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巣鴨プリズン跡(東池袋中央公園・サンシャインシティ)

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.6
巣鴨プリズン跡
(東池袋中央公園・サンシャインシティ)

hidden story

 極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年11月12日に宣告された。この時、「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」か、「インプリズンメント・フォー・ライフ(終身刑)」など有期刑かで、戦犯たちの運命が分けられ、前者のA級戦犯7名は、当時の皇太子殿下(今上天皇)の誕生日にあたる12月23日午前0時1分から35分にかけて処刑されている。このため、米軍は、「13階段の処刑台」を特設している。
 最盛期1800人から1900人いたなかで巣鴨プリズンで処刑されたのは、このA級戦犯7名と、BC級戦犯53名だという。その東条らの処刑の翌日、岸信介や笹川良一などのA級戦犯は釈放されている(同じA級戦犯でも正力松太郎は47年9月に釈放されている)。最後のA級戦犯は佐藤賢了で、彼が釈放されたのは56年3月である。とはいえ、巣鴨プリズンにはまだBC級戦犯が多数残っていた。最後に釈放されるのは、58年5月30日になってからで、その時、戦犯刑務所としての巣鴨プリズンは解散され、「巣鴨拘置所」に衣替えするのである。
 巣鴨プリズンの全期間を通じ、大きな事件は起こらなかったようだが、それでも在所者や刑務官の間で「巣鴨プリズン三大事件」と呼ばれているものがあった。その一つ、トレーラー事件を『看守が隠し撮っていた巣鴨プリズン未公開フィルム』(小学館文庫)から、紹介しよう。

 

 「米軍は日本占領後、旧陸軍の調布飛行場跡に水耕農場を設置した。兵士に供給する野菜を生産するためである。この水耕農場の作業にあたらされたのが巣鴨プリズンに収監されている戦犯たちだった。
 毎日トラックに乗って調布まで向かうわけだが、これが戦犯たちの密かな楽しみとなっていった。というのも、調布へ向かうまでの間は当然一般の道路を走ることになる。わずかながらもシャバの空気が吸えるうえ、沿道の人々は戦犯に同情的でトラックが通ると手を振って励ましてくれる。これが戦犯にとっては何よりの励みになったのだ。
 ところが、朝鮮戦争の勃発によってトラックが不足した米軍は、戦犯輸送用の車両を窓のないトレーラーに変更。戦犯たちの楽しみを奪ってしまったのだ。
『おれたちは畜生の類ではない!』
『窓のないトレーラーでの移動は非人道的』
 と怒るのも無理はない。
 最後には座り込んでのストライキで抗議するという事態にまで発展し、巣鴨プリズン唯一の反抗事件として記録されることになったが、戦犯たちがいかに調布行を楽しみにしていたかがわかろうというものだ。
 もっとも、この件に関しては米軍にも特に非はなく、当然のことながら窓なしトレーラーが変更されることはなかった」
 この広大な巣鴨プリズンの跡地は、サンシャイン60と東池袋中央公園となっている。処刑台のあった場所には、「永久平和を願って」と刻まれた大きな石碑が残っているが、この公園の北西隅にある。なお、この公園の入口(「東池袋中央公園」の目印あり)の境界には、巣鴨プリズンの境界を示すのに使われたと思われる三角の標柱が残っている。その裏側の下部のほうには、PRISMと白い浮彫で記されている。

  • 東池袋中央公園案内図
    東池袋中央公園案内図
  • 平和石碑
    平和石碑
  • 巣鴨プリズンの境界_三角の標柱
    今も残る巣鴨プリズンの境界を示す三角の標柱
  • PRISM
    刻まれた「PRISM」の文字

 この巣鴨プリズンについて、一言言い添えておけば、東京ローズの名で、よく知られたアオバ・イクコ・トグリもここに収監され、その後、アメリカに強制送還され、アメリカ・カリフォルニア州で裁判を受けている。
 彼女は、ラジオ・トウキョウ(NHKの国際短波放送)のプロパガンダ番組「ゼロアワー」の女性DJをしていて、太平洋で戦うアメリカ兵の人気を得ていた。彼女をモデルにしたハリウッド映画ができたほどであったという。そのため45年8月30日、厚木にマッカーサーとともにやってきた大勢の従軍記者たちが独占インタビューを狙っていた3人の日本人のうちの一人が東京ローズであったという。ちなみに3人とは、昭和天皇と東条英機と東京ローズであった。
 彼女はすぐに捜し当てられ、取材謝礼2000ドルの申し出を受ける。故郷のアメリカに帰国する費用にも窮していた彼女は、渡りに船と、話をすることを快諾、帝国ホテルで4時間以上もインタビューを受けている。それが2日後に、アメリカの新聞に「反逆者東京ローズ」と報じられるや、バッシングの世論が盛り上がることになった。また、インタビュー3日後にはGHQから呼び出され、第一生命ビルにラジオセットが用意され、DJを再現させられている。思いも寄らず、彼女はバッシング世論の影響で、巣鴨プリズンに収監され、FBIの取り調べを受けることになった。そして、1948年に裁判の被告人として強制送還され、アメリカに帰国している。

東京ローズ_アオバ・イクコ・トグリ

「反逆者東京ローズ」と報じられたアオバ・イクコ・トグリ

 それから1949年7月5日に、当時反日感情の強かったカリフォルニア州のサンフランシスコ連邦裁判所で、国家反逆罪で裁判を受けることになった。陪審員12人全員が白人で、世論が望んだとおりに、9月29日、有罪は決定する。禁錮10年、罰金1万ドル、アメリカ市民権剥奪であった。自分の声を聞けば、アメリカにいる両親は彼女の無事をわかってくれるだろうと願い、プロパガンダに協力しただけの彼女の名誉が回復されたのは、それから27年後の1977年1月19日のことであった。フォード大統領の特赦によって、アメリカ国籍を回復したのである。

(文責:編集部MAO)