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PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.2
平和島の平和観音

大森捕虜収容所では高官らは、わずかでも時間があると将棋盤などとにらみあっている。
モノをしたためているかあるいは読書、瞑想などに時間を費やし、
静かな独居生活を送っていた。
それら収容所での東条の様子を占領期の一断面として紹介していきます。

hidden story

 

 横浜の大鳥国民学校内に開設されていた米第九十八野戦病院第三十号室で治療を受けていた東条英機は、その後、米第四十三陸軍野戦病院に、さらに10月7日には大森捕虜収容所に移送された。
 そこにいたのが、東条と同じ9月11日に捕虜虐待の容疑でC級戦犯として逮捕され、横浜刑務所を経て、かつて監視委員として働いていた大森捕虜収容所に移送されていた飛田時雄である。彼の移送の2日後に東条が大森にやってきたというわけである。
 飛田時雄著『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』(草思社刊)では、この後、12月7日と8日(真珠湾攻撃のアメリカ時間と日本時間ということだろう)に東条らA級戦犯らと一緒になって巣鴨プリズンに移されており、大森ばかりでなく、巣鴨プリズンの東条の様子を活写している。
「彼(東条)が入所した翌日、掃除担当の責任者である徳田大尉から東条の小部屋の清掃が伝えられたから、私は身震いしてしまった。
 清掃は朝食後の九時ごろより始める。朝食をすませば高官らは小部屋に戻る。小部屋には二人ずつ入室していた。ついでに横浜刑務所から移送直後の小部屋の入室者を挙げると、一号室には嶋田繁太郎と寺島健、二号棟には本間雅春と土肥原賢二、三号棟には黒田重徳と橋本欣五郎、四号棟には鈴木欣二と上田良武、六号棟には東条英機のみ、七号棟には鏑木正隆と沢田茂、八号棟には安倍源基と賀屋興宣、となっている。
 これら高官たちの小部屋を毎日清掃してまわったから、私は彼らの生活の一端を垣間見ることができた。高官らは一般に将棋、マージャン、囲碁など勝負事が好きだった。わずかでも時間があると将棋盤などとにらみあっている。ところが東条だけは違った。同居人がいなかったせいもあるが、用件がないかぎり部屋に一人端座し、モノをしたためているかあるいは読書、瞑想などに時間を費やし、静かな独居生活を送っていた。むろん彼には役割分担もなかった。
 また、私が清掃に訪れると、終わるまで小部屋の外で待ち、終わると、『ありがとう。ご苦労さま』と必ず礼を言ってくれた。清掃をしてもらうのは当たり前と思っている高官が少なくないなかで、この点でも東条は違った。このように東条と身近に接するにつれ、私の気持ちは少しずつ変わってきた。
 それがさらに変わるきっかけになったのは、東条の入浴の介添えをするようになったことである。
 浴室は中央通り右側、北のはずれにあった。浴槽は畳二畳分もある大型だった。入浴は週に二回。入浴がある日は担当の長内軍属が腕まくりして朝から風呂焚きにとりかかる。なにぶん一度に十人もは入れる大浴場。適温になるまでには大量の燃料と時間がかかる。入浴となると日頃の緊張感から解放され、身も心もリラックスする。そのせいか、気難しい高官ですら軽口を叩き、おしゃべりになる。
 私は同室の三浦と一緒に入浴していた。手拭いは自前だが、石鹸は浴室に備えてある。洗い場で体を流しているときだった。脱衣場のほうから『飛田君、ちょっと』と呼ぶ声がした。振り返ると、嶋田が手招きしている。私は手拭いを腰に巻き、脱衣場に行った。
『きみぃ、すまんが、東条閣下を風呂に入れてやってくれんかね』
 なにかと思えば嶋田は、入浴する東条の介添えを依頼してきたのだ。とっさのことでもあり、私は当惑した。けれど拒否するわけにもいかない。私は浴室にいる三浦に目配せした。東条は自分で衣服を脱ごうとして脇で支える嶋田から体を離した。だがとたんに体をよろめかせ、危うくつんのめるところだった。寸前のところで私と三浦で抱きとめ、衣服を脱ぎとった。
 嶋田からは、浴槽に入れなくてもよい、洗い場で体を流してくれるだけでよいとの指示だったから、私は三浦とともに脇から抱えるようにして慎重に東条を浴室に連れていった。このときも東条はいたく恐縮し、『あぁ、すまんすまん』と繰り返すばかりだった。
東条が浴室に入るなり、入浴中の高官たちはいっせいに立ち上がり、東条の身を案じるように、『いかがですか、閣下』と声をかけてくる。
東条は、『いやぁ、おかげでいいようです』と答えるものの、憔悴した姿はいかんとも隠しようがなかった。
口髭はたくわえているが、頭髪はすっかり薄く、細く、痩せ衰えた体からは陸軍大将の権威などすっかり消え失せ、すでに還暦も過ぎたただの爺さんにすぎなかった。この印象をさらに深くさせたのは、東条の背中を流そうとしたとき、脱衣場に待機していた嶋田があわてて制止したときだ。
私は自分の手拭いに石鹸を泡立て、東条の皺でたるんだ腋の下や背中を洗おうとした。そのとき嶋田が飛んできて、
『飛田君、そこんとこは洗わんでいい』
と強く制止した。じつは東条の背中には二銭銅貨、いまなら五百玉ほどの大きさの、あずき色したかさぶたがジクジクした状態で残っており、わずかでも触れれば血がにじんできそうだった。それはまさしく拳銃で自決をはかったときの銃痕だった。
まだ完治していない銃痕を、私はしっかりと見た。いかにも痛々しそうだった。それだけ私はこう思わずにおれなかった。傷口を他人に見せることは、往生できなかった無残な姿をさらけ出すことにほかならない。それを知らないはずもないのに東条は、どんな気持ちで私に背中を流させていたのだろうか、と。もっとも一方では、憎悪を抱かずにおれなかったのも偽らざる気持ちだった。
『ええぃ、このくそじじぃめっ……つまらん戦争なんかおっぱじめやがって。オレがこんな目に遭ってんのは、みんなあんたのせいだ、くそったれめ』
 だから腹のなかでは思いっきり悪態をついていた。けれどその憎悪も、東条の入浴係になったのを契機に、風呂に入る回数がかさなるにつれてしだいに氷解するから妙なものだ」
 こうした大森の日々は、A級戦犯と一緒にC級戦犯らも一緒に、一二月七日と八日(真珠湾攻撃のアメリカ時間と日本時間にあてたということだろう)の巣鴨プリズンへの移送で終わる。
 なお、この大森捕虜収容所の跡地には、今は平和観音が立っている。東京・品川駅から京急に乗り換え、「平和島駅」で国道の第一京浜側に降りて、北に向かい、大森神社前を過ぎ、「平和島口」の信号を右、つまり海側の平和島へと歩いて数分のところである。信号から、右手の平和島公園の緑の森を見ながら行くと、すぐに左手、二、三分のところにボートレース平和島の入口があって、その右側には平和島競艇劇場入口があり、その前に平和観音と、その由来記があるのだ。かつてのことより、ボートレースの結果が気になる人たちで賑わう場所になってしまっていることに、時のながれを感じたものだ。

(文責:編集部MAO)

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    大森捕虜収容所 跡地「平和観音」
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    平和観音由来記・看板