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「かつて米軍の大ランドリーだった築地市場」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.33
「かつて米軍の
大ランドリーだった築地市場」

 晴海通りから波除通りに入って、つきあたりは築地市場の海幸橋門である。ここにはかつて築地川の支流が流れていてアーチ橋の海幸橋があったため、今では埋め立てられたが、ここをそう呼ぶのである。

hidden story

 

 その手前左には、波除稲荷神社がある。かつて明暦の大火後、埋め立て工事の際、荒波で工事が難行、その最中に見つかったご神体を祀るや、波が収まり、工事が順調に捗ったことから、信仰を集めるようになり、その神体を祀る波除稲荷神社が創建されたのだそうだ。ここには、中国人をはじめ海外からの観光客などが大勢押しかけ、自撮していた。


波除稲荷神社

 そこに拝礼したのち、その前をまっすぐ「市場橋」信号に向かって、場外市場を歩いて行っても、次の目的である日本海軍発祥の地を示す「旗山」と刻んだ石碑のある「水神社」らしきものが見当たらないので、交通整理していたガードマンに道を聞くと、「もどって、稲荷神社横の海幸橋門から市場に入り、回り込めば行けますよ」と教えてくれた。
 さて、ここでは、築地市場に入る前に、「築地市場の歩み」を簡単に見ておこう。
 日本橋魚河岸をはじめとする市場郡が1923年の関東大震災で壊滅したので、築地の居留地の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、この「築地市場」の、そもそものはじまり。1935年には、この京橋区築地に東京市中央卸売市場が開設され、今では、東京都中央卸売市場に発展してき、ここにきて、豊洲への移転についての、すったもんだが続いている。
 そんな騒ぎはここではさておいて、占領期における様子を、「東京都中央卸売市場史」(1958年刊)の「第五章 進駐軍による市場施設の接収」から引用したい。

 

「終戦当時の中央卸売市場は、本分場とも、入荷は少ないし、出入の人員も車両もまばらで、まことに荒涼としたものであつた。また、設備も戦時中の金属回収と、復旧の資材や労力の不足による修理不能のため、荒廃の防ぎようもなかった。ことに、築地本場は規模が広大なだけ、その荒涼の気は一層著しく目立つた。当時、市場は常勤していた副場長遠山栄吉は次のように回顧している。
『わたしが副場長として中央卸売市場に行つたのは、終戦の年の四月半ばだつた。入荷は少く、市場はガランとしている。そして毎日空襲に脅かされる。
 そのうち終戦。世の中はひつくり返つたように混乱するし、人心は不安、食料は不足ときてい、なんとも手がつけられない。あの頃は、まだ広場の真ん中に築山があつたが、そのお宮にどこからともなく人が集まつてきてはバクチをやるのだ。それが毎日のことで、連中は荒神山とか言つて大ピラに開帳している。それがだんだん市場の従業員に波及するような形勢がみえてきたので、ほうつておけず、築地警察署に取締り方を頼んだが、どうしたことかさつぱり手応えがない。仕方がないので、自分で警視庁に乗り込んで、懇意な保安課長に会つて頼んだところ、早速トラックで警官が乗りつけ、一網打尽に検挙してくれた。その後もう一度同じような手入れがあつてからは、ピタリとやんだ。
 岸壁の方には、進駐軍の兵士達が舟艇をつけて、市場へ上がり、勝手に事務室に入っては、目につくものを持つて行く。とくに、そろばんなどは彼らに珍らしいものとみえて取られた。調理室のナイフやフオークなどすつかり無くなつてしまつた。机にかぎをかけておいても、かぎをこわすのだから処置なしだ。彼らは戦利品とでも、想つていたのかも知れない。そして本国へのもやげにするつもりだろう。あまりのことに築地署の通訳を通じて、ここは都民の台所だから、勝手に入られては困る。どういう権限で入るのかと抗議したらそんなことは答弁の限りでないと突ぱねられる。歴戦の荒武者どもで、帰国前に二、三日上陸を許されたので東京を見ておこうという連中らしかつた。』
 こうした状態にあつた市場は、進駐早々で各種の設備を急施する必要にせまられて、焼野原の都内各地各所を捜索していた進駐軍にとっては、またとない好餌であつた。
 はやくも昭和二十年十二月十日には第一次の接収指令がくだつて、青果部仲買人売場全部(二、三二二坪)が接収された。そして同所は直ちに、ランドリーに改造された。
 当時市場付近は進駐軍の兵士たちが彷徨して、時々不祥事件がおこつたが、その後、進駐軍の自国軍人に対する取締りが厳重になり、市場付近の秩序は漸次回復されたが、施設用地の接収は矢つぎ早に進められた。そして、昭和二十四年七月二十二日の第六次接収までに、接収の範囲は、市場全施設の約四分の一に及んだ。
 すなわち、市場用地約五九、〇〇〇坪のうち、魚類仲買人売場の一部、青果部仲買人売場、買荷保管所、青果部第二卸売人売場ならびに、モータープールに充てられた広場等、主要な施設三、八〇〇坪、土地一三、〇〇〇坪を接収されたのである。
 この間、進駐軍から、スクール・バスの置場として、神田分場の一部接収の要求があつたが、これを断わると、豊島分場でもいいという交渉があり、これも拒絶した。その後幸いになんのことなく済んだのであつた。

接収 接収日
(年・月・日)
建物(坪) 土地(坪) 施設
第一次 20・12・10 2、322・837 2、322・837 青果部仲買人売場
第二次 21・1・31 382・072 3、980・204 魚類部買荷保管所
(第一・第二棟)/
青果部買荷保管所
(第一・第二棟)
第三次 21・2・19 541・175 451・175 青果部買荷保管所
(第三・第四棟)/
青果部第二卸売人売場
第四次 21・4・13 1、025・660 車置場
第五次 21・5・5 4、642・120
第六次 24・7・22 560・000 560・000 魚類部仲買人売場
3、806・084 12、981・996

 一九四六年一月二十八日 連合国最高司令官総司令部
日本帝国政府に対する覚書
終戦連絡中央事務局経由
首題「空地接収の件」

  1. 別紙図面指示のとおり、中央卸売市場隣接空地を連合国最高司令官総司令部代表により接収するに付、一月三十一日十二時迄に引渡しの準備されたし。
  2. 設備は連合軍の希望通りの目的に沿うように必要なる破壊残骸物の除去、盛土、最小限の修繕作業を完了し、設備の運用に要する労務を提供されたし。右要求に関する詳細なる指示は、当司令部代表より貴代表に伝えらるべし。
  3. 前記第二に掲げる指示を実施するため優先度を五五・一番に指定す。

最高司令官代理副官部補佐官
スロルド・フェーヤ中佐

 東京都においては、市場施設の接収は都民に対する生鮮食料品配給を担当する市場の機能に支障を及ぼし、ことにランドリーは、衛生上から最も望ましからぬ施設である等の理由をあげて、外務省終戦連絡中央事務局あて(昭和二十一年一月三十一日)、または連合国最高司令部あて(昭和二十二年三月二十六日)に接収解除方の嘆願書を提出したが、なんらの効がなく、その後も接収はつづいた。
 戦後経済の復興とともに、成果物、水産物の入荷は激増し、出入する人員も車両も多くなり、昭和二十四年成果物の統制撤廃、翌二十五年水産物の統制撤廃となつて、取引が自由となると、入荷数量も急激に増大し、昭和二十四年においてすら、戦前の水準を上回る状態となつたので、市場は、施設の狭あいをきたし市場の運営は、はなはだしく阻害されるに至つた。
 市場業者も青果関係水産関係一体となつて、昭和二十五年には中央卸売市場接収解除の促進員会を結成して、東京都と歩調を合わせて活発な接収解除運動を展開した。東京都も、昭和二十六年以来一層解除陳情に拍車をかけ、数回にわたって、あるいは東京調達局長、渉外部長、外務省国際協力局長、または、キャンプ東京司令官あてに陳情書を提出して、ひたすら解除方を陳情した。これに対して、連合軍側では替地を要求してきたので、東京都は調達庁と折衝して、朝霞その他に替地の選定につとめた。調達庁長官福島慎太郎の格段の配慮によつてようやく昭和二十七年三月三十一日に至つて、はじめて、魚類仲買人売場の一部と、青果部仲買人売場が解除された。ついで同年六月十七日には、正門付近にあつたモーター・プールが返還されたので、翌十八日に正門前で返還式を行つた。
 この日午前九時、市場当局および業者の代表者は正門前に集まり、太田市場長によつて、国旗掲揚塔に、日章旗が高々とあげられた。掲揚塔に国旗が翻つたのは、まさに七年振りであつた。
 東京都は、全面解除の一日も速かならんことを期して、昭和二十九年六月には、外務、建設両大臣、調達庁長官、衆参両院の外務委員長、米国大使館等あてに陳情書を提出した。
 ついに、昭和三十年に至つて、一月に青果部第二卸売人売場の一部を、同三月に、青果部第二卸売人売場の一部と仲買人売場の一部及び買荷保管所が解除され、ここに市場施設は全く接収から解除された。

解除 解除日 接収期間 施設
第一次 27年3月31日 24・07・22~27・03・31 魚類部仲買人売場一部
第一次 27年3月31日 20・12・10~27・03・31 青果物仲買人売場
第二次 27年6月17日 21・01・31~27・06・17 魚類部・青果部
買荷保管所・モーター・プール
第三次 30年1月14日 21・02・19~30・01・14 青果物第二卸売人売場一部
第四次 30年3月31日 20・12・10~30・03・31 青果部/仲買人売場第一部
第二卸売人売場第一部
買荷保管所

 接収解除の後は、施設の補修改造や、施設の使用方法決定等につき、東京都は特別の人的物的の資材を投入せねばならなかつたのである。戦後約十年に及ぶ市場施設の接収が、本場の発展をそれだけおくらせたことは、市場関係者のひとしく悔やむところである。
 なお、接収施設については、中央卸売市場は東京調達局と「土地建物等賃貸借契約」を締結して、賃貸料を徴収し、かつ、解除の際は接収施設の復旧工事に要した費用と、復旧工事期間中の賃貸料を国より支弁を受けた。復旧に要した費用は約三千万円に上つたのである。」

 

 引用はここで終るが、「未唯への手紙」のブログには、こう出ている。
築地市場接収の目的は巨大ランドリー
 米軍にはランドリー部隊があり、野線の場合でもトレーラーに機材一式を積んで前線まで移動。洗濯物すべての面倒は、ランドリー部隊がみる仕組みになっている。占領下の東京では、当然、大規模なランドリー施設が必要となり、築地市場に白羽の矢が立った。場所は青果部の売場。飛行機の格納庫のようなスペースのほとんどを洗濯工場にリノベーションンしたのである。
 稼働したのは、1946年の春ごろから。多くの日本人が集められ、洗濯の専門知識を持ったオフィサー(将校)の指導のもとで、作業が始まった。アメリカから運び込まれた最新式の機械、徹底した流れ作業、(ハンドタオルー枚をたたむのにもマニュアルがある。日本のランドリーとは比較にならないほど、進んでいた。おまけに報酬は国内の平均賃金の3倍。よくぞこんな国と戦争したものと、だれもが思う豊かさだった。
 しかし、場所を貸した市場側はいい迷惑である。青果の業者は、水産施設に間借りした形で営業したが、入荷量が徐々に増えてくると、狭くてしかたがない。復帰した仲買は、1店舗に3軒もが押し込まれたものだ。さらに大量に水を使うので断水騒ぎも起き、洗剤用の強い薬品も問題になった。
 52年、サンフランシスコ平和条約が発効となり、日本の占領時代は終わるが、ランドリーが市場に明け渡されたのは55年3月。半年近くかかった施設復旧の費用は日本側負担で、2000万円ほどかかったという。
 いっぽう、民間に払い下げとなったランドリーの機械や、習得した技術によリ、日本のクリーニング業界は大きな一歩を踏み出した。築地市場は『日本の近代クリーニング業の草分け』となったのだった」
 もと市場長の森本博行さんも、「現在、青果市場がありあたりには、進駐軍のランドリー施設が置かれていた」と語っている。その青果部は、ここから奥のほうにある。市場で働く人たちの邪魔になるので、眺めるだけにした。
 では最後に、海幸橋門から、この辺一帯が日本海軍の発祥の地だったことをあかす「魚河岸水神社遥拝所」に向かおう。「水神さま」は築地市場の守り神さまで、本殿は神田明神に祀られているそうだ。
 海幸橋門から市場の端にある「魚がし横丁」を抜けて、右に歩いてゆくと、小高い丘の上に「水神様」が祀られている。そしてその高台のふもとには、「旗山」と刻んだ石が置いてある。ここは、江戸幕府老中の松平定信が引退後に隠棲した「浴恩園」で、ここに海軍省が置かれ、毎日、海軍卿旗が築山に掲揚され、そこを「旗山」と呼んだので、この石碑が「海軍発祥の地」を記念したものとされている。
 ともかく、築地市場をめぐる今の騒ぎは、占領期の接収に勝るとも劣らぬ、「水神様」も苦い顔をしているだろう。


魚河岸水神社遥拝所

  • 水神社と「旗山」の碑

  • 日本海軍発祥の地であることを示す
    「旗山」の石碑(水神社にある)

 最後になったが、ここで古図を見てみよう。「浜離宮」の隣、築地川を挟んで、「海軍大学」とあり、その右に本願寺と出ているが、ここが現在は東京都中央卸売市場、通称「築地市場」である。築地市場は、海軍発祥の地にあった海軍大学の敷地であったのである。

 ここで、今回の「占領期を訪ねる散歩」は終わる。次回は、「水神社」を出て、右の「市場橋門」の方へ歩いて行くことからスタートしよう。

 

(文責:編集部MAO)