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日比谷公園

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.10
日比谷公園

 放送会館にほど近く、徒歩ですぐのところに日比谷公園の幸門がある。公園も園内の施設も占領軍に順次接収され、公園全体は「ムーンライト・ガーデン」と名づけられた。その幸門を公園内に入ると、目の前は北側を日比谷公会堂、残りを市政会館とした建物である。市政会館は東京市政調査会のための活動拠点として、日比谷公会堂はコンサートなどを行う多目的ホールとして活用されていたが、1945年から51年までのGHQの接収によって、市政会館は、新聞・通信を検閲する機関に使われ、日比谷公会堂は、ヒビヤ・パブリック・ホールという名で敗戦の翌月からコンサートが開かれている。ただし、一般の日本人が使えるのは昼間のみであった。

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 その日比谷公会堂の前あたり(第二花壇の辺)の、かつての「運動場」はソフトボール場として造成され、1942年4月18日に日本を初空襲した部隊の指揮官の名前を冠して「ドゥリットル球場」と名づけられた。放送評論家の松尾洋一は、そこでソフトボールが行われたのを見たと毎日新聞の紙上で証言している。
 幸門をさらに霞門に近い日比谷野外音楽堂のほうに進んでいくと、「雲形池」があり、そこも接収されている。そこにあった「鶴の噴水」が外され、池は埋められ、ダンスホールになっていたという。現在は旧に復し、池にもどった鶴の噴水は水を噴きあげていて、来園者の心を和ませている。
 そこを左に見て、北の方に前進すると、公園の真ん中あたりに「松本楼」がある。ここは1903年に公園とともにオープン、23年の関東大震災で焼失、再建されたが、45年2月に海軍省の将校宿舎として使われ、敗戦後9月には米軍憲兵司令部の宿舎として接収されている。51年接収解除(公園は50年に解除)後、営業を再開したが、71年に沖縄返還運動で学生グループに投げられた火炎瓶で炎上、全焼する憂き目にあう。しかし、73年に再建され、今日に至っている。
 松本楼から祝田門の方に向うと、テニスコート裏側の三笠山付近に「自由の鐘」がひっそりと建っていて、毎日正午に鐘が鳴らされていると公園の管理職員の一人は教えてくれた。それは、アメリカの独立を表徴する、フィラデルフィアにある「自由の鐘」のレプリカである。それがGHQ総司令官マッカーサーの発案、そして第二代総司令官リッジウェイの手で、52年に日本新聞協会へ寄贈された。
 以上のように、日比谷公園にはGHQゆかりのものが点在している。

  • 鶴の噴水と雲形池
    鶴の噴水と雲形池
  • 松本楼
    松本楼
「自由の鐘」
「自由の鐘」
1907年発行の「東京案内」
1907年発行の「東京案内」より。地図中央に「松本楼」が出ている。
「鶴の噴水」はあるが、まだ日比谷公会堂はない。

 

(文責:編集部MAO)