フォトストーリー 写真に隠された真実 STORY.3 米兵向け第一号慰安施設、大森海岸の「小町園」跡地 その1 | GHQ.club

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PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.3
米兵向け第一号慰安施設、
大森海岸の「小町園」跡地
その1

戦前の落付いた、奥ゆかしい場所から戦後一変した大森海岸「小町園」。
ここでは、「小町園」跡地の写真と当時の証言を通して、
米兵向け第一号慰安施設が出来るまでの背景を、占領期の一断面として紹介していきます。

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 前回の平和島の平和観音から、国道「第一京浜」に戻り、ちょっと北上、ちょっと東京の銀座や日本橋の方向へ向かうと、その国道沿いの京急線「大森海岸駅」を左手に見ながら、一,二分で、かつて米兵向け慰安施設の第一号になった「小町園」の跡地がある。
 筆者は、「平和島」の「平和観音」に手を合わせた日とは別に、改めて「大森海岸駅」まで電車で向かった。「小町園」の跡地がどうなっているか、大森海岸駅近くの風景がどう変わっているかを見たかったからだ。
 しかし、昔をしのぶ「よすが」など、いっさい残っていない。「小町園」があったところは、今の「大森海岸ハウス」あたりだというが、ここらへんはマンションが並んでおり、それらの前の第一京浜にはひっきりなしに車が走っている。「大森海岸ハウス」前の国道沿いに立つ道標には、「日本橋まで12キロ」と表示されている。
 ここをさらに北上すれば、すぐに「しながわ水族館」の入り口に着く。子供連れの家族で賑わうなか、入っていくと、広大な公園になっている。そこを国道に並行して、「大森海岸ハウス」の裏手を通り、南方向に戻れば、防風林にぶつかり、その木々の間から、「ボート平和島」のボートレース場が覗いている。従って、「小町園」の海側は埋め立てされ、「しながわ水族館」となり、さらに東側には高速道路が走り、それを挟んで、「大井競馬場」が広がっていて、まったく当時を想像させない景観を呈しているのである。

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 さて、ここでは、「小町園」についての証言が「りべらる」(昭和21年1月刊)に掲載され、それが安田武・福島鑄郎編『証言昭和二十年八月十五日――敗戦下の日本人』(新人物往来社)に収録されているので、引用しよう。
特殊慰安婦R・A・A 糸井しげ子

 大森海岸の小町園といえば、いまの中年の御紳士方で、ずいぶんなつかしがる方がいらっしゃるのではないでしょうか。
 戦前は、今のように、温泉マークが、都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合に立ちいたりますと、京浜国道を一はしり、大森の砂風呂へ行こうなんて、みなさん、よく大森海岸までいらっしゃいました。
 小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きな料亭でございました。そういう戦前の、落付いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描きだしたあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。
 現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することをだれも信じて頂けないのではないかと、おそれるのですが、でも、小町園の柱の一つ一つ、壁の一面一面には、日本の娘の、貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついている筈なのです。
 忘れもしません。終戦の年の、昭和二十年八月二十二日でした。
 御主人が、銀座の方へおでかけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、
『ここが、R・A・Aの、第一施設になるらしい』
 という噂が伝わってきました。
 女中部屋は、それをきいて、ハチの巣をつついたようなさわぎになりました。
 私には、そのR・A・Aというのが分りません。きいてみると、特殊施設協会とかいって、政府と、ケイサツと、それから、私たち業者などが一緒になって、つくっているお役所で、お金は、政府が、(一億円も)だしているということでした。
 でも私たちがおどろいたのは、まだ見たこともないアメリカ兵が、ここへ入ってくるということでした。そのR・A・Aというのは、進駐軍をむかえて、サービスする施設だということですから!
『それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所じゃないか』
 と、みんな、びっくりしました。その頃はまだ、パンパンという言葉もなく、アメリカ兵は、『鬼畜米英』などと新聞に書かれ、私達も素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を喰うなどと思っていたのですから、皆の不安も無理ありませんでした。(しかし、あとの騒ぎを、今ふり返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ喰べなかったけれど、それと同じことをした、と思わずにはいられません。)
 R・A・Aの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうですが、さすがに三越側で承知しないので、大森海岸の料亭ということになり、悟空林や楽々(すでにお送りしてある地図を見てください)が、挺進隊の寮として荒らされているところから、うちにきまった、という話でした。
 その話が、つたわった翌日には、何と大工さんが五十人もやってきて、昼も夜もぶっつづけで、こわれた所や、いたんだ個所を直しはじめました。
 さァ、大変です。いよいよ、アメさんがくるのが本当だと分ると、女中のなかにはひま(傍点)をもらって、やめて行くひともあるし、毒薬を懐(ふところ)にして、いざとなったら、これを呑んで死んでやると息まくものもいます。
 私も家さえあれば、逃げて行きたいところですが、家は焼けて住む所さえありません。それで、ええ、ままよ、と悪く度胆をすえてしまった訳ですが、その当時は、女中も、あとからきた慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がなくというひとが多かったのです。
 御主人は、私達二十人ほどの女中を集めて、この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として、奉仕することとなった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように、訓示をなさいましたが、私達は、パンティを二枚はくやら、男もののズボンを履くやら、大騒ぎでした。
 いよいよ、明日の二十八日、厚木へ進駐軍の第一陣がのり込むという、その前日になって、お店の前に、二台のトラックがとまり、そこから、若い女のひとばかり三十人ばかりが、おりて、なかへ、ぞろぞろ入ってきました。
 リーダァみたいな男のひとが、R・A・Aの腕章をしているので、その女のひとたちが、進駐軍の人身御供(ひとみごくう)になる女だ、とすぐ分り、私たちは、集まって、いたましそうに、その人達を見やりました。
 モンペをはいているひともいますし、防空服みたいなものをつけているひともいます。ほとんど、だれもお化粧をしていないので、色っぽさなど、感じられませんが、しかし、何といっても、若い年頃のひと達ばかりですから、一種の甘い匂いのようなものが、ただよっていました。
 このひとたちは、みんな素人のひとでした。(後に応援にきたひとは玄人のひともいましたが、はじめ小町園へきたひとは、みんな素人の娘さんでした。)
 銀座の八丁目の角のところに、新日本の建設に挺身する女事務員募集の大看板を出して集めたひと達ですから、進駐軍のサービスをするという事は分っていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかったひと達もいて、なかには、そのときまで、一人も男のひとの肌には触れなかった生娘も何人かまじっていました。
 前に、ちゃんとした官庁につとめていたタイピスト、軍人のお嬢さん、まだ復員してこない軍人の奥さん、家をやかれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件にとびついてきた人達でした。――その三十人のひとたちは、勿論、ちゃんと着物をあたえられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。しかし、おお! その上に、何をもらわなくちゃならなかったか、そのひと達は、翌日から知ったわけでした」
つづく

(文責:編集部MAO)