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羽田空港

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.23
羽田空港

 わたし(小川)はこの7月佳日、姪の結婚式が広島であったため、羽田空港を利用した。この頃は成田国際空港を利用することが多く、羽田は久しぶりで、びっくりすることばかりだった。

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 1931年8月、日本初の民間航空専用空港「東京飛行場」としてスタートした羽田空港は、敗戦後の45年9月12日に接収され、連合国軍の一部であるアメリカ軍の管理下に置かれた。名称は、「ハネダ・アーミー・エアベース(羽田陸軍航空隊基地)」と呼ばれることになった。同時に空港拡張のため、鈴木新田の住民らに48時間以内の立ち退きが命じられた。なお、穴森稲荷社も撤去を求められたが、大鳥居だけは残された。しかし、これも後、移設されている。
 占領下には、民間航空を含むすべての日本籍航空機による活動が禁止されていたため、当時は米英仏など連合国の軍用機や、パンアメリカン航空、ノースウエスト航空、英国海外航空など連合国の航空会社の乗り入れのみに使用されていた。
 その後、サンフランシスコ講和条約が締結されるや、1951年10月25日、日本の航空活動が解禁される。そして、戦後初の国内民間航空定期便として日本航空のマーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港―伊丹空港(大阪)-板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始している。ただし、運航開始時点ではいまだ占領下であり、運航・整備をノースウエスト航空へ委託しての出発であった。
 翌1952年7月1日には地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に「東京国際空港」に改名している。また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビラントDH.106コメットMK.Iが英国海外航空によって初飛来している。
 さらに翌53年には日本航空のダグラスDC-6によって、日本の航空会社による戦後初の国際線定期路線の就航がスタートしている。
 この頃から日本経済も回復してきて、国内線の乗客が急増する一方、スカンジナビア航空、スイス航空、カナダ太平洋航空、カンタス航空などの外国航空会社の就航開始が相次ぎ、国際線でも旅客が急増するようになった。そのため、近代的な設備を有する新しい旅客ターミナルが開館したり、滑走路の延伸も行われていった。
 こうして、1958年に全面返還が果たされたのである。

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 ところで、読者の方々は、占領期の東京を舞台にしたハリウッド映画をご存知だろうか。それは、1949年に公開された「東京ジョー」で、ハンフリー・ボガートや早川雪州が出演している。ある解説には、「『カサブランカ』のいでたちのままのボガートが戦後間もない東京の街に立つ」とある。
 これの東京部分は、B班(セカンドユニット)がボガートの代役(スタンドイン)で撮影し、ドラマ部分は、ハリウッドで、つまり俳優の背景に東京で撮った実景の映像をプロジェクションしてカメラで再撮する手法=スクリーンプロセスで製作された映画というわけである。その際の未使用フィルム(アウトテイク)が流出してGHQの記録映像としてフィルムアーカイブに登録されていたらしい。
 それらを紹介するが、まず、映画「東京ジョー」を見ていただこう。

 これは、映画「東京ジョー」の冒頭のタイトルバック、羽田空港に着陸するシーンであるが、当時「HANEDA AIRFORCE BASE」であったことがわかる。
 つづいて、アメリカのアーカイブにあった「東京ジョー」のスクリーンプロセス用実景映像だが、まず羽田空港周辺のもの――

 これ以外には、

 があるが、「Shinbashi-Shibuya 1948 」とあるので、新橋や渋谷の敗戦後の風景である。映っている看板などで、どのへんの実景か、推理してみてください。

 

(文責:編集部MAO)