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BEGINNING PR戦後広報事始め
- VOL.1
- 北野 邦彦さん
ここでは元電通広報室長で元帝京大学教授の北野邦彦さんが
戦後の広報をテーマとしたコラムを連載します。
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今でこそ、「広報」や「PR」といった単語を使用することに、われわれはまったく違和感をもたないが、実は、これらの単語がわれわれの身近に登場したのは、つい半世紀ほど前、まさにマッカーサー時代の真っただ中、それほど遠い昔の話ではない。
マッカーサーに占領されるまでは、「民は寄らしむべし、知らしむべからず」の一文が、官と民の意識の根底にあった、わが国において、国民の意見を広く聞き(広聴)、施策内容を広く知らせ理解してもらい(広報)、民主主義の原則に立ち、相手との関係を良好に保つための努力を行うこと(PR)は、為政者や多くの国民にとって、まったく新しい概念や単語との出会いであった。
広聴、広報、PRといった概念が、為政者側からも、国民の側からも理解できない敗戦直後の日本において、民主主義をいかに速やかに定着させることができるかに関して大きな危機感を抱いたGHQは、民主化を推進するための基底部分としての広聴、広報、PRの導入に、思い切った力を投入する。
GHQは、まずその手始めに、1947年12月に「PRO設置のサゼッション」を、全国の都道府県に通達する。各都道府県はPRO(パブリック・リレーションズ・オフィス)を設置して、広聴、広報活動を活発に行ってはいかん、という内容の、「サゼッション(示唆)」であった。GHQは日本に対して直接統治を行う立場にはなく、命令を出すのは飽くまで為政者である日本政府であって、民主的なGHQは「サゼッション(示唆)」するだけだというのがGHQの言い分である。しかしながらサゼッションを受けた地方自治体にしてみれば、まさにそれをGHQからの絶対的命令と受け取り、大慌てで全国の都道府県にくまなくPROを設置する。
しかし、各都道府県の関係者にとっては、「広聴」も「広報」も「PR」も、どれもまったく初めて聞く単語ばかりで、いざ実施となると、どのようにしたらよいのか勝手がわからず、途方に暮れたというのが実情であった。各都道府県を指導する立場の政府関係者にとっても事情はまったく同様であった。
そこでGHQは、政府関係者を主な対象とした「広報講習会」を行うこととする。主催はGHQ民間情報教育局(CIE)。実施場所は内幸町の放送会館(日本放送協会)ビルであった。戦火を免れたこのビルはGHQに接収され、民間情報教育局と民間検閲支隊(CCD)、占領軍のラジオ放送局AFRS(コールサインWVTR)が占拠していた。
「広報講習会」運営の中心人物は、CIE情報部長ドン・ブラウンであった。ピッツバーグ大学を卒業したブラウンは、戦前来日し、『ジャパン・アドバタイザー』記者となるが、日米関係の悪化に伴い帰国し、UP通信記者となり、その後、戦時情報局(OWI)に転じ、日本兵や日本国民に対するビラ、「伝単」の制作に従事し、戦後再来日を果たす。当時数少ない広報・PRの専門家であった。
講習会は、1949年7月12日から10月4日の間、13回にわたり放送会館で開催された。対象者は各省庁の次官、広報担当官、日本銀行、関東配電、自由人権協会などからの120名、電通をはじめ広告会社などからの20名、計140名にもなる大掛かりな講習会であった。
第1回講習会が実施された翌日の1949年7月13日の朝日新聞は、「弘報技術講習会」が開催され、CIE情報部長ドン・ブラウンが「政府広報部存在の意義」を講じたとして、その要約を掲載している。また、第3回では、CIE世論社会調査課のハーバード・パッシンが「大衆理解」のタイトルで、広聴としての世論調査の重要性を講じているが、彼はその後、コロンビア大学教授となり、日米の懸け橋役として活躍した。
この講習会の内容は、2年後の1951年、電通から『広報の原理と実際』のタイトルで発行され、戦後いち早く発行された広報テキストとして、長らく広報関係者のバイブルとされた。ではなぜ、GHQの講習会講義録が電通から出版されたのであろうか。実は電通は戦後の一時期、社を挙げてわが国産業界へのPRの導入と普及に、文字通り全力で取り組み、GHQもその成果を認めたからである。当時、電通常務であった吉田秀雄は、敗戦の翌年の1946年2月、早くも広告産業を発展させるための基本方針を策定・発表する。その中心の柱となったのが、民間ラジオ放送局の設立とPRの導入・普及であった。
翌1947年に社長となった吉田秀雄は、PRの導入と普及のため、外国部長の田中寛次郎に渉外部長兼務を命じ、アメリカの最新経営理論であるパブリック・リレーションズの研究と実践に従事させる。田中は電通が通信社と広告会社を兼営していた昭和初期に、電通に通信部の記者として入社し、その後同盟通信に移り、情報局が設置されると情報官となり、戦後再び吉田の要請で電通に再入社した人物である。吉田は彼の情報収集分析能力と英語力とに大きな期待をかけ、再入社させたのである。
当時は「渉外」が今日の「広報」を意味していた。電通の渉外部長として、田中はGHQに出入りする。電通には、社長の上田碩三をはじめ、公職追放令該当者やその懼れのある社員が何人もいた。電通自体も戦時中、軍に協力的な書籍を出版していたことを理由に、GHQから活動制限会社に指定され、出版部門の大幅縮小を余儀なくされる。銀座地区で焼け残った数少ないビルである電通銀座ビルも接収の対象候補に挙げられ、何とかして接収対象から外されるよう、田中は懸命に対GHQ渉外活動に励んだ。とにかくGHQの意向を忖度し、GHQに対しての策を練り上げることが、電通渉外部長の果たすべき極めて重要な役割であった。
英語の得意な田中はGHQに足しげく出入りするうちに、民生局次長のケーディス大佐と知り合いになり、アメリカで出版されたばかりのPR研究書『Blueprint For Public Relations』を彼から借り受けて翻訳作業に没頭する。その後もアメリカから取り寄せたPR書を片端から読破し、PR理論をくみ取って咀嚼し、実践に移す。田中のPRへの真摯な取り組みも反映されて、電通銀座ビルは接収対象から外される。しかし田中は当時の難病であった肺結核にかかり、志半ばにして48歳の若さで逝去する。誰からも「寛ちゃん」と呼ばれて好かれた人柄と明晰な頭脳、英語力に勝れた田中があと何年か元気でいれば、PRの世界ももっと変わっていたのではないかと、今更ながら悔やまれる。
本稿では「広報」と「弘報」、2つの単語が使われているが、最後にこの2つの単語について述べておこう。
「広報」は、戦後、政府関係者によってつくられた造語であるとする説がある。1947年、GHQが各都道府県に対し、PR活動推進のための専門部署としてPROを設置するよう「サゼッション(示唆)」したことは、前に述べた。ところがそれを受けた政府や地方自治体関係者は、PRをどう日本語に訳すかに腐心し、主に満州国で使用されていた「弘報」を訳語に充てようとした。しかし、「弘」が1946年11月の内閣告示による当用漢字、1850字に含まれていないため、止むを得ず「広報」を造語として新たに誕生させたという説である。
しかし、単語としての「広報」は、わが国初の日本語日刊新聞である『横浜毎日新聞』の1872年5月9日付け紙面に初出されており、戦後、政府や自治体関係者が創り出した造語であるという説は誤りである。もっとも『横浜毎日新聞』で使用された「広報」は今日の「広告」と同義語として扱われたものであった。
「広報」は、戦後の官僚による造語ではなかったものの、多くの官庁が「弘報」の代わりに「広報」を頻繁に使用した結果、「弘」が常用漢字に含まれることになった後でも、「弘報」よりも「広報」が使用される頻度が圧倒的に大きくなった。「日本広報学会」や、政府主導の「日本広報協会」をはじめ、今日では「弘報」はほとんど姿を消し、「広報」を使用することが一般的になっている。
「弘報」は、満州国で広まった単語が、わが国に移入されたとする説がある。確かに1932年の満州国建国当時、宣伝機関として「国務院資政局弘報処」が設置され、1937年には、満州帝国皇帝直轄の「国務院総務庁弘報処」に改組されるなど、満州国が国を挙げて弘報活動を活発に展開したという事実がある。世界の主要国から国として認められず、つねに国の存立が脅かされた満州国にとって、弘報活動は何にも代えがたい高度な重要性を帯びた国策活動であった。
1923年には、南満州鉄道(満鉄)に「弘報係」が誕生しているが、これは退役陸軍中将で満鉄の顧問であった高柳保太郎の提案によるものである。高柳は1918年のシベリア出兵に際し、日本陸軍浦塩派遣軍参謀長として、派遣軍に「弘報班」を設置し、情報収集・宣撫活動を行わせている。「弘報」は、高柳の造語であるとする説がある。確かに高柳は「弘報」の重要性を誰よりも認識していたことに疑いないが、「弘報」ははたして高柳の造語であったのであろうか。
1886年、わが国の広告業の嚆矢ともいうべき「弘報堂」が東京に誕生した。1882年に『時事新報』を創刊した福沢諭吉は、早くから新聞広告の重要性を唱え、『時事新報』社員の江藤直純が広告業を旗揚げするや、福沢諭吉自ら、「弘報堂」と命名したと伝えられている。電通や博報堂に先駆けて誕生した「弘報堂」は、明治大正期の有力広告業として当時至って著名であり、高柳にとっても既知の単語であった可能性は大きい。
満鉄弘報課長から満州日報理事長を経て、戦後電通に入社し役員を務めた松本豊三によれば、高柳は松本の「弘報とは何か」との問いに対し、「弘報とは広告ひろめ屋のことじゃよ」と答えたという(『宣撫月報』1938年10月号 満州国弘報処発行)。高柳の頭の中に「弘報堂」の社名がインプットされており、それを高柳が満州の地で借用したとみるのが順当で、「弘報」は高柳の造語であるとする説には強い疑念が湧くと言えよう。
電通 吉田秀雄社長
ケーディス大佐
「寛ちゃん」と呼ばれて好かれた人柄と明晰な頭脳、
英語力に勝れた田中寛次郎
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プロフィール:北野 邦彦(きたの くにひこ)
略歴:1937年東京生まれ。
早稲田大学商学部卒。
電通広報室長を経て、帝京大学文学部社会学科教授、
現在PRコンサルタント。