街道は半分以下の広さになり、道路の真ん中には、拡幅工事中で取り残された石の地蔵尊や庚申塔などが立っていた。ここらあたりから西へ向かって右側は広い畑地、左側は農家とそれを取り囲む防風林である。街灯もなく、夜は真っ暗であった。私たちは、よくここから立川やジョンソン基地などのほうから来る大砲や戦車を積んだ大型トレーラーの列を夜中に待ち受け、先導することもあった」
 カー35はこの練馬関町あたりで新宿に向けてUターンし、いま来た道をもどったという。

番衆 三光