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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第8回
「湯川秀樹」

 多くの日本人が敗戦で打ちひしがれながら、復興に立ち上がっていた1949年に、日本人で初めてノーベル賞物理学賞を湯川秀樹が受賞したニュースは、大いに国民を激励、喜ばせるものとなった。その湯川秀樹の略歴をまず紹介しよう。

 

1907年
地質学者の小川琢治と小雪の三男として東京市麻布区に生まれる。

1919年
京都の京極尋常小学校卒業。そして、23年には、京都府立京都第一中学校卒業、26年に、第三高等学校卒業、29年に、京都帝国大学理学部物理学科卒業。その後、玉城嘉十郎研究室の副手となる。

1932年
湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子になり、小川姓から湯川姓へ。京都帝国大学講師に。翌33年に、大阪帝国大学講師を兼ねる。

1934年
中間子理論構想を発表。翌年に「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子の存在を予言する。

1936年
大阪帝国大学理学部助教授。38年に同大学で理学博士。39年には、京都帝国大学教授。42年には、東京帝国大学理学部教授。43年には、最年少で文化勲章を受賞する。

敗戦後の1948年
プリンストン高等研究所客員教授。翌49年7月、コロンビア大学客員教授に就任する。

1949年10月
ノーベル物理学賞受賞。

1950年
コロンビア大学教授。

1953年
京都大学基礎物理学研究所初代所長。国際理論物理学会・東京&京都議長。

1955年
日本ユネスコ国内委員会委員。社団法人日本物理学会会長。

1956年
原子力委員会委員。翌57年3月には、同委員を辞任。

1970年
京都大学退官、京都大学名誉教授。

1981年
京都市左京区の自宅で死去。74歳没。

 

 その彼がつけていた日記の、敗戦前後の45年の内容を、京都大学が2017年12月21日に公表している。そのニュースを2017年12月21日「毎日新聞」(デジタル)では、以下のように報じている。

<湯川秀樹日記>反戦・平和の原点 国の行く末、感情抑え
 日本人初のノーベル賞を受賞し、敗戦にうちひしがれた国民を勇気付けた物理学者の湯川秀樹(1907〜81年)。京都大が21日公表した終戦前後の日記は、淡々とした筆致の中に、戦後に平和運動へ情熱を傾けていった湯川の原点が垣間見える。
 湯川の日記は、日ごとに濃淡がある。米軍の手に落ちた硫黄島、沖縄については戦況を詳しく記録。1945年7月5日は各地の空襲被害状況、同28日には降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記した。新聞などをつぶさに写したとみられる。ただ、そこには直接的な感想などは書かれていない。
 原爆研究「F研究」についても会合の参加者などを記述するだけ。広島原爆の投下翌日の8月7日に「原子爆弾」について新聞記者から解説を求められた記述があるが、同時に「風邪気で頭痛がする」など体調不良を記す。一方、玉音放送があった8月15日は「朝散髪し身じまいする」「大東亜戦争は遂に終結」とあり、湯川の心中もうかがえる。
 敗戦により湯川を取り巻く状況が一変した様子もうかがえる。湯川は9月以降、原爆研究の実態を把握する目的とみられる米軍将校の訪問を受けた。連合国軍総司令部(GHQ)は原爆開発に転用されるとして京都帝大などの実験機器「サイクロトロン」(円形加速器)を破壊したが、12月にその記述が見える。
 著書によると、湯川は敗戦後の数カ月「沈思と反省の日々」を送った。そして「週刊朝日」45年11月号に科学と人間性に関する文章を寄稿し、後の反戦や平和への考えの原点を示した。その後、米軍の水爆実験で船員が被ばくした54年の第五福竜丸事件を機に平和運動に尽力。科学の平和利用を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者となり、核廃絶を求める科学者でつくる「パグウォッシュ会議」にも参加した。
 生前の湯川と親交があり、日記の分析にも携わった慶応大の小沼通二(みちじ)名誉教授(86)=素粒子論=は「日記に加え、著作や講演録から浮かぶのは敗戦を経た湯川が『国がやることに誤りはない』という考えを捨てたことだ。日本を代表する科学者が残した『歴史的文化財』として見てほしい」と話した。【平川哲也、野口由紀】

 ◇戦争への忌避感を反映
 作家の保阪正康さん(78) 本物の知識人が自分の意にそぐわない時代に生きたとき、どんな自己表現をするのか。湯川秀樹の日記には、知性の戦いが見て取れる。感情を押し殺した表現の背景に何があったのか読み解くことで、この日記は昭和史を解き明かす最上級の史料となるだろう。
 私的感情を挟まない表現は、言論統制された戦時下の背景がうかがえる。一方、1945年6月1日付をはじめとする空襲の概況や7月28日付のポツダム宣言は新聞記事であろう、詳細を筆写した。そこには写した記事への賛同や驚き、戦争への忌避感が反映されている。
 広島原爆の投下直後も当てはまる。軍は新型爆弾と発表したが、8月7日付は「原子爆弾」とあり、この日を含め3日間は体調不良をつづった。原子物理学者として投下されたのが原爆と知りながら「人類の悲劇」とは書かず、体調不良で脅威をにじませた。ここに湯川の自己表現が見える。これらをどう読み解くかで、知識人が戦争をどう受けとめたのか知る史料となるはずだ。【聞き手・平川哲也】

 また、朝日新聞では、次のように報じている。
<湯川秀樹博士の日記、京大が公表 「F研究」の記述も>

波多野陽 2017年12月21日16時02分



「原子爆弾に関し荒勝教授より広島実地見聞報告」との記述がある8月13日、「正午より聖上陛下の御放送あり(中略)大東亜戦争は遂に終結」などと記された8月15日の日記=京都大基礎物理学研究所提供

 日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹博士(1907~81)がつけていた日記のうち、太平洋戦争終戦前後の45年の内容を、京都大が21日、公表した。原爆研究に関わったことを示す記述があるほか、戦後、戦争反対や核廃絶を訴えるまでの軌跡がうかがえ、貴重な資料だと専門家は指摘する。

湯川博士、生涯黙した極秘の原爆研究 にじむ反核の原点
 公表された日記には教授だった京都帝国大での講義や会議の記録、空襲被害の報道の抜き書きもある。8月15日は「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」と記している。
 湯川博士は「F研究」と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わったことが知られている。日記にも「F研究相談」「F研究 打合せ会」といった記述が45年2~7月に計4回登場。本人の記述はこれを裏付けている。また、米軍が投下した原爆については「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」(8月7日)などと記している。
 終戦後、「反省と沈思の日々」として沈黙を貫き、その後、核兵器廃絶や平和を訴えていく。日記にはその間に哲学者や文学者らと会っていたことなどが記されている。
 解読に取り組んだ小沼通二(みちじ)・慶応大名誉教授は記者会見で「終戦直前、直後でさえ一貫して物理に取り組んでいた姿や、戦後、湯川博士が沈黙の期間に何をして誰に会ったのかが読み取れる。日本の価値観がひっくり返った時代の、日本を代表する科学者の日記の内容は貴重だ」と話した。
 湯川博士の日記(研究室日記、研究室日誌など)は34~49年と54年の存在が確認され、湯川博士が初代所長を務めた京大基礎物理学研究所に遺族が寄贈。読みづらいことや専門的な内容を含むため、過去に内容が公表されたのは、ノーベル賞(49年)の受賞理由となった中間子論の研究がつづられた34年の分など一部にとどまる。45年の日記(解読文)は同研究所のウェブサイトで公表されている。(波多野陽)

 映像で湯川秀樹機を知るには、企画:湯川・朝永生誕百年記念展実行委員会、提供:研究資源アーカイブ映像ステーションの、「湯川秀樹――その人――」が最適だろう。次の動画を一人でも多く見てもらいたい。

 もう一つ、英語版だが、「ものがたり湯川秀樹」(1954年)を紹介しよう。