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No.5
「東京大学が接収を免れた理由について」

 東京大学は格好の接収対象であったが、それを免れ、1946年に、戦後初の新入生が入学しています。では、その経緯はどうなのか、内田祥三(もと東大総長・東大名誉教授)が「学士会会報」の660号(昭和30年7月)と661号(昭和30年10月)で、以下のように、「東京大学が接収を免れた経緯について」と題し、寄稿している。

 

「昨年末、日本建築士連合会の註文で、島田藤君との対談を行い、それが同会機関誌「建築士」の本年一月号と二月号とに連載されたところ、学士会の理事者の中で、それをみられた方があって、復刊学士会月報にも出したら、という御意見があったとかで、和田書記長から、是非それを書くようにとの御要求があった。元来、公事に関することなので、もしかして少しでも、間違いがあつては、その影響も少くないので、私のような記憶力の弱い者は、遠慮した方がよいことなのだが、既に、一度発表してしまったことでもあり、おことわりする訳にもいかないので、お引受けした次第である。当時の簡単な日記をたよりに、できるだけ間違いのないように書くこととする。
 昭和二十年にはいると、戦争も次第に敗色が濃くなって来て、本郷の大学附近にも、大きな木材などがはこばれて、道路や民地に、壕のようなものができるなど、何かあの附近一帯に、軍の施設でもできるのではないか、という感じをもつようになってきた。
 六月二十八日には東部軍の将校四人が大学に来て、今回、宮城及び東京都防衛のため、東部軍管区司令部の下に、帝都防衛司令部ができ、更にこれを数区に分け、各区に、少将が司令官となる部隊が、編成されることとなったにつき、その一部隊の司令部として、東大を使いたい、その人員は、幕僚以下約三千名である、との申し入れがあったので、これに応対した事務官は、本学には、とうてい、そんな余裕はない旨を答えたところ、是非にとの要望なので、その旨を上司に伝える旨を返事したが、先方は、一両日のうちに、返事を聞きに来る、といって退出した、とのことであった。
 そこで、私は、早速、登学中の各学部長の参集を乞うて、本日軍から申し入れのあった内容を報告協議し、翌二十九日には、文部省に文部次官を訪い、昨日の軍からの申し入れの委曲を語った上、現在のような戦局となっては、軍の立場としては、帝都の防衛につき、できるだけの計画をたてるのは、当然のことと考える、然し又一方われわれは、邦家のため、一日も欠くことのできない研究や教育に、建物を使っているので、これを明け渡すわけにはいかぬ、その何れを重しとするかは、極めて重大な問題で、この際、大学としては、与えられたる責務をあやまらないようにしたいので、軍の意志は、十分に尊重するが、最後の線を踏みはずすことはできない、と思っている。先方から、近く、重ねての申し越しがあることになっているから、その際は、こういう気持で、応対をしようと思うので、この点文部省の御了承を得たく、大臣に、さよう御伝えを願う、と述べたが、次官は、個人としては全く同感である旨を語られ、なお、大臣にもよく伝えることを約された。
 軍の司令部が、学内に設けられるようなことにでもなれば、研究や教育は、事実上、本郷ではできなくなる。力による接収が行われるようになれば、何とも致し方がない。不便を覚悟で、次善、三善の策として、疎開の程度も、広げなければならないことなどを考えた。
 六月三十日、東部軍司令部から、一将校が来学、本学内の建物の一部を見て帰ったとのこと。なお、同将校は、文部省にも行ったらしく、本省の会計課からも、本学の庶務課に連絡があった。
 七月二日、学部長会議の席上、私が二十九日に文部次官と面談したときの内容、及びその後の経過を報告し、私の意見をも述べて懇談した。
 七月四日、東部軍管区旅団長某少将、少佐及び主計中尉各一名を帯同して来学、同少将は、先日来の本学建物の借受交渉につき、あいさつに見えた、とのことであったので、私は、随員の少佐及び中尉にも列席を求め、当方も石井庶務課長と同席で、対談することとした。
 少将は、戦局の推移が、ゆゆしいものであること、宮城及び帝都防衛の一部を担当することとなり、陣地構築につき、いろいろと、調査、熟慮した結果、自分の関係する範囲では、上野の森と本郷台とを結ぶ線を基礎とすることが、是非必要である、という結論に達したることを詳述、教育や研究に不便をかけることは、重々御迷惑とは思うが、時局にかんがみて、是非軍の要求を承諾ありたい、と要請された。これに対して、私は、本学としては、わが国最高の教育と研究という重大なる任務に、全責任を負うているので、その建物や土地を、全く違う目的のために使うということは、われわれの認め得べき範囲ではない、という前提で、なお、細目につき、

 一、学生を文科系と、理科系との二つに分けてみて、文科系の方は、相当減少しているが、理科系の方は、二年及び三年の残留者と、一年二た組ずつとで、平常よりは反って人数が多く、全体としては、学生数は、それほど減っているのではないこと。
 二、近年、時局の要求にもとずいて、理科系の著しい拡張が行われ、これ等は文科系の空室を使っていること。
 三、研究の内容が、今回の戦争に直結しているものが多いようで、一部疎開したものもあるが、設備の関係上、大部分は、この場所で研究をやっており、若し、その場所をあけることにすれば、これ等の重要な研究は、全く中絶するの外ないこと。
 四、病院は、戦争と直結している部分があり、ここを動くことはできず、従って、病院と不可欠の関係にある医学部は、この関係からだけでも、疎開することはできない。
 五、建物各室の構造が、研究本位に出来ているから、普通の事務室や居室に使うのは非常に不便であること。
 六、既に戦炎を蒙った面積が約六千坪、延焼防止のため、除却を要する建物が四千坪あり、病院の如きは、戦傷病者収容のため面積増加の切実なる要求があるにかかわらず、これをいれることができないでこまっていること。

 等等、大学側の事情を説いて、現在の状態では、遺憾ながら、軍の要求に応ずることはできないから、どこか他に適当な場所を物色せられたい、と述べたところ、同少将は、現在の戦局は頗る重大であって、陣地といっても、おそらくは、そこが、自分達の死所になるのではないかと思って、できるだけ、理想に近い所をと、さがし求めた結果なのであるから、是非、自分達の墳墓の地として、この場所を提供せられたい、とのことであった。これに対して私は、この場所こそ、われわれの死所と考えて、毎日の仕事をしているのであるから、どうも御要求に応ずることができないことを御了承願いたい、といって、はっきりと、ことわったのであった。同少将は、しばらく考えていたが、それでは誠に已むを得ない、今日はこのまま帰って充分考えてみるが、重ねて御無理を押してうかがうかもしれない、と述べて帰られた。
 翌五日には、各学部長に、昨日の顛末を告げ、午後には文部省に行って、少将来学の次第を報告すると共に、その交渉の内容について了承をもとめた。こういうふうに私は、東大を使用しようという軍の要求を拒絶したのだが、更に又、重ねての要求があるのではないかと、心配していたが、幸い格別のことはなく、不安のうちに、一日一日と過ぎていった。
 七月二十一日には、東部軍から、同軍の宣伝機関として、約百名を収容する場所を借り受けたい旨の申し入れがあったが、当方にはそういう場所がないことを説明して、これを拒絶することにした。
 八月一日には、陸軍では、東大の付属医院を、傷病者の治療に使いたいと考えているとの情報を得た。これは、陣地や兵舎に使おうというのとは、全く性質が違うことなので、できるだけ協力するのがよいと考えたので、もし、そういう事態の起った際の受け入れ体制について、病院長と協議した。
 八月八日には、東部軍管区から、学内一部の建物を、軍病院の分院として、使用したいとの申し出があったので、本学の建物を、軍の施設として使うのではなく、傷病者の治療を、本学の付属医院に委託されることにしたい旨の交渉をすることにした。(つづく)」

 

「昭和二十年八月六日には広島に、同九日には長崎に、原子爆弾の投下が行われ、この間ソビエトの参戦もあって、遂に、八月十五日の正午には、在校の職員学生一同大講堂に集合し、ラジオを通して終戦の詔勅を拝したのであった。
 八月二十日には、米軍側では東大の建物を使うようになるかもしれない、といううわさを聞いた。この夜南原法学部長が、前々日親任された前田新文部大臣に面会するとのことであったので、東大が接収せらるることのないように、尽力を頼んでもらうことを依頼し、なお、先頃東大が仙台に疎開するを可とせずや、という文部省側の意見もあったが、東大のような大施設は、なかなか移転することはできない事情を、新大臣に話して置いてほしいことを依頼した。
 八月二十一日、外務省側の情報として、米軍は、陸海空の三軍を以て堂々と東京に上陸してくるような様子もあり、大学なども一時は閉鎖の已むなきに至るやも知れず、ということが伝えられ、また、ある方向からは、この際東大としては、これに対応する処置を考えて置く方がよいのではないかなど、注意をしてくれる人々もあった。
 八月二十五日、文部省に前田新文部大臣を訪い、東大の現状を報告し、航空研究所の名称及び内容の変更、学部内一部講座の名称及び内容の変更、戦後の大学教育の内容方法等につき懇談し、特に学部、研究所等の一部の教室及び研究室の疎開については、従来の経過につき詳細な報告を為し、もはやこれ以上のことは不可能で、万一にも、東大の建物の接収等が行われれば、閉鎖の外ないことになる事情を説明した。
 九月五日午前十一時頃、米軍将校四名(内一名は少将、他の三名は大佐とのこと)大講堂玄関に来訪、直ちに二た組に分れ、一は銀杏道路の北側一帯を、他は同南側を視察、約一時間で帰ったが、あまりに速急のことで、関係部局へ連絡することができなかった、とのことであった。又昼頃には、文部省から来示があった米国陸軍将校に日本の陸軍将校がつき添って訪学、構内を見歩いて辞去したとのことであった。
 九月六日の新聞は、来る八日、米軍八千が東京に進駐すると伝え、又マッカーサー司令部から、九千病床を収容し得る病院、百万平方メートルの事務室、二百万平方メートルの倉庫、五千平方メートルの駐車場、二万立方メートルの冷蔵庫を要求したと報じたものもあった。出校してみると、昨夜、日本の陸軍の軍人数名が図書館に来り、内外を見て帰ったとの報告があり、又田宮医学部長からは、今朝、四人の米人、伝染病研究所に来訪して調査したが、更に本部構内の附属病院を見たいとのことで、連れて来て見せた。内三名は工学関係者で、工学部長に会いたいとのことなので、引き合せることにしてある、との報告があった。又本日午前に来たという一米軍少佐が、午後になって再び来学し、東大の建築について説明が聞きたいとのことであったので、営繕課長に案内を頼んだが、この少佐は自分の関係している総司令部を東大内に設けたい希望があるような口吻があったとのことであった。又この日の朝、東京逓信局の技術者数名が会計課に来訪、東大に米軍の進駐があるかもしれないから、電話増設の可能性について調査することを、同局工務課長から命ぜられたとのことで、中央電話交換室や引込ケーブルの状況などを見て帰ったとの報告を聞いた。
 この日午後五時、南原法学部長と共に前田文部大臣を訪問、かねて文部省から申し入れのあった陸海軍の学校の卒業生及び学生の取り扱いかたにつき、文部次官も同席して協議しつつあった際、関口専門学務局長が入室、大臣に向い、東大の接収に関する件についての中間報告なりとて、先程、米軍から、終戦連絡事務局を通じて、東大の接収についての交渉があったので、早速、同局大三部長に面会、東大の接収は極めて重大であること、若し何か代案をということならば、これは全く自分個人だけの考えだが、文部省を提供してもと述べて来た。かねてから教育機関の接収は、差し控えてもらうよう話してあることでもあり、その中でも最も重要な東大の接収は、是非取りやめてもらうように交渉してくれるよう話して来た、という意味のことを述べられた。
 そこで、私は、それはゆゆしい大事である。東大は、わが国教育文化の最高峯を占めて居るものであり、万一、これが接収されるようなことになれば、その全面的な疎開移転等は不可能なことであるから、わが国の教育文化が停止することにもなる。それだから、戦時中、わが軍でこれを使用したいということもしばしばあったのを、その都度おことわりして居り、軍部もまたこれを了承して、東大を使うことが全然なかったのは御承知の通りである。これ等の事情が充分先方に通ずるよう仲介説明の労をとられ、東大の接収が取り止めになるよう尽力を懇請した。同席の南原氏からも、東大の接収は、その影響するところ極めて大であり、米軍のためにはかっても、これはやめた方がよいと思われるので、こちらの点も附加説明されたいと述べた。大臣は、行政機関の接収も重大であるが、単なる事務室の接収よりは、東大の接収の方が、はるかに重大なことであるから、已むを得なければ、文部省の事務室を、代りの一部に提供しても、東大の接収はやめてもらうように交渉しようと云われ、列席の次官もまた、東大は何としても接収を免れるようにしなければならぬ、と述べられた。私は、大臣初め本省の最高幹部が一致しての理解ある御意見を伺い、もはや、何等申し述ぶべきことはない、ただ先方は、ずいぶん、テンポが早いように思われるので、手遅れにならないよう懇請して帰学し、学内の各方面と連絡し、出来るだけの手配をととのえた。
 九月七日、早朝から文部省とも連絡し、内閣方面にも、東大接収問題解消の交渉方を陳情する手順をもととのえた。昨日来学の米人三名、今朝もまた、佐野工学部長を訪問、同氏及び営繕課員の案内で、三方に分れて東大構内の各建物を調査した。又東京逓信局の工務課長が、数名の米人電気技術者と一緒に来学、東大の電話設備を視察の結果、大講堂の電話交換所を東京の一局とし、一千回線を増設することとし、直ちに着工、四日間で完了するのだ、いうような話しをして帰つたとのことであった。
 本日、学部長会議を開催、昨日来の東大接収に関する情報を交換して協議中、大村文部次官の来訪を受けたので、別室で面会したところ、昨夜来別段緊迫の度を加えたようなことはない、反って東大をマッカーサー司令部に云々のことは、取りやめになるらしいが、別に、八日から東京に進駐する機甲部隊は、多くの舗装面を要するので、東大より外にないとのうわさがあるとの話し、なお、陸海軍生徒転学の件につき協議あり、これに対しては、関係者があつまって、懇談会を催して協議することとした。
 この日午後、文部省から次のような情報があった。
 昨夜九時頃までは、東大をマッカーサー司令部に使いたいとのことであったが、その後研究の結果、これはやめになるらしい。
 第一騎兵師団の入京にともない、東大を使用したいとのうわさがある、然しこれは、正式に終戦連絡事務局に云って来たものではない。
 今朝終戦連絡事務局へはいった情報によれば、東京に進駐する八千名の大部分は兵営に入れるが、二千名だけは学校の校舎に入れたいとのこと。依て、それならば、比較的きれいな小学校を提供すればすむこと故、その方面に交渉をすすめつつある。
 この日午後五時のラジオで、東大がマッカーサー司令部の候補地となっている旨の放送があった。
 この日の夕刻、終戦連絡事務局事務官から、九十名程の米兵が、横浜を出発して東大に行くから、東大の室内プールのある場所の附近に泊れるようにしてほしい、との電話が、東大の事務局にかかったので、石井事務局長が電話に出たところ、一と晩だけでよいとのことであったが、それは文部省を経由してほしいとことわって置いたところ、夜に入ってから二事務官が来学、石井局長これに応対して、当方の事情を話したが、更に十時頃事務局より依頼の電話があり、既に横浜を出発しているとのことであったが、その後更に電話があって、これは、第一ホテルに案内したとのことで解決した。この件は、単に東大の室内プールを利用しようとしただけで、東大の接収とは何等関係のないことのようであったが、丁度接収の問題が高潮していた時機に、米国軍人が、東大にはいって、構内に泊るようなことのなかったのは、しあわせのことであった。
 九月八日、文部省から、東大の事務局に、終戦連絡事務局第一部長とマッカーサー参謀副長との会見の結果、東大には、原則としては、手をつけないことにきまった。ただし、これに代るべき施設を提供することが必要になっているので、ぐずぐずしていると、実力接収ということも考えられ、極めてデリケートの関係にあるので、本件に関する事項は細大となく本省に連絡すべき旨の電話があった。一方、終戦連絡事務局の事務官から、本日午後、マッカーサー司令部の主脳者数名が、東大使用の打合せをするため訪学するとの通知があった。
 午後、更に文部省から電話で、機械部隊進駐の件は、先方では、建物の面積よりは舗装の面積に重きを置いている関係で、東大への進駐は已むを得ないのではないか、との情報があり、なお、他から何等かの申し入れがあっても、返事は文部省からすることにして置かれたい、との通報があった。
 法学部の高木八尺教授は、本日も二回にわたって文部大臣に面談されたが、当方の意志は外務大臣から先方へ通じているとのことであった。なお、マッカーサー司令部から、使用打合せのため来学の件は、遂に実現しなかった。
 われわれは、文部大臣から直接マッカーサー司令部に交渉方を希望し、若しそれができない場合には、大学みずから、司令部に話しをしてみたいと考え、文部大臣もまたそうしたらという考えのように見受けられたが、先方との中間連絡が思うように進展せず、当方としては、出来るだけのことはしたのだが、何とも不安の時間を送っていた。この間、米人の本学訪問は頻繁で、建物等の調査を目的としての来学もあり、或は単に見物に来たような人々もあり、中には、マッカーサー司令部が既に東大にあると思って、その所在を聞きに来た、という滑稽もあった。
 九月十日朝、外務省側の情報として、東大は九分通りは大丈夫であろう、ということが伝えられた。然し夕刻になっても外務大臣は未決定だといって居られたとのことであった。また、この日午後になって大講堂の電話増設に来ていた逓信省の技師は、この工事は打ち切りになった、と語っていった、とのことであった。
 九月十一日朝、高柳賢三教授から、昨夜、東大は接収しないことにきまった様子で、その代りに数箇の大ビルを要求してきたという情報がある、との電話があったので、早速、文部省を初め関係の各方面にこれを通報した。一方農学部長からは、本日約十名の米軍将校が来訪、二た組に分れて、農学部の各建物を見て帰ったことが伝えられ、又農場長からは、数名の米軍将校が田無の農場に来り、同所にある寄宿舎を見て帰ったとの報告があった。
 同日午後四時五十分、文部省専門学務局から電話で、マッカーサー司令部では、東大の使用を断念したとの通報があったとのことなので、早速折り返して、当方の石井局長から文部省の専門学務局長に、これを確かめたところ、本日午後、外務大臣から文部大臣へ、マッカーサー司令部及び第一騎兵師団が、東大を使うことは、とりやめになった、という電話があり、又終戦連絡事務局第三部長から専門学務局長に、同様の通報があったとのことであったので、早速関係のある方面にこれを連絡した。翌十二日正午のラジオで、マッカーサー司令部は、事務所として第一相互及び明治生命を、兵舎としては未仕上げの大蔵省庁舎を使うこととなり、十五日からその使用を開始する、かねてうわさにのぼっていた東京帝大は、東大が日本文化の最高峯なることを尊重して使用しないことになった、という放送があった。
 われわれが、是非東大の接収を免れねばならないと主張する所以をまとめてみると、東大は、わが国学問の最高峯であって、多数大量の設備や図書を備えて居り、これなくしては、研究や授業を継続することができない。これ等の設備や図書は、大量多数であり、然も相互的の関係があるため、他に移転して現状通りに使用することはできない。これがため、本学の疎開は、早くから研究され、部分的には実施したものもあるが、効果があがらず、思うように疎開の目的が達せられていない。従って、東大を他の目的に使用することは、その間だけは、研究や授業を中止し、東大を閉鎖することになり、わが国文化の発達が停止することになる。だから、戦時中わが国軍部で、本学の土地建物の使用を要望したことが、一再に止まらなかったが、以上の趣旨を説いてこれを謝絶し、軍に於てもこれを了承して、一切本学の施設を使用しなかった。文化について関心の最も深い米軍に於ても東大の接収免除を了承されたい。
 というわけで、われわれは、手分けをして、各方面にこれ等の主張を説明し、これを了承してもらうことに努力した。その後、外務省側の情報として伝えられたところによると、本件に関し、終戦連絡中央事務局からマッカーサー元帥あてに出した手紙の中には、東大わが国最高の文化施設の一なること、東大にはロックフェラー氏寄附の図書館があること、又英国を始め諸外国から寄贈された多数の図書を蔵していること等の事実が、書かれてあったといわれ、又一昨日司令部からいって来た書類には、今回同司令部の使用する建物が列挙されて居り、その中には、東大ははいっていなかったというだけで、今回使用しないことは確かだが、将来のことはわからない、という話しもあった。
 これで、司令部としての接収問題は、一応かたずいたので、終戦にともない帰還する学生の収容、陸海軍学生の処置、講座の改廃、新らしい教育や研究の方針等、早急に処理しなければならない諸問題につき、学内や学外との協議に多忙を極めていた際、わずか一週間余の後、再び晴天のへきれきのような問題が突発した。
 九月二十一日の午前九時半頃、某教授から電話で、昨夕、横浜に進駐している第八軍から、東大を全面的に使用したいとの申入れが、終戦連絡中央事務局にあったようだ。第八軍というのは、純粋の軍人部隊で、マッカーサー司令部とは命令系統を異にして居るところもあり、その要求書には、よく調べたものと見えて、地図までもついて居り、殆ど確定的のようにも見えるので、今度は、交渉も相当に困難なのではないかと思われる、との話しなので、先日の例もあるので、接収にならないよう、外務省及び連絡事務局側からも充分の交渉をしてもらいたいことを、頼んでほしい旨を依頼した一方、ともかくも、文部大臣に話しをして頼む必要があると思って、南原法学部長、石井事務局長と三人で、総理大臣官邸に、閣議中の文部大臣を訪うた。用件をメモに書いて秘書官に渡し、大臣に通じてもらったところ、前田文部大臣は、すぐに応接室に見え、多少意外の面地で、昨夜マッカーサー元帥の幕僚長フェラース准将に会い、先頃の東大接収解消のことについて、礼を述べたのだが、先方からは、再び接収の問題があるような話しは何もなかった。幕僚長はこのことを知らないのかもしれない。自分も早速外務大臣に頼むが、大学側でも最善の努力をする方がよいであろう。昨夜幕僚長は、自分も訪問するが、そちらからも度々来るようにと云っていた。前田から聞いて来たといって、フェラース氏を訪問されてもよい、ということであった。そこで私は、こう事情が切迫していては、ふだんの通りの正規の手続きを取っていたのでは間に合わず時機を失するおそれがあると思われるので、直接マッカーサー司令部を訪問しようと決心した。ただそれには、今回の事情によく通じて居り、英語の対話が達者で、然も私の意志を充分先方に伝えてくれる人と一緒に行く必要があるので、帰学の途中車内で、南原法学部長と相談して、高木八尺教授をわずらわすこととし、早速学部長から連絡してもらった。
 高木教授は、同行を快諾され、なお、同教授は、念のため電話で連絡事務局に連絡して、第八軍の東大接収問題が事実であることを確め、これに対する事務局部長の意見としては、東大は司令部に使用することが取り止めになったのだから、今度も取り止めらるべきだという意味で、先方に交渉せんと考えているようだということを伝えられた。高木教授から司令部に話してもらう大学側の意見の内容は、同教授が既に先日の接収問題についても、初めから尽力せられ、充分承知して居られるので、別段特別の打合せをする必要はなく、早速二人で行くことにした。初めての面会でもあるので、予め時間の打ち合せをすべきだとも考えたが、それでは反って時機を失するおそれもあるので、多少礼を失するとしても、いきなり訪問することとして、十二時三十分東大本部を出発、日比谷第一相互館のマッカーサー司令部に、幕僚長 Brigadier General B.F.Fellers氏を訪問した。受付で刺を通じて面会を申込んだところ、突然の訪問であったにもかかわらず、直ちに面会するとのことで、じきに同准将の事務室に通された。准将は気持よく立ち出でて握手をし、みずからわれわれ両人に椅子をすすめられた。そこで高木教授から、先般の司令部用としての接収問題の解消について謝礼を述べ、司令部の了解ある寛大なる処置につき感謝していたところ、昨夕貴方第八軍から終戦連絡中央事務局に対して、東大を全面的に使用方の申し入れがあったとの情報を、今朝接手したので、早速文部大臣に協議したところ、前田文部大臣は、昨夜貴下に面会された趣で、貴下は前の接収問題については充分承知して居られるのだから、貴下に御目にかかって御たずねするも差支えないであろう、との指示に基いて参上致しました。東大については、充分御研究の上、使用されないと決定せられたことを承知して居たのですが、こんどのことは、どういうことなのでしょうか。という意味のことを述べられた。これに対してフェラース氏は、しばらく考えて居られたが、やがて、それは多分、先頃の東大を使用しないことになった歴史を、第八軍では知らないのであろう、きいてみてあげましょう、といって卓上電話を何れかへかけられた。じきに電話がかかってきたが、その話しの様子を聞いていると、どうも先方は第八軍司令官のアイケルバーガー中将であるように思われた。相当長い間電話で話し合った後、フェラース氏は、第八軍では、先頃東大が、総司令部として問題となり、それがマッカーサー元帥の考えで取り止めになったことを承知して居なかったので、も一度協議した上で返事するとのことであるから、夕刻までにはわかるであろう、それまではこの件は秘密にして置こうとのことであったので、厚く厚意を謝したところ、まだお礼は早い、先方も充分に考えるであろうが、どうなるかわかりません、という返事を聞いた。この会談で高木教授から、陳情の理由及び戦時中日本軍が全然東大にはいらなかったことなどを強調し、なお、高木教授担当のヘボン講座のことなども話し、先方からも、小泉八雲氏の遺族のことなどについても話しが出た。
 かくして同室を辞去したのは、二時少し前であったから、約一時間の対談であったわけである。廊下に出てエレベーターに乗ろうとしたら、マッカーサー元帥がフェラース准将と副官らしい人をつれて、エレベーターの処に来たので、われわれは、横によけたところ、元帥も一緒に乗ってよいというので、われわれも同乗して玄関に降りた。考えてみると、フェラース氏と対談中、二度程、副官らしい人が戸を開けて、室内の様子を見に来たのであったが、それは、食事の時刻であったのだと気がついた。こちらは一生懸命で、勝手な時刻に、勝手に押しかけて、食事の時間まで大分に遅らせたのは、気の毒なことをしたと思った。
 私が、第八軍は東大の接収を撤回した、ということを聞いたのは、午後六時半で、同七時半には高木教授からの名刺を受け取った。その名刺には、

 只今電話アリ当方要求を承知シウイズドローシタ旨の確答ヲ得申候
 四時半

と書いてあった。翌日同教授から聞いたところによると、同教授は、昨日午後三時半頃、再びフェラース氏を訪い、しばらく待っていたが、四時少し過ぎに面会することができ、フェラース氏は、只今第八軍は東大の使用を撤回したとの電話を得た、とのことであったから、デフィニットと考えてよいか、と念を押したところ、司令官の言だから間違いないとの返事なので、それならそのことを総長に報告し、文部省にも云ってよいかと、再度念を押したが、よろしい、ということであったから、あの名刺を使いに持たせてよこしたのだということであった。
 以上は、終戦直後に、東大が接収されるのを免れた経過を記したものであるが、これに関する私の二、三の感想をつけ加えて置きたいと思う。先ず、東大が接収されないですんだ第一の原因は、何といっても、東大の社会的地位であり、先輩諸賢が築き上げられた伝統である。あの当時、あれだけの力を持っていた日本陸軍が、再三の要求をことわられて、終に東大の使用を断念せざるを得なかったことは、東大というものに、それだけの力があったからであって、このことが、米軍に対しても、われわれが、強く接収の撤回を要求することができた観念の基礎をなすものであるし、又米軍が東大側の主張を尊重してくれたのも、全く、東大の世界的の地位が然らしめたものであって、真にありがたいことだと思う。次には、本件に関し、東大の教職員初め総ての関係者が、全く一体となって、各方面の了解を得ることに努めたことである。接収問題が起った当初、前田文部大臣を初め、当時の次官、局長等が、たとえ、文部省の事務室を代りに出しても、東大は接収されないようにしたい、というような絶大な厚意を以て交渉に当ってくれたこと、又内部にあっては、南原法学部長、高木教授等を初め諸職員一同が、寝食を忘れて尽力されたこと、殊に最後の場合に、高木教授が、私と同道してマッカーサー司令部を訪問し、フェラース幕僚長に対してわれわれが云わんとすることを、情理を尽して説明してくれたことは、大いなる功績であったことを忘れることはできない。第三には、本件に対する米国側の態度である。第八軍による接収が問題になった際、何等の予告のない突然の訪問であったのに、非常に多忙であると思われる幕僚長が、気持ちよく直ちに面会して、こちら側の話しを充分に聞いてくれ、然も准将自身がみずから相手方の将軍に電話をかけ、われわれの面前で、疑問を質し、且つ当方の意志を伝えてくれ、先方でも、既に進駐の準備をととのえつつあったであろうと思われるのに、理由があると認めれば、直ちにその計画を中止撤回してくれたという風に、万事が敏活に、合理的に少しのわだかまりもなく取りはこんでくれたことは、余程の厚意がなければできないことで、誠に感謝に堪えないところであった。
 昭和二十年九月二十一日、この日は、私の総長在職中で最もいそがしい日の一であった。私が問題を承知したのが、午前九時半頃で、問題の解決を知ったのが、午後六時半、その間丁度九時間、われわれもずいぶん敏活にやったつもりだが、関係の各方面でも実に迅速によくやってくれた。これだけの広い範囲に関係をもった大きな問題が、僅かに九時間で解決したということは、珍しいことではなかろうかと思う。
 九時間、それは誠に短かい時間であるけれども、私にとっては、実に長い、長い一日であった。(終) (昭和三〇、八、九)」