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三井の迎賓館=網町三井倶楽部

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.20
三井の迎賓館=網町三井倶楽部

 慶應義塾大学の三田キャンパスの近くにある網町三井倶楽部に出かけた。大江戸線「麻布十番駅」で下車、一の橋から古川橋に流れる古川(渋谷川から)に架かる「二の橋」から左側に上っていく日向坂をしばらく行くと、ヒルトップに「三井倶楽部」の銘鈑をもつ門柱が現われてくる。今日も結婚式が行われているようで、礼服の青年たちが歩いて入っていく姿がちらほら見られた。

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網町三井倶楽部銘鈑のある門柱
網町三井倶楽部銘鈑のある門柱

 ここは「三井の迎賓館」と称されているが、かつては三井家網町別邸として知られていた。網町三井倶楽部記念誌編集委員会の企画・編集になる「網町三井倶楽部」という豪華本の一部に、「コンドルと三井家網町別邸」(鈴木博之著)があり、その5章「竣工後、そして網町三井倶楽部へ」に次のように記されている。
「三井家網町別邸は外国大使を招いての午餐会あるいは晩餐会に多く用いられていることが『賓客接待簿』から知られる。なかで興味を引くのは、ニューヨーク・パリ間の大西洋横断飛行で有名なチャールズ・リンドバーグ夫妻を迎えての晩餐会が、昭和6年8月30日にこの建物で開かれていることである。このときは客側が19名、主人側が15名出席し、余興として日本画の今井夾邦、山本文英、菅原雲撨の3名が、席画を披露した。
 だが、こうした華やかな日々も太平洋戦争の勃発以降は消え、この建物でも皇軍慰問の品々を袋づめする作業などが行われるようになった。昭和16年以後、この三井家網町別邸で賓客接待が行われた記録はまったくない。

 三井家網町別邸が『賓客接待簿』に最後に現れるのは、戦後すぐの、昭和20年9月27日と10月20日である。この2回の晩餐会は三井財閥全体にとっての重大な意味をもつ晩餐会であった。
 2回とも客はマッカーサー司令部経済科学局長クレーマー大佐、主人側の出席者は三井本社(三井合名会社の改組に伴い昭和19年に設立)の筆頭常務理事であった住井辰男、次席常務理事の松本季三志、そして三井物産社長の宮崎清であった。9月27日の会合にはこのほか『大蔵省ヨリ一名、他一名』が出席しているが、氏名は解らない。
 この晩餐会では、三井に対する財閥解体の問題が話し合われたことが知られている。三井合名会社の成立と同時に計画された三井家網町別邸は、三井本社が存続し得るか否かの重大局面における会談の場として選ばれたのであった。
 もっともこの時、饗宴場をもつ総領家の今井町邸は昭和20年5月の空襲で焼失してしまっていたのであるから、こうした会合の場としては三井家網町別邸以外考えられなかったのであろう。
 9月27日の会談の様子を、後に松本季三志次席常務は、つぎのように回想している。

『……余談になるが、クレーマー大佐と三井別邸で初めて会う時は、食糧事情の極端に悪いとくだったが、料理は一流のフランス料理、部屋には書画、骨董をかざり、生花もきれいにもりあげて迎えたものだが、こういう心づかいは、本人の目には少しもうつらなかったらしい。彼はただ料理をムシャムシャ食べるだけなので、こちらはガッカリしたものだった。私は通訳をやったので、せっかくの料理もちょうだいする暇がなく、ただ眺めるだけだった。』

 ニューヨークの生糸商であったといわれる経済科学局長クレーマー大佐の目には、三井家網町別邸も、何の感興も与えるものではなかったようである。
 この第1回の会談のあと、クレーマー大佐と三井側は帝国ホテル、あるいは三井本館で会談した後、10月20日に最終折衝をふたたび三井家網町別邸で行う。
 このときも前回同様、午後6時からの晩餐会であった。『賓客接待簿』は、簡潔につぎのように記録をとどめている。

『住井常務主催
   クレーマー大佐招待晩餐会
  一、日時  十月二十日(土)午后六時
  一、場所  網町分館
  一、客   マ司令部経済科学局長クレーマー大佐
  一、主人側 住井、松本、宮崎  』 

 三井家網町別邸におけるこの第2回目の会談こそ、三井財閥の解体を受け入れる会談であった。三井側は、三井家が第一線から退き、本社だけは純然たる特殊会社として残す、株式は公開して十分に社会性をもたせるという案を出したが、クレーマー大佐は解体を主張してやまず、24日までに自発的解体を決めなければ、命令権を発動してでも解体すると宣言したのである。
 このとき、三井財閥の解体は動かぬものとなった。翌10月21日、三井本館に集まった三井家の同族たちは、前日の三井家網町別邸での会談の報告を聞き、自発的解体を決めたのであった。こうして、最終期限の24日以前に、三井財閥はその体制を解いた。
 『賓客接待簿』には、このあと10月27日正午から、三井本館7階重役小食堂で、クレーマーと住井、松本、宮崎の4者の午餐会が開かれたことが記録されているが、彼らはどのような思いで食事をともにしたであろうか。
 戦前からの『賓客接待簿』は、この記録をもってそのすべてを終わる。これが、三井にとっての戦争の終わりであった。

 三井家網町別邸の戦後は進駐軍の接収からはじまる。都内の多くの建物と同様、この建物も接収され、米軍のオフィサーズ・クラブに用いられた。この接収は昭和20年12月4日から、昭和27年6月30日までつづき、さらにこの後も三井不動産とのあいだの賃貸契約というかたちで10月31日までの契約が交わされ、さらにこれは、同年12月31日まで延長される。三井側の手にこの建物が戻るのは昭和28年1月1日であった。
 返還なった三井家網町別邸は、昭和28年10月5日、網町三井倶楽部として新発足し、三井系各企業の集まりである月曜会加盟各社の賓客接待施設として再出発することになる。
 この後、2階の和風壁面をもつ小客室が結婚式場の施設を収めるようになるなど、時代の要請による変化はありながらも、本館の内外観ともによく当初の姿をとどめて、この建物は現在に至っている。昭和40年2月末日に西側に新館が増築されたが、これによって本館では収容しきれない大規模な会食も可能となった。
 この後も、維持改良の工事は行われているが、コンドルの意匠を保存継承する努力は最大限払われ、都内有数の世洋館として、この建物はますますその貴重な価値を高いものとしている。
 当初に意図された用途を現在もなお継続して果たしつづけ、完成以来80年近い歴史を経た建築は、宗教建築を除いて都内にはほとんど存在しない。それを可能にしたものは、当初の立案のよさ、そしてその意図を汲んだ設計のよさ、震災復旧をはじめとする幾多の工事に関係した人々の正確な建物理解、さらに、この建物を管理運営してきた人々の理解と愛情であろう。」

 「三井の迎賓館」と言われ、空襲を免れているだけに、ここは財閥解体の舞台の一つになり、占領軍の接収を受けているわけである。

網町三井倶楽部銘鈑のある門柱
網町三井倶楽部

 

(文責:編集部MAO)