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代々木公園の14烈士自刃の処

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.16
代々木公園の14烈士自刃の処

 玉音放送の10日後の8月25日、大東塾の14人が割腹自決を遂げた場所が代々木公園の西口から入ったところにある。かつてワシントンハイツがあって、接収解除にならなければ立ち入れず、記念碑も立てられなかったが、現在は清浄に祀られている。
 大東塾出版部が1955年8月15日に上梓した『大東塾十四烈士自刃記録』があり、その本を井上病院の関係者・井上隆氏から拝借したので、その中から「自刃の概要」と「検屍立会医 井上病院長の談話」を紹介する。

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「自刃の概要」
 自刃の決定
 大東塾十四士の古式による壮烈整然たる集団割腹自決は、昭和二十年八月、終戦の日より十日を経た二十五日午前三時頃、東京都渋谷区内元代々木練兵場の一角、通称十九本欅の傍らであるが、そこに至る経緯と、その実情況は、直接参加者が一人も生き残らなかったので、多少わかりにくい点もあるが、参加者自身によって書き残された諸種の記録と、自刃の時まで一緒に生活して準備万般の世話に當り、その最后の出発を見送り、現場に駈けつけて遺骸の始末をし、葬儀その他諸般の雑事を身を以て処理した三四の人々の記録や談話筆記が残ってゐるのでそれらを彼此綜合してみると、ほぼ間違ひのない跡づけをすることが出来るのである。
 當時大東塾の情況は概要左の如くであった。
 影山正治塾長は、昭和八年七月十一日、國學院大學本科在學中、数へ年二十四歳にして、所謂神兵隊事件に中堅の一人として参加投獄されたが、十年末假出獄を許されるや翌十一年二月十一日東京都淀橋区戸塚町に「維新寮」を開設、その後之を母体として十四年四月三日東京都渋谷区代々木西原町に「大東塾」を創立、翌十五年七月五日大東塾を主体とする所謂七・五事件のため再度入獄、十六年十一月塾の外郭団体「新國學協會」を設立、爾来塾教育と維新運動に専念して来たが、十九年十一月、三十五歳一兵として北支方面に出征留守中であった。
 影山塾長の出征に當り、塾顧問をしてゐた父君庄平翁が推されて塾長代行に就任、留守中一切の責任を負はれた。塾長出征後実質的に塾務万般を統治してゐた長谷川幸男塾監また二十年三月その後を追って出征、数年ぶりに軍隊から除隊帰塾したばかりの同人牧野晴雄烈士が塾監代理に就任した。この時までに塾中よりの出征者は二十余名(塾関係では学徒出陣のみにて百四十名)、徴用問題で下獄中のもの五名であったが、八月二日牧野塾監代理がまたまた応召入隊の途にのぼったため、同人野村辰夫烈士が更に引継いで塾監代理に任じ、終戦直前に於ては塾長代行影山庄平翁を中心に、塾監代理野村辰夫烈士、同人藤原仁烈士、同人鬼山保烈士の三幹部これを補佐し、その他に約十名の塾生と、地方より上京滞塾中の同志六七名と、藤原烈士夫人美枝子、庄平翁次男夫人弘子と都合二十数名を以て塾が守られてゐた。
 庄平翁は、五月十三、十四、十五の三日間、郷里愛知県の蒲郡市に近い三河富士砥神山上社務所に於ける「非常時神典大講習會」を牧野晴雄、藤原仁、津村満好三烈士と共に指導、楠公祭當日たる同月二十五日を以て上京、爾来塾中一切の統御に當って居られた。
 長崎に原爆が投下され、ソ聯が侵入を開始した八月九日頃から庄平翁に不可思議の身体異状が起り、翁は「塾の上か、郷里の肉親の上か、或はお国の上に何か起るに違ひない」と云って居られた由である。
 塾が、ほぼ終戦のことを知ったのは八月十三日夜であった。この夜、野村辰夫、藤原仁の両烈士が、世田谷区深沢町なる塾顧問小林順一郎氏宅に赴き、九日閣議の非常情報を入手して帰塾した。
 翌十四日夜、庄平翁は藤原烈士を伴って世田谷区新町なる塾顧問三浦義一氏宅に至り、ここで終戦の事実を確認した。且つ、御前会議に於て聖断を仰いだこと、明十五日正午玉音放送を以て終戦の聖断を宣示あそばされること、阿南陸相が自決した様子であること等を傳聞した。
 その時「明日の生死も期し難し」とて、庄平翁は、ねんごろに三浦顧問と今生の別れの挨拶をされたが、別れに臨んで庄平翁は「この上は、死か蹶起かただ二途あるのみだが、今に及んでは蹶起の道は殆ど無いであろう」旨を云はれ、三浦顧問は「必ず近く蹶起の機會があるから自重されたい」旨を述べた模様である。帰塾、非公式に事の次第が一同に傳へられた。
 十五日、朝から一同謹慎、正午、塾神前にラヂオを据ゑ、庄平翁以下一同禊の上慎みて玉音放送を拝聴慟哭した。ここに於て地方より上京滞塾中のものは、塾外同人大倉常吉氏を除いて全員即日帰京を命ぜられた。各々家郷にあって生きぬき空前非常の日に誓って道統を護持せしめんためであったと思はれる。この夜、庄平翁の部屋に一同が集り、しばし懇談を行ったが、庄平翁は「結局國内の腐敗堕落が敗戦の根本原因だから、自分で自分を敗ったのだ。昭和維新の奉公者の努力と誠意の足りなかったことが、まことに大きい責任だ。全く何と天子様に申譯をしたらよいか、お詫の言葉もない。我々は本當に心から責任を感じなければならない」と心から言はれ、一同も「全く陛下に申譯ない」と、そのことばかりを話し合った。「先生この日一切をこの一挙に籠めて自決を決意せらる。神意激しく働きて遂に延ばさる」と、藤原烈士の覚書にある。即ちこの日、庄平翁はただ一人一切を一身に背負って自決されようと決意されたのであるが、遂にその実行は延期された。「國うれふやたけ心きはまりて静かなるかも神あがるとき」の辞世歌は、この日、玉音放送拝聴直前に作られたものであると云ふ。
 十六日、一同終日謹慎。午后から準同人以上が招集され、塾の態度を決定するための重要會議が開催された。出席者は、庄平翁、野村辰夫、藤原仁、鬼山保、森山文雄、芦田林弘、東山利一、棚谷寛、三橋道雄の九名であった。この會議では「死か蹶起か」に就て種々論議されたが、事ここに至っては、もはや蹶起義挙の時機は過ぎ去ったものとして、深き神慮に随順し、このまま静かに割腹自決して陛下にお詫び申上げ、熱祷以て祖國再建の人柱に立つべきだとする自決説に對し、二三の人々からは強く蹶起説が唱へられ、一連の敗戦責任者を斬り、その上で割腹自決したい旨が述べられ、他に鬼山烈士からは「いづれにしても塾長の帰塾を待ち、塾長の命により一切塾長と行動を共にすべきではないか」との説も出された模様である。これら諸説に對し黙って聞いてゐた庄平翁は「塾一同を代表して自分一人だけが腹を切ってお詫び申上げることにしたい」と申出られた。「これに對し野村、藤原両烈士が直ちに強くこれを押しとどめ「先生は本来は顧問で、塾長の出征により臨時に塾のお世話をしていただいて居るのですから是非やめていただき、我々若い者こそ割腹してお詫び申上げ、皇居を永久にお護り申上げますから、御老体の先生は是非是非生きて大切な後始末をやっていただきたい」と主張し一同我れも我れもと皆これに同意したが、庄平翁は「いや、年寄の自分が一切を引受けて腹を切るから、若い諸君は是非生き残って、陛下をお守り申上げ、お國の再建に努めてくれるやうに」と主張して譲られないので、結局ここで庄平翁を中心に一同自決と云ふ基本方針がほぼ決定された。このうち三橋道雄君は、塾長の一子正明君(数へ年四歳)附として万難を排して生き残り、後図を策するやうに厳命された。同君は十四烈士自刃後四ヶ月余、翌二十一年一月病を以て急逝し、正明君は今年(昭和三十年)数へ年十四歳、中學二年生になって居る。
 十七日、一同終日謹慎。野村辰嗣、福本美代治、村岡朝夫、津村満好、野崎欣一の五塾生は庄平翁から自決のことを打開けられ、塾考の上で一人々々自主的に回答するやう求められたが五士とも欣然として積極的に参加を申出た。このうち野村辰嗣烈士は数へ年十八歳の最年少者であり、野崎烈士は入塾後一ケ月余の最も新しい塾生であった。
 十八日、一同終日謹慎。この朝、所要のため郷里新潟県の実家に帰ってゐた塾生吉野康夫烈士が万難を排して帰塾し、この夜、三度目の召集によって帰郷入隊したが健康上の理由で即日帰家を命ぜられ、爾来石川県の実家の方にゐた牧野晴雄烈士も決然として帰塾した。いづれも死を決してゐたので直ちに自刃の盟中に加はった。かくて同夜、庄平翁を筆頭に十五名全員の割腹自刃が正式に決定され、大倉常吉、影山弘子、藤原美枝子の三名が後始末を命じられた。

 自刃に至る経過
 十九日、藤原、東山両烈士が自刃場所の調査に出かけ、結局「皇居前や明治神宮御境内を血で汚しては申譯ない」と云ふので、明治神宮御神域にほど遠からぬ代々木練兵場の西端、通称十九本欅のほとりが自刃の場所と決定された。
 この日は各人の身辺整理、衣服の洗濯、塾内外の清掃を行った。「本日終日謹慎静謐を保つべきところなりしも、大事に備へ武士のたしなみとして身辺及塾内外の整理清掃に念々の祈りをこめつつ従事す」と塾當番日誌に見える。
 二十日、午前中に同人會議が開かれ、自刃の日時を、来る二十五日早朝と決定、一同に云ひ渡された。午後一時頃から庄平翁の講義が行はれた。最後の講義である。次で三時頃から新潟県下の長谷川塾監実家からもたらされた若干の酒によって小宴が催された。庄平翁は特に上気嫌で、たへずにこにことほほゑみ、ほのぼのとした面持で一同を眺め、皆々心から楽しさうに和やかであった。丁度北支から送られて来た影山塾長作「草莽有志の歌」を皆で読みながら歌ひ、また野村辰夫烈士の作になる「祭の歌」なども歌はれた。
 これより以前(十八日と推定)日大在學中の阿部秀夫塾外生が使者として新潟県燕市なる長谷川塾監実家に十五名分の死装束用白布、白足袋、履物その他の調達に派遣されたのであるが右小宴に用ひられた若干の酒は苦心入手した所要の品々と共に長谷川母堂が特に托されたものであった。
 この日も塾内外の整理清掃が行はれた。この二日間に焼くべきものは焼き、秘匿すべきものは秘匿して綺麗にしてしまった。またこの日あたりから自刃の諸準備が本格的に進められ、一方では自刃の詳細打合せがなされると共に、他方では割腹刀、介錯刀の手入や、遺書、遺詠の作成がなされ、また両夫人によって父と夫を含む諸烈士の襦袢や褌や、その他の死装束が縫ひ進められた。女性同志数名が毎日手傳ひに通って来てゐた。
 終戦直後からこれまでの間に地方から駈付けた熱心な同志も数名在塾してゐたが、すべて自刃の盟中に加はることを許されず、終戦直後に帰郷せしめられた諸同志と同様、道統護持を遺嘱されて、ほぼ二十三日頃までに帰郷せしめられた。
 またこの頃、塾に心を寄せる軍内青年将校たちが入れかはり立ちかはり来訪して徹底抗戦のため塾の協力奮起を求めたが、すべて庄平翁始め幹部のものがじゅんじゅんと説いて帰したらしく、中には塾の眞意を解せず憤然として辞去したものもあると云ふ。
 二十二日に至り、徴用問題事件のため下獄中であった竹川哲生準同人が突然釋放されて帰塾した。長い獄中生活で心身共に衰へてゐたためか、遂に自刃の盟中に加はることを許されず、一切を知らないことにして自刃決行直後まで一室に隔離されることになった。
 この日、愛宕山に於ける尊攘義軍十烈士の手榴弾による集団自決事件が起った。この中には維新寮同人であった飯島與志雄、大東塾同人であった谷川仁、茂呂宣八の三烈士がゐた。
 二十三日の朝、野村、東山両烈士と共に介錯役に決定されてゐた盟中の一人森山文雄が無断脱走脱落したことが判明した。しかし、このことによって盟中一點の動揺も起らず、全員まことに水の如くに淡々たるものであった。ここに於て自決十五士の予定が十四士となった。
 この日は一同心静かに部屋や持物の整理に當り、またバリカンでお互ひに頭を刈り合ったりした。両夫人は庄平翁の言ひつけで骨袋を作成した。
 午後四時から芦田烈士最後の奮闘により、食糧事情の極度に窮迫してゐた當時として出来るかぎりの御馳走が作られ最後の酒宴が催された。三度三度の食事の時、霊前に飾られた出征中の影山塾長の寫眞の前に陰膳をそなへ、そのお下りを順番にいただいてゐたのであるが、この日は始めに庄平翁がおそなへした陰膳のお下りをいただいて酒宴が始った。どうしても死を目前にした人々の酒宴とは思へないやうな明るい和やかな空気で、初めに吉野烈士が天忠組三総裁の一人松本奎堂先生の辞世歌「君がためみまかりにきと世の人に語りつぎてよ峯の松風」を朗々として吟ずるや、次々に数名の人々が詩や歌を朗吟し、最後に一同で野村烈士作「祭の歌」を合唱して五時過ぎ宴を終った。
 この日皇居前に於て明朗会十二烈士女が拳銃、短刀、カミソリ、服毒等によって集団自決をとげた。
 二十四日、一同朝から静かに最後の準備に當り、午後四時夕食、午後十時庄平翁以下全員塾長室に集合、最後の打合せを行ひ、各自共同遺書に署名した。庄平翁が最初に筆をとって
  清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ
と書かれ、年月日を入れて自署せられると、野村辰夫、牧野晴雄、藤原仁、鬼山保の四幹部を始め順に従って一番新しい塾生の野崎烈士に至るまでが祈念を凝らし心静かに署名し了った。これから出来るだけ體を休め、午前一時神前集合と云ふことになった。
 その直後、事態の急を知った警視廰と代々木署から幹部三名が来訪して庄平翁に面接、種々自刃の中止を懇請したが翁は断乎として之を拒絶されたので十一時頃空しく引揚げて行った。庄平翁は万一現場で阻止されるやうなことがあってはと考へたためであろう、念のため塾神前でやるか、塾庭前でやるかと改めて検討を加へた模様であるが、「神前では後始末に困るし庭はせますぎる」と云ふので断念し、つひに計画通りと決心されたらしい。しかし實際には自刃實施に對し警察による何らの妨害もなかった。
 なほ、この夜、庄平翁の甥で當時陸軍士官學校本科在學中(五十九期)の影山健君が、上野驛で士官學校疎開先きの長野県下に向ふ陸士本隊から抜け出して事情を打開けられて感激した区隊長の吉田大尉と一緒に塾に駈けつけ、最後の別れを行ひ、遺骸の後始末に當った。

 自刃の模様
 二十五日午前一時、庄平翁以下十四士は入念にみそぎを行った上で服装を整へ、白鉢巻と刀を持って粛然として塾神前に集った。皆々頭髪を刈り、頭を剃り、眞新しい襦袢に白足袋、洗ひたての着物と袴、懐中に白紙とハンカチと紙入れを入れ、見ちがへるやうな清潔さで颯爽としてゐた。時に年四十と云ふ塾生中の最年長者福本美代治烈士は、二回も刑務所に入った共産陣営からの転向者で、いつもきたない格好をし鬚がぼうぼうであったのが、あまりにも綺麗になり、ぴんと糊のきいた着物に袴を着け、腰に白扇をたばさみ堂々颯爽として現はれたので両夫人など目を見張るほどであったと云ふ。
 一同神前夜食の座につき、前夜から停電のままであったため、ローソクの明りで、軽い最後の食事をした。献立は、白粥、椎茸とふだん草を實にした薄い味噌汁、配給の缶詰鮭、きうりの漬物、梅干、茶であった。
 食事が終ると、神前に於て、大事の完行を祈念し最後のお別れを申上げる神拝が執行され、庄平翁の訓辞が行はれた。奏上された祝詞は「御前の大東塾同志十四名、うつそみの命をかぎりて、無窮に國體皇道を護持擴充の念願を籠め最后(いやはて)の大きみ祭りを明治神宮の御側なる代々木練兵場に於て仕へ奉るを」と、共同遺書に述べられたと同一の自刃の根本趣旨を申上げ、この自刃が何ら相對的な憎悪や呪詛の立場で行はれるものでなく、ただ一重に絶對の祭りとして行はれるものであることを明らかにして居る。
 介錯役に當って居る東山烈士は、ローソクの光で、弘子夫人から化粧をしてもらった。「白粉と口紅をさしたら、眉の濃いふっくらしたお顔は美しく輝いて見えた」と夫人の記録は傳へて居る。吉野烈士も美枝子夫人に化粧をしてもらった。
 一同はもう一度神前に集った。庄平翁は、いつもと少しも變りなくニコニコと「みんな大丈夫か。お茶も飲んで行かう。タバコもすって行かう」と云ひ、一同静かに最後のお茶と煙草をのんだ。
 いよいよ出發である。時に午前二時。十四日月が煌煌として照り渡ってゐた。
 服装は着物に袴、白足袋をはき、白鉢巻をしめ、懐中には紙入、ハンカチ、鼻紙、鼻緒に白紙を巻いた草履を履き、短刀を持参した。辞世歌、遺書等は神前に供へて残された。
 玄関に集合した一同は、塾に向って一禮、東方皇居に向って一禮、各自の郷里氏神に向って一禮、各自の父母、家族、近親に向って一禮、塾長、塾監、庄平翁奥様、塾長奥様、塾長お子さんの正明君、眞由美さんに對して一禮、塾関係同志一同に對して一禮、お世話になった塾関係諸氏に對して一禮と入念鄭重に最後の別れを行った上、野村辰嗣烈士の捧げる塾旗を先頭に、次で東山烈士が「ひもろぎ」、村岡烈士が三寶、棚谷烈士が介錯刀二本を入れた箱を捧持して続き、之に庄平翁と病中の野村辰夫、奥山保両烈士の乗った大八車を吉野、津村両烈士が曳いて従ひ、その後を二列に牧野、藤原、芦田、福本、野崎の五烈士が續いた。一同は、門前地上に畏まって見送る大倉、美枝子、弘子、吉田、健の五名に對し、夫々鄭寧に黙禮して去って行った。
 たまりかねた大倉氏が後を慕って途中まで追従すると庄平翁から一喝して追ひかへされた。
 四時前、五名の者が自刃現場に駈け付けた時には、一切が立派に終った後であった。「ひもろぎ」を中心として一同圓くこれを打ち囲み、初秋草を眞紅に染めて斃れてゐた。ただ一人、吉野烈士のみが、まだ息があって、苦しい息の下から「みんな美しいあの朝日と共に立派に死んでゆきました」と言った。死におくれたことを残念がって、やや遅れて現場に駈け付けた竹川君に「首を打ち落してくれ」と頼んでゐたが、一旦、附近の井上病院にかつぎ込まれた同烈士も、同夜八時頃に至って絶命した。
 自刃の現場にゐたものは一人も生き残ってゐないが、自刃は「自刃予定書」に従ひ、次の通りに行はれたであらうことは一點の疑ひもない。

  1. ひもろぎを立てる。
  1. 一同着座。
  1. 先生着座のまま、祝詞奏上、引続いて一同最后の復奏奏上。
  1. 用意、双肌ぬぎ、刀に白布を巻く。
     先生「覚悟はよいか。最後に何か言ふことはないか」
     一同「先生のお祈りと一つであります」
     先生「霊魂著(と)く日の若宮に参上り、無窮に皇孫の御天業を翼賛し奉らむ」
     一同「彌栄」
     先生「いざ」
  1. 一同同時に割腹自刃。但しカイシャクは腹を割いてからなす。
  1. 野村、東山は全部を見届けてから然るべく最後を遂げること。

 なほ、介錯は野村辰夫、東山利一両烈士によって為されたが、最後に野村烈士が東山烈士を介錯して自決したものと思はれる。野村烈士は、腹を切った上に、頸を切り、その後に胸部を突き刺して斃れてゐた。介錯刀は影山塾長愛藏の延壽國吉、大慶直胤の二本で、前者は刃こぼれ一つなく一寸曲った程度であったが、後者は鋸の刃の様にぼろぼろに刃こぼれがしてゐた。
 検屍を行った寺田検事は後に「かく多数の人々が純日本式に一糸亂れず見事に行った集団自決は、戦前に於ても、また今後に於ても、おそらく始めてで、そしてまた終りであらうと思ふ」と語り、また検屍に立會った井上病院長は「あれだけの大勢の人が、一度に同じ場所で割腹自決したことは、先づ最近にはない事であった。毒薬を使用するとか、手榴弾によるとかはあっても、今回の如く純日本式に割腹自刃するなどと云ふ事はなかった」と、その直後に語った。
 なほ法医学的に見た介錯の推定や各烈士の傷の状態等は右井上院長の談話筆記に詳しい。

 自刃の後始末
 非常な苦心を払って、その日のうちにやうやく全遺骸を納棺して焼場に運んで骨にした。その日の夜、長谷川塾監が第一着に復員帰塾した。そして爾後後始末一切の指揮に當った。
 二十九日、大東塾に於て長谷川塾監が祭主、竹川君が斎主を奉仕の下に盛大な合同葬儀が執行された。
 なほこの日、中央新聞を始め各地新聞に愛宕山の自決、明朗會の自決と共に、大東塾十四烈士の自決が非常な感動を以て報道せられた。
 電報が何日間もかかり、汽車は切符の入手が大騒ぎ、乗るのが大變、時間も大違ひと云ふ混亂の絶頂であったため、遺族で葬儀に間に合ったのは東京在住の村岡家のみであった。その翌日から次々に到着した遺族に遺骨が渡されたが本骨は塾に置いて、分骨され、本人の遺骨のほかに他の十三士の遺骨も分けられた。なほ遺族の上京を見なかった藤原(広島県)、福本(鳥取県)、津村(鳥取県)三烈士の遺骨は竹川哲生君が、野村辰夫(鹿児島県)、野崎(鹿児島県)両烈士の遺骨は阿部秀夫君が、それぞれ捧持、遺族を歴訪手交した。
 影山塾長が北支から引揚げて帰塾したのは翌二十一年五月のことで、直ちに全般の掌握が為され、綜合的な処理が進められた。北支現場で始めて十四烈士自決のことをほのかに傳へ聞いたのは一ヶ月後のことであり、父君庄平翁がその中に加はってゐたことは内地引揚後始めて知ったと云ふ。
 翌々二十二年、一應の処理をつけた影山塾長は、四月二十九日東京を出発、十二月一日に至る二百十七日間、」全行程千余里を徒歩で東海、中國、九州、山陰、北陸、関東に亘る全遺族を巡訪、親しく各烈士の霊前に参拝した。
 なほ毎年八月二十五日命日當日には今日まで欠かさずに年祭が執行されて来て居る。
 なほまた元代々木練兵場一角の自刃現場に於ては、自刃直後から毎月二十五日の月の命日に祭典が営まれてゐたが、一帯の地に米占領軍将校宿舎ワシントン・ハイツが建設されることとなり種々接渉の甲斐もなく遂に昭和二十一年十一月二十五日、影山塾長司祭のもとに涙を噛んで奉告祭を執行、深く独立後を期しつつ明渡された。その際、他日現場発見のてだてとして中央ひもろぎ跡に約五十貫の大石を、各烈士殉難の跡に各々約三十貫の石を埋め、且つ不變の目標二點と結んだ測量圖が作成された。
 昭和二十七年秋、祖國の独立により自刃現場返還要請活動が起り、遺族團からは二十八年一月二十五日附を以てアメリカ大統領並に駐留軍司令官に對し、自刃現場に碑を建て、保存措置を講じたく少地域を特に日本政府に返還されたき旨の要請書が提出され、之を支持する衆参両院代議士一八二名を始めとする有志國民五万余名の請願署名が数回にわたって提出されたが、非常な祈念と努力にもかかはらず、十年祭を目前に控へた今日に至るもいまだその實現を見ることが出来ず、遺族並に関係者一同を痛嘆させ、心ある國民の間に憂憤の情を招きつつある。
 なほ十四烈士悲願の碧血の深くしみこんだ自刃現場は、現在ワシントン・ハイツ内一七四號住宅より一八〇號住宅の間に取り囲まれた芝生地帯となって居り、米軍将校家庭の子供たちの遊び場所となって踏み荒されて居る。
 昭和三十年八月現在、各烈士の墓のうち石碑の建ってゐるのは牧野、東山両烈士のみで他は木柱、ほかに岡山県倉敷市連島町三宅萬造君方と岩手県岩手郡御堂村西舘政二郎君方に十四士分骨を収めた合同墓碑が建てられて居る。なほ本骨を収めた中央合同墓碑は、自刃現場の関係その他のため、つひに十年祭までに建立することが出来ず、十四のお骨は今日に至るもそのまま塾内に於て護持されて居る。

 

 第六版追記
 昭和二十九年八月二十日大蔵省は省議の結果、「本件は現段階に於て使用を許可する等の措置を決定すべき問題ではない」と云ふこととなり自刃現場の返還は、その後三ヶ年が空白に経過したが、三十二年末に到り諸般の情勢が好転し、時の調達庁長官上村健太郎氏の積極的努力に依って調達庁と米軍側の交渉が進展し、三十三年八月十四日附を以て米当局から日本政府に対し条件付を以て本件を許可する用意のあることが通告されて来た。そこで大蔵省、調達庁、遺族団の三者が話し合ひ、同年十二月十一日の日米合同委員会に於て正式決定が行はれ返還要請開始以来六年五ヶ月目に多年の懸案を解決することを得た。
 かくて、ワシントン・ハイツの管理責任当局である在日アメリカ空軍との事務接渉も順調に進み、「自刃現場碑」の建立は三十四年三月二十五日に完成、四月三日午前十時から建碑除幕の祭典が遺族はじめ関係者百十八名参列のもとに厳修された。尚、この碑は米側の指示に依り墓碑でなく、記念碑として建立されたが、碑中には自刃直後塾及び地元町内会有志の手で現場から拾収して保存されてゐた「血染の砂」が<鎮めもの>として納められた。

 

 第九版追記
 右ワシントン・ハイツは、昭和三十九年秋開催の東京オリンピックの際、米軍より日本政府に返還され、東京オリンピック組織委員会の管理下に選手村となったが、オリンピック終了後、東京都に移管され、代々木公園となり現在に到ってゐる。

 続いて、「検屍立會醫 井上病院長の談話」を引用する。

  1. あれだけの大勢の人が、一度に同じ場所で割腹自刃したことは、先づ最近にはない事であった。毒薬を使用するとか、手榴弾によるとかはあっても、今回の如く純日本式に割腹自刃するなどと言ふ事はなかった。
  1. 法医学的に言へば、介錯人が左から斬ったのか右から斬ったのかを見るに一番大切な流血の方向が、雨の為に明らかでなかったことである。此の點残念に思ふ。
  1. もう一つ遺憾の點は、血の飛び方と首の落ちた位置が違ふ事である。落ちた首をなほした為に右から介錯したのか左からしたのか判らない。右からなら首は後方か左に落ち、左からだと後方か右に落ちる筈である。
  1. 吉野君は介錯して居らず、唯背中を突いたあとがあったが、之はおそらく東山さんがとどめを刺したものと思ふ。刀の幅と刺し口との幅が一致して居る事から推定される。これは左の背中を突いて居り、切先が腸にまで届いて居り、深さ約一尺にして、之が致命傷であった。
  1. 尚介錯人に就ては、野村同人と東山準同人の中どちらが誰を介錯したものか分り兼ねる。而して東山準同人は左手でのみ刀を使ったと思はれる。その根拠として東山準同人の使用せる刀のつかが左手の當る部分のみ白く、残りの部分が血に染って居る點である。
  1. 私(院長)は、午前五時半頃巡査から通知を受けて現場に行ったが、その時静かに眼をつむってゐた人は殆んどなかった。一度帰宅して後から行って見た時は、半数は瞑て居た。おそらく誰かが手で撫でてやった事と思ふ。
  1. 短刀を握ったままの人は、庄平先生、鬼山同人及び野村辰嗣さんであった。
  1. 疑問に思ふ點は、一同が同時にやったものかどうかである。傷の程度に軽重があり、心臓を突き即死して居る人を、二人介錯してゐる。二人で一人づつ介錯したものとすれば分るが、介錯の必要なき人々である。
  1. 首が全く切れて居た人が割合に多かった。
  1. 後に述べる介錯のやり方(刀のあてどころ)から考へられる事は、月が出てゐた夜ではあったが、雲足が早い夜だったから、明暗がはげしかった事と思ふ。やり難かったらうと思はれる。
  1. 介錯のやり方から見るに、庄平先生と東山さんは野村さんが介錯したのではあるまいか。
  1. 吉野君は、一時気を失って「介錯をたのむと言ったところ背中を突かれて又気を失った」と言ってゐた。此の刺傷は心臓を突き損って腸を突いて居る。おそらく東山さんが突いたのであらう。(切口と刀幅が仝じ)
  1. 全員同時とすれば鬼山さんが先づ最初に介錯されたものと思ふ。
  1. 庄平先生
     介錯の方向は高頸部(後頭部と首の境目)を斜前方に首全体の約三分の二位切り下げて居た。腹は臍上約一寸の所を横に二十糎。左から十五糎迄深さ〇・五糎。最後の五糎で深くなり、約一寸五分で腹膜に達して居た。刀は抜いてなかったが切腹と同時に介錯されたものと思ふ。
  1. 野崎欣一君
     臍下約五糎のところを、長さ二十糎、皮のみ。刀は第四、第五頸椎(首の中央)より入り首は落ちて居た。野崎さんの刀は見かけなかった。
  1. 津村満好君
     臍下約十五糎横に。皮のみ。暗くて分らなかった故と思ふが左の頸部を袈裟掛に切り、鎖骨で止って居る。左から介錯したのか、後からか、前からか不明である。
  1. 福本美代治君
     腹はやってゐない。左乳下四糎、即ち第五第六肋骨の間を、外から上方に一突きしてゐた。
     深さ十糎、巾二・五糎にして、刀の峯が外、即死だと思はれるが袈裟掛けに切り下され、鎖骨で止ってゐる。多分東山さんの介錯だらうと思ふ。
  1. 棚谷準同人
     臍上一直線に長さ十七糎、初めの八糎は腹膜に達してゐる。あとは浅くなって居る。介錯は第四頸椎をそのまま切って首は落ちて居た。右ひぢのところに刀傷あり。腹を切って介錯の合図をする為右手をあげたのではなからうか。挙げた拍子に傷を受けたものと思はれる。(外方から内方にむかって刀傷あり)
  1. 鬼山同人
     刀は第五、第六頸椎の間より入り首落。
  1. 牧野同人
     腹部に刀傷なし。心臓を完全に突いて居る。乳の下の骨の直ぐ下(第四、第五肋骨)を内上方に。深さ八糎、皮切口二・五糎位。第五脛骨を切って首頸部の皮一枚残る。正座のまま。
  1. 野村辰夫同人
     臍下長十五糎。深さは全部腹膜に達す。咽喉のコウジョウ線を中心にして横に八糎かき斬り気管を切って居る。次に左乳より少し右内側、乳の真下の骨の下の骨、内側から外側に向って突き幅三糎半、口の軟骨をつき抜き深さはよく知らぬが十糎以上はある。刀先は心臓に向ひ峯が下方。
  1. 東山準同人
     臍下約十七糎、深さは直腸筋に達す。(腹膜の手前)乳の内側、第四、第五肋骨を斜内上方に突く。峯が外を向いて深さ十糎以上。介錯は後頭部(第一、第二頸椎間)を斜前下方に半分迄斬り下げてゐた。姿勢はつつ伏してゐた。
  1. 藤原同人
     臍下約二糎のところ横に十五糎、皮のみ。それに並行してすぐ下に深さ〇・五糎、横十五糎、皮のみ。介錯は第二頸椎の骨を斬り、首落つ。
  1. 芦田準同人
     臍上約四糎のところを横に十五糎、皮のみ。右鎖骨上、胸鎖乳嘴筋の所から斜上に切り上げてゐる。長さ五糎、深さは胸鎖乳嘴筋の筋肉を斬った程度。頸動脈は切ってゐない。介錯は第二頸椎を切断し、舌根部迄(右からか左からか不明)。右手甲五糎切傷。皮膚のみ。故に左側から切り下したのであらう。
  1. 野村辰嗣君
     臍下約四糎のところを横に十五糎、深さ〇・五糎、即ち皮膚のみ。介錯は首の中央より少し下部、第五、第六頸椎間を斬って前咽喉部の皮を一枚残せしのみ。
  1. 村岡朝夫君
     臍上二糎、横十五糎、皮膚切傷深さ〇・五糎。介錯は第四頸椎を切断。首落つ。
  1. 吉野康夫君
     左傾部の胸鎖乳嘴筋を切断した程度。胸と鎖骨のすぐ上から切先が入る。長さ五糎、深さ二・五糎。左乳下第七肋骨より外方へ深さ約三糎。上へ突くべきところ横へ突いたので急所をはづれてゐた。左背中肩甲下部、第八肋骨の高さに刺傷を受けてゐた。幅二・五糎、深さ約十五糎。刀峯は背柱の側、後方より前下方へ刺してゐた。腸へ入って腸管を切断す(この場合は約十時間位は生きて居れる)この背中よりの刺傷が致命傷であった。

(註・右の中、牧野烈士に関し「腹部に刀傷なし」とあるが、同日夜復員帰塾した長谷川塾監が火葬場に於て全遺骸を検屍、特にその親友である牧野晴雄烈士の遺骸を詳細に検した際、明らかに腹部に割腹の刀傷を確認して居るので、右の談話は井上病院長の記憶違ひであらうと推察せられる)

 

 以上で、敗戦間もなく、起ったことの一端を想像してみてほしい。

 

  • 14烈士の碑、代々木公園
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(文責:編集部MAO)