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No.10
「敗戦直後に洋裁ブーム起こる!」

 ここでは、敗戦直後の「洋裁ブーム」について考えてみたい。
 京都精華大学紀要の第37号に掲載されている井上雅人の論文「洋裁文化の構造」
http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no37/inoue_masahito.pdf
 を紹介したい。注記に、「この論文は、京都精華大学『ポピュラーカルチャー研究会』での研究及び、発表に基づいている。詳 細は『1940/50年代と消費者の身体』(『ポピュラーカルチャー研究 Vol.2 No.2』、2008 京都精華大学) を参照のこと」とある。
 その中の一部を引用しておこう。

 

1-2 洋裁ブームの時代
 第二次世界大戦が終わった直後の時期を「アプレ・ゲール」と呼ぶ。「花田清輝や中村真一郎が真善美社から公刊した新鋭文学叢書」の『アプレゲール・クレアトリス』から命名されたその名前は、単にフランス語で「戦いの後」を意味するに過ぎない。だが、安堵と頽廃に満ちたこの時代は、戦争が終わったという事実だけでなく、軍国主義体制とそれにともなう価値観が崩壊した後という意味も込めて、「アプレ・ゲール」と名づけられたのだろう。……しかし、ジョン・ダワーが「日本人にとっては、実際には一九五二年ま で戦争は終わらなかった」と言うように、政治的にはまだ戦争は終わっていなかった。「『白人の責務』という言葉で知られる植民地主義的なうぬぼれが厚かましくも実行された最後の例」としてのアメリカ合衆国による占領政策が行われたからだ。それは、アメリカと日本との交戦期間より長く続いた。そのなかで占領軍は、「この敗戦国の政治、文化、経済の網の目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革」しようと試みたのである。通常、アプレ・ゲールは日本が独立を果たすまでの時期とされるが、占領が終わり、真に戦後を迎えるまでを「戦いの後」と呼んだのは何とも皮肉だ。ところで、アプレ・ゲールに見られたさまざまな現象は、「アプレ文化」とも呼ばれている。そして洋裁は、アプレ文化のひとつの大きな花であった。花の中心には「デザイナー」がいた。「デザイナー」たちは、「洋裁師」とも「洋装家」とも呼ばれ、綺羅星のごとくあらわれて憧れの存在になる一方で、容赦なく蔑まれた。着るものもろくにない時代に華やかな服をつくって、 誇らし気に着たからである。羨望と憎悪が同時に向けられるのも無理はなかった。ダワーは、当時の生活状況を、ある主婦によって寄せられた新聞の投書を例示して、次のようにまとめている。
――彼女が描いた状況は生々しかった。赤子を背負って米などの配給物資を求め東奔西走する。不足がちな家庭燃料を補うため、歩くときはどこでも木の切れ端を拾いあつめる。朝は家族の誰よりも早く起床し、一番遅く寝床につく。映画を見るどころかコーヒー一杯飲む金すらなく、牛肉のような貴重な食べ物はもっばら家族に食べさせる。いまだにだぶだぶで 擦り切れたモンペをはき、化粧もせず外を歩く。若さを失い、知性を失い、その日一日を生きるためにすべてを失っている。──これは自分だけの自画像ではなく、知りあいの数多くの主婦たちも同様ですと書いている。
 ダワーが描く戦後占領期の日本は、貧困の極地と言ってもいい。この時期、日本がどれほど貧しかったかについては、多くの人が多くの回顧をしているのであえてくわしく紹介する必要はないだろう。誰もが思い浮かべる象徴的な事件として、1947年に、判事という職業上の立場から、闇市での食糧調達を拒絶したために餓死にいたった山口良忠の事件あげておけば良いだろう。あるいは野坂昭如の『火垂るの墓』や、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を思い出しても良いかもしれない。
 しかし、こういった時代に、「洋裁ブーム」などという風変わりな流行現象があったのも事実なのである。貧困のなかの「洋裁ブーム」について、ダワー次のように紹介している。
――もちろん、パン作りは生存の必要に迫られてのことであったが、それは同時に、西洋化が日本社会の民衆レベルにまで浸透したことを示すささやかな一例でもあった。そうした意味でパン作りに似たものに、「洋裁ブーム」があった。西洋風の服を作る技術は、実用性 の点で魅力的であっただけでなく、戦争中の味気ない不自由さや西洋排斥の風潮からの解 放を象徴するものでもあった。洋裁学校やファッション雑誌や各種のスタイルブックが、 廃墟のただなかで花と開いた。一九四六年はじめ、デザイナーの杉野芳子がいわゆる「ドレメ」(「ドレスメーカー女学院」)を再開しようと決意したとき、用意した願書はたったの三〇枚であった。ところが入学受付の初日、校門の外には寒い中、千数百人もの女性たちが列を作ってじっと待っていたのである。これには杉野もびっくり仰天したという。その後、こうしたチェーンスクールが全国にいくつもできた。アメリカの女性を思わせる、色鮮やかで肩口の広い「ボールド・ルック」が、ファッションにひたる余裕のある女性にとっては流行に、余裕のない女性にとっては憧れの的となった。
 石原慎太郎の『太陽の季節』が出版され、世に言う「太陽族」が出現する1956年まで、日本での、特に衣服に関する風俗や流行は語られることが少ない。しかし、ファッション・デザイナーたちは戦後すぐに活動を再開し、それに呼応するように「洋裁ブーム」がおきているのだ。
 このブームは、大きな成果をあげている。第二次世界大戦前までは、女性の洋服が全くと言って良いほど普及していなかったにもかかわらず、このブームによって洋服が瞬く間に普及したのである。幕末に洋服を知ってから、一世紀も、洋服を日常的に着ることなかった女性たちが、「洋裁ブーム」にのって、ほぼ全員、和服から洋服に着替えたのである。たとえば、今和次郎の1925年の調査によれば、当時繁華街の代名詞であった銀座で、洋服を着ている女性はわずか1パーセントにすぎなかった。それが1955年9月26日の朝日新聞によると、数値は全く逆転して、同じ銀座で和服を着ているのは、わずか4パーセントしかいない。その間の激変の時期に、今和次郎は、次のような経験をしている。「終戦から五年経った夏に、関西から東北にかけて、農村を頻繁に歩かされた。驚いたことに、 どんな山間の僻村に行っても、集まりに出てくる婦人たちは、ほとんどみな洋装姿だった」。今和次郎は「戦前には予想もできなかった変り方」を目にして、「洋服に変ったその変り方の速さにも驚いた」と吐露しているが、なぜそれほどのスピードで変ったかについては述べていない。しかし、この数値や体験談を見る限り、昭和がはじまる1925年と、「もはや戦後ではない」 と言われた55年の間にある「洋裁ブーム」が、眼に映る世相を全く変えてしまったと言うことは可能であろう。

 

 以上の論考にあるように、占領期の一断面を洋裁ブームから見ると面白い。それから、このGHQホームページのコラム「社史より」で、洋裁ブームのど真ん中に存在した杉野学園の「五十年史」を取り上げているので、あわせて参照してほしい。