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POSTSCRIPT拾遺記

VOL.4
番衆 三光さん

「重ね地図東京マッカーサーの時代編」の執筆陣が、それぞれのテーマに関して、紙幅の
関係で書ききれなかったことや書き洩らしたことなどを、改めて記載するコーナーです。

第4回 番衆三光さん
「帝国ホテルの総支配人・犬丸徹三は、マッカーサー初めての東京巡回を案内する」

postscript

 

 マッカーサーは1945年の9月8日、宿泊していた横浜市中区根岸旭台の元スタンダード石油支社長C・マイヤー邸から、乗用車で入京、アメリカ大使館での国旗掲揚式にのぞみ、4年前の日本軍の真珠湾奇襲の際にワシントンの議事堂に翻っていた星条旗を掲揚した。米大使館の前の住人は、ジョセフ・C・グルーで、彼の日記『滞日十年』によれば、「日本のプロパガンダは幼稚である」との感想を残し、日米交換船に乗るべくここを去ったのは42年初夏だから、ここは約3年間空き家だったことになる。
 さて、9月8日、2台のジープに先導され、黒塗りのセダンに乗ったマッカーサーは、午前11時5分に赤坂・霊南坂のアメリカ大使館に着き、直ちに進駐式が行われ、その後、帝国ホテルに向かった。帝国ホテルの総支配人の犬丸徹三によると、その時、マッカーサーは、「つかつかと私のところへこられた。それでマネジャーに部屋を見せてくれ、案内しろという」。そこで、いろいろ見せると、しばらくして「ちょっと時計を見て、ああ、まだ食事まで40分ある、これからひとつ、犬丸、東京を案内しろと、こういう直接の話なんです」。そこで、総支配人の彼(後に財閥解体で社長の大倉喜七郎が追放され、社長に就任する)は、乗用車の「後ろの席でマッカーサーの隣に乗った。助手席には副官かだれかが乗っていた」ということで、ドライブに出たというわけだ。
 それについては新聞にも報じられたので、よく知られたエピソードだが、その犬丸の証言を三國一朗が東京12チャンネル(現・テレビ東京)で聞いている。それを『証言・私の昭和史⑥』(旺文社文庫)から簡潔に紹介しよう。
 まず、車はビジネス・センターを進んだ。
「ホテルを出て皇居のお堀沿いにまっすぐ御茶ノ水方向へ進んだ」→「日比谷交差点を横切ると右手に第一生命の大きなビルディング」、マッカーサーに、これは何かと聞かれたので、「残っているビルディングとしてはいちばんいいビルディングだ」と答えた。→次は半分焼けている「帝劇」→「東京商工会議所」→「明治生命の本社ビル」→「銀行クラブ」のところを右に曲がる。「これは銀行クラブだといっても、彼はなんの興味もない様子でした」→「朝鮮銀行」→「第一銀行」→「これから、私は銀行の王座をご案内する」と言って進む。→「左手が日本銀行、右手が正金銀行」→少し入って、右が三越、左側が三井本館で三井銀行の間を進んでいく。
 ここからショッピング・センターである。
「三越の前の通りはショップは焼けてなにもない。それで須田町を左へ曲がった、ショッピング・センターはそれですんじゃった」
 今度はエデュケーション・センター。小川町から聖橋へ出て、「向こうのお茶の水を指して、焼けてますけども、あすこは日本の普通教育の発生の地だといった」→赤門から東京帝国大学の校内へ入った。正門に向かい、そこを右へ曲がり、安田講堂のところを通過して、大学病院の前を右の方へ、本郷三丁目に出る。→春日町→「神田の方へ向かって、左向いていくと右手が砲兵工廠の跡」、そこに後楽園の野球場がある。→神田の神保町→「左へ曲がって小川町へいくと、右手にずっと古本屋が並んでいる、左手は、もうみんな焼けている」。マッカーサーから、昔を知っている日本橋の丸善について、「ありゃどうなっている」と聞かれたので、「ありゃ焼けちまった」と答えると、憮然としていたという。
 そこから大手町から皇居前広場に入っていく。祝田橋から三宅坂の方へ曲がり、桜田門を通り、今度はガバメント・センターである。
 三宅坂から永田町小学校の方へ入ると、右手にドイツ大使館(現在の国立国会図書館の一部)がある。「マッカーサーがさかんにドイツの大使館を見ているので、焼けちゃったんだといったら、『ファイン・ジョッブ』と彼はいった」。こうして、一時のドライブは終わった。
 犬丸徹三社長は、日本人としてはじめて、マッカーサーと並んで自動車に乗ったという次第である。マッカーサーは、昼食会を済ませて、その日は横浜へ帰って行った、という。

 

当時の第一生命本社ビル

 

 しかし、矢野一郎の『第一生命館の履歴書』(矢野恒太記念会刊)には、9月8日当日のことをこう書いている。ちょっと長くなるが引用しよう。
「九月八日はマッカーサー元帥の東京入城の日である。午前中にアメリカ大使館において入城式が行われ、昼に帝国ホテルで祝賀のパーティーが催された。それが終わってから、参謀長のサザランド中将が第一生命館、明治生命館、三井本館を順次検分するという予定のようであった。それでE代将からは、私に午後一時頃から玄関で待機してくれとの伝言であった。
 外に立ってホテルの方角を注意しながら待っていたが何の気配もなく時がたつ。おそらく二時くらいであったろう。急にたくさんの自動車が一団となって突進してきたと思う間もなく、先頭の車が目の前に止まった。その瞬間、一人の日本人が転げるように走り出て『マッカーサーが来ました、マッカーサーが来ました』と大声で連呼しながら飛び込んで来た。この人は日本政府から連合軍との連絡のために派遣された山形公使であった。その山形氏のうしろから、元帥とE代将が大股に歩いて来る。後続の車からは大勢の将軍達が一斉に降り立った。それらは全くアッという間の光景であった。
 二台目のエレベーターの一つに元帥、E代将、山形氏、私の四人が乗ると、E氏が五階へと指図。五階の臨時社長室に向かった。E氏と私が先導、元帥と山形氏があとから続くのだが、元帥の歩き方が大きくて速いので、三人の小男は殆ど駈けて歩く有様だった。
 五階の社長室は元来は会議室なのだが、六階以上を東部軍に提供したために、ここを石坂(泰三)社長の部屋にしていた。東と南に窓があるので明るいけれど、何の飾りもない部屋だった。元帥は暫く中を歩いていたが、置時計の前で立ち止まった。そして、”What a beautiful clock!”とつぶやいた。それは方々によくある緑っぽい大理石で作られた時計であったが、七、八年も戦場で寝起きしてきた元帥にとっては、特別な平和な美しさがあったのかもしれない。
 五階の次は六階の正社長室に行った。東部軍では参謀長が使っていたが、くるみ材で丹念に作られている本館中第一の部屋である。しかし窓は南側だけだからやや暗い。元帥は明らかに好まないようであった。そして暫くして、もう一度五階の部屋を見てから、一階に降り、”Thank you”の一語を残して、横浜へ走り去った。それを見送りながら私は、『ああこれで万事決まった』と直感した。他の将軍達も皆家の中を見たのだろうが、私は元帥の行動だけしか知らない」
 のちにこの7階建ての第一生命館は、9月に接収され、52年9月に返還されるまで、GHQ本部並びに、その中枢機関の民政局(GS)によって使用されている。最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の執務室は、結局、6階に置かれた。

番衆 三光(フリーライター)