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横浜第2合同庁舎の外観

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.46
「横浜第2合同庁舎、昔は横浜生糸検査所」

 日本郵船歴史博物館を海岸通に出て、右(海岸通四丁目の信号)へ向かえば、万国橋通りにぶつかり、南の方へちょっと進めば、中区北仲通の横浜第二合同庁舎の前である。ここは、かつて横浜の貿易の枢要であった生糸の繁栄を支、「キーケン」という愛称で市民に愛された「横浜生糸検査所」であった。今では建築の意匠を低層部に使用(復元)し、高層部は近代的なビルを増築している。
 占領期には、1945年9月1日に接収されて、シルクハウス・ビレット(宿舎)、営繕部、診療所として使用され、47年1月31日から48年12月2日に解除されている。なお、北仲通にあった帝国蚕糸は兵舎として、海員組合はCIE(民間情報教育局)として、江商ビルは民間人事局として使われている。ほかにも、大同生命他はサマル・アパート(婦人宿舎)として、同和火災は横浜CID(犯罪捜査部)本部として使われている。


  • 横浜第2合同庁舎の銘板

  • 横浜第2合同庁舎の外観

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 ここで「横浜生糸検査所六十年史」を見てみよう。その中の「第十四章 戦災と復旧」の「第一節 占領下庁舎の接収とその解除」にこうある。
「九月二日東京東湾内米艦ミズリー号上において降伏文書の調印を了り、わが日本はマッカーサー元帥を総司令長官とする進駐軍占領下に置かるることとなつた。これにより先政府は、八月十七日神奈川県庁内に終戦連絡事務所を設け諸般の準備に着手した。八月二十一日マニラにおける降伏条項の指示に基き横浜市内に進駐軍の宿舎を提供することとなり、応急策として非罹災建物を物色し、真先に生糸検査所庁舎を充当することに決り同二十三日、急速明渡し方の交渉を受けその期間は三日間以内にしてくれとの甚だ火急の申入れであつた。
 そこで本所は直ちにその手配に移つた、庁舎荷解場等総面積大約七千五百余坪の内には戦時中検査機械の一部を地方に疎開したとは言へ、なお尨大な検査機械器具類、諸装備及び什器を所持しており、輸送機関は勿論、速急に移管先もなく、外部に搬出することは到底不可能であつたので、庁舎の約三分の一(主として検査機械据付室)を残すこととし、これに総ての物品を格納して残り三分の二約五〇〇〇坪を明渡したのであつた。しかして当所はとりあえず横浜市神奈川区沢渡所在の商工省繊維工業試験所内へ事務所を設け所長以下ここに移り、検査は日本蚕糸統制株式会社経営の岡谷及び前橋両生糸検査所を借受け、横浜生糸検査所出張所として検査を続行し終戦後の応急措置を講ずることとなつた。
 ……最初は庁舎の三分の二を明渡したのであるが、軍隊進駐するに及んで次第に狭隘となり遂に残部三分の一も兵舎として使用さるるに至つた。しかして当所の軍使用と明渡後の管理についてはこれを神奈川県当局に托したのであつたが、その残部庁舎の使用に当りては連絡不円滑であつたため機械類の取外し取片付けは殆んど破壊的処理を受け、重要検査機械、度量衡器その他設備は甚だしき損害を蒙つたのであつた」
 つまりは、接収により多大の損害を受け、貴重な書類などが消失してしまったようである。

 

(文責:編集部MAO)