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「セントラル社」が現在の新橋の旧兼坂ビルにあった

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.14
「セントラル社」が
現在の新橋の旧兼坂ビルにあった

 占領下にセントラル社(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジともセントラル・フィルム・エクスチェンジとも表記される)というアメリカ映画の配給会社があった。それは、1946年2月1日に設立され、51年12月27日に解体され、港区芝田村町2丁目15番地の兼坂ビル(現在は港区新橋2丁目5番5号の新橋2丁目MITビル、旧兼坂ビル)に所在していた。

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 私は新橋第一ホテルから新橋駅前のSL広場に向かった。そこから駅を離れて、通り一つ目の赤レンガ通りに出る。見上げると、うどんすきの名店「美々卯」のビルがあり、向かってその右隣りのビルが新橋2丁目MITビル、つまり旧兼坂ビルである。
 当時、そのビルの屋上には、映画会社各社のロゴがアメリカ映画輸出協会のマーク(MPEA)を囲んだネオンがきらびやかに光輝いていたそうだが、その面影はまったくない。
 セントラル社は、アメリカ映画を日本中に配給し、日本をアメリカナイゼ―ション化するために創設された会社であるが、その一端を、前回も紹介した『敗戦とハリウッド』(北村洋著)でひも解いてみよう。
「『セントラル・フィルム・エクスチェンジ』をつくる計画は、1945年の秋に着手された。戦争の終結とともに戦時情報局(OWI)が活動を停止すると、国務省はGHQ/SCAPとともに東京を拠点とする配給組織を確立する準備を始めた。その代表に選ばれたのはマイケル・M・ベルゲルだった。真珠湾攻撃後、戦時情報局の海外部に勤めたベルゲルは、日本語に堪能な上、戦前日本のアメリカ映画協会(AMPM)を指揮するなど日本の映画ビジネスに精通しており、適任と考えられた。11月初旬、ベルゲルは国務省の所属で来日し、旧知の同僚を集めて配給事務所の核となる人材を組織した。やがて、戦前にMGMの極東オフィスがあった東京の大阪ビルの8階に事務所を構えた。1946年2月20日に正式に運営許可を受けたセントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ(セントラル社)は、その1週間後、『春の序曲』と『キューリー夫人』の公開で業務を開始することになる」
 ただし、日本で戦後最初に公開されたのは、セントラル社によってではない。この点については、こう記されている。「1945年10月、日本映画貿易社はCIE(民間情報教育局)に戦前に入手した外国映画の上映許可を求めた。その2ヶ月後、『ユーコンの叫び』(1938年)というアラスカの厳しい自然を舞台にした恋愛映画が東京で公開された。肌寒い師走の午後にもかかわらず、ファンはこのRKO作品に群がった」という。
「その後、日本でセントラル社が立ち上ると、ベルゲルは朝鮮半島に渡り、そこでも『セントラル・フィルム・エクスチェンジ』を創設した。(朝鮮半島南部に設置された軍政庁の)軍政長官のジョン・ホッジとの度重なる交渉の末、ソウル市内にアメリカ映画の配給所を公衆情報局の一部として設立することとなった。ベルゲルの報告書によると、当時『38度線以南には合計96の劇場があり』、ビジネスは『非常に栄えていた』という。6月15日、任務を終えたベルゲルはアメリカに帰国し、ユニヴァーサルの極東部に配属された。東アジアにおけるベルゲルの活動は『すばらしい仕事』と絶賛され、こうしてハリウッドの戦後のビジネスの基礎が築かれた。セントラル社の舵は、この先ベルゲルの後任者、チャールズ・メイヤーが握ることになる」
「創設時のセントラル社は、GHQ/SCAPの一部として活動したが、ベルゲルがアメリカに帰国すると、やがて私企業として自立した活動を展開する。……この組織を司ったのはチャールズ・メイヤーであった。戦前は二〇世紀フォックス社の極東マネージャーであった彼は、戦争が勃発するとアメリカ軍の極東司令部に従事した。戦後、ハリウッドの代表となったメイヤーは、1946年6月16日にベルゲルの職務を引き継ぎ、セントラル社の代表として活動を開始する」
「そんなメイヤーは、まずGHQ/SCAPとの協力関係を維持すべく、『民主主義が機能する様』を『日本人に提供する』ことによって『占領軍に協力する』ことをモットーに掲げた。そのためCIEの図書館と文化活動を共催したり、商業用の長編映画と一緒にユナイテッド・ニュースの短編フィルムやCIE映画を多数上映した。その中でも、『営利なし』で行われた短編映画の上映は、CIE映画を延べ『一億人をゆうに超える』頭数に届けることができた、とメイヤーは1951年に述べている」
「また、コーポラティズムの関係維持のためにGHQ/SCAPと本国のアメリカ映画輸出協会(MPEA)の仲介を行った」
「同時に、メイヤーは経済的利潤を追求した。それは、『銀幕の第一義的な機能は、娯楽を与えて楽しませる事』というメイヤーの発言にも現われている。全国にビジネスを展開するにあたり、セントラル社は拠点を東京のオフィスから新橋の兼坂ビルという6階建ての建物に移し(いつからかということは確定しない)、支社を名古屋、大阪、福岡、札幌に設置した。業務は総務、宣伝、製作(翻訳・字幕を担当)経理といった部署に分割され、各部署はマネージャー(普段は外国人)が統率した。社員はそれぞれポスター作り、ブッキング、営業などといった具体的な仕事を任され、社員数はたちまち420人にまで膨れ上がった」
「セントラル社はまた、既存の組織や機関も利用した。例えば、特定の新聞記者や批評家のために随時試写が兼坂ビルで催され、スチル写真、プレスシート、先取り情報なども同時に供給された。また、出版社と提携して『アメリカ映画ウィークリー』(またの名を『MPEAウィークリー』)という宣伝紙を発行したり、『英日対訳シナリオ』を通して英語を学ぶための教材を提供した。後者は、もちろん当時人気の高まっていた英会話への関心にかこつけた試みである。また、ジャーナリスト、批評家、文化人らを通して映画の宣伝が繰り広げられた。こうした専門家たちから好意的な反応を引き出すため、メイヤーらは映画評の口調や内容に関して『意見』を例示し、『真の民主主義の実体』や『世界常識、知識』を観客にもたらすために的確に『鑑賞ポイント』を示した。セントラル社の意向に従わなかった批評家は、協力を断られ、試写室への立ち入りを禁じられることもあったという。ある時ヨーロッパ映画をアメリカ映画より高く評価した『キネマ旬報』に気分を害したメイヤーは、スチル写真の提供を拒否した。雑誌側は、この『馬鹿げた』行為に文句を言い続け、1年後ようやく写真の提供が再開された。
 さらに、メイヤーは『講師』を正社員として雇い、アメリカ映画の魅力を説かせるために全国各地に派遣した。東京には淀川長治や土屋太郎、札幌には『名演説』で知られた山田昴がいた。口の立つレクチャラーは、劇場、学校、大学、公民館、工場、体育館、病院、民家など、多くの場でハリウッドへの好奇心を煽った。講演内容は、『アメリカ映画の傾向』『アメリカ映画に就いて』『アメリカの女性と家庭生活』『アメリカの学校生活』などさまざまだった。メイヤーは、日本を発つ数ヶ月前に記した報告書の中で、セントラル社の講演者が全国の『もっとも人里離れた町や村』にまで出向いて講演を行ったと自慢げに述べている。最終的に、講演の数は9000にものぼり、出席者は300万人を下らなかったという。
 こうした講演活動は、より大きなイベントの一環として行われることが少なくなかった。セントラル社は、例えばスチル写真やポスターの展覧会を多数企画し、おかげで百貨店、飲食店、駅、会社、体育館、小さな商店などがハリウッドの映画文化の窓口に変貌した。夏や年末年始と比べて映画の興行成績が低迷しがちな春と秋には、各地で『アメリカ映画祭』が開かれ、パレード、商店街のディスプレイ、クイズ大会、アドバルーンなど、街がハリウッド一色となった。『ブロンディ号』というセントラル社の宣伝用バスも全国各地を訪れた。こうして多岐にわたる宣伝活動は、地元のメディアや企業とのタイアップによってさらに強化された」

 こうした活動を目にした、あるいは心を躍らせた経験をしたことがある人は、いるでしょうか。もう高齢につき、少なくなっていることだろうが、その体験を語り遺していただきたいものである。

新橋2丁目MITビル(旧兼坂ビル)
新橋2丁目MITビル(旧兼坂ビル)。
前を赤レンガ通りが走る。
旧兼坂ビルの左隣が「美々卯」ビル
旧兼坂ビルの左隣が「美々卯」ビル

 

(文責:編集部MAO)