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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第15回
「太宰治と田中英光」

 今回も中薗英助著『私本GHQ占領秘史』の「ヒロポンの夢」を引用します。

 

――太宰治が、玉川上水で愛人山崎富栄とともに入水自殺を遂げたのは、一九四八年、昭和二十三年六月十三日だった。
 いまから考えると、四十歳というビックリするような若さだった。そういえば、情死というのは、ちかごろまったく聴くこともない言葉だったな、と思う。
 ぼくは吉祥寺に住んでいたから、玉川上水はすぐ近くだった。井の頭公園通りから万助橋あたりまで歩いて、恐いような流速でトウトウと流れる上水を一瞥して頭をたれ、瞑目したことをおぼえている。ショックだったのだ。
 しばらく前、スト記者になる前にインタビューしたばかりだった。新聞文化蘭の原稿を依頼しに行ったのかもしれない。日時、目的ともに記憶がないけれど、太宰の印象だけは強烈に残っている。
 国電三鷹駅で下車してかなり歩き、松林の中の一軒家を探し当てたことも覚えている。一体、あれはどういう家だったのか、和服の太宰は家財道具などまるでないようなタタミの間にあぐらをかいていた。頭に手をやって上体をそらせながら、何かポツリポツリとしゃべってくれた。
「新潮」にのった『如是我聞』を読んだばかりだったが、志賀直哉批判のひねった鋭い筆致からは意外と思われるような含羞の人だった。なぜか文学者とは、おのれの胸内の千々に乱れる思いだけで生きているのだなあと腑に落ちるものがあった。仕事の用は足せなかったが、会えたことで満足して帰ったようだ。話を聴いている間にも、ほかの来客があった。ファンか弟子を名乗る人だったようだ。
 ぼくは、ただそれ一回きりだった。ひたすら食うために働いている三流新聞(クォリティ・ペーパーの誇りもすでに失せて)の記者とは、まるで別世界の貴公子というヒガミがあったのかもしれない。太宰の後追い自殺をした田中英光のほうが、ぼくには身近に感じられていた。
 田中英光が自殺したのは、翌昭和二十四年十一月三日のことだ。これも驚くような若さ、三十七歳だった。オリンピックのボート選手を主人公にした青春小説『オリンポスの果実』の作家が、ヒロポン中毒にかかって書きまくっているというウワサは早くから聴いていたし、新宿駅前の屋台で大男の彼を見かけたこともあった。
 小説の多くは戦後の荒廃を映したような風俗小説だが、そこへ行く前に政治活動をしていたころの作品群があった。共産党に飛びこんで組織活動をしていたときの、いわば党内小説である。戦後におけるこの種小説のハシリであった。
 いま手もとにないのでウロおぼえだが、「地下室から」や「野狐」などがそうだったか。あのころ健康で純粋で知的好奇心があって、戦後の社会を何とかしなくちゃならないと考える青年たちにとって、非転向の指導者をもつ前衛集団はたしかに魅力であった。田中英光のような行動する作家が党活動に飛びこんだとして不思議はない。織田作之助や坂口安吾とはちがったルートから「無頼派」へ入ってゆくのだ。
 田中はたちまちあちこちでぶつかってしまう。しょせん、筋金入りからすればプチブルなのだ。ぼくはその種作品に共感を抱きながらも、まだ傷つきやすい青年が俗世間と衝突するという文脈でしか理解していなかったようだ。党が崇高な理想に生きる成人君子の集まりなどではなくて、ドロドロした権力と我執にまみれた、ごくふつうの人間の集まりだということにほんとうに気づいたのは、ずっとずっと後になってからだった。
「ひでぇコミュニストもいたもんだ!」
「ミワカ党員ばかりだからな」
 当時は、シンパを以て任じている記者仲間と、田中英光論をやったときにこんな話をかわしただけだった。あるはずのないよそ事のように。

 

 ヒロポン中毒はむしろ、流行作家のトレード・マークのようなものだった。大量の仕事をこなす人気作家は、みなやっていた。
 戦後、勇名をとどろかせることになったヒロポンは、広辞苑をくって見ると、ちゃんと三行分書かれている。
 ベンツェドリンの商標名。化学的にはフェニールイソプロピルアミン。覚醒剤の一種。連用によって中毒。
 戦時中、特攻機乗りの乗員に使わせたのが、戦後芸能人なんかに愛用されるようになった。どんなに疲れて眠くなるようなときでも、目は、パッチリ、頭は冴えわたって仕事ができるというわけだ。
 原稿のシメ切りに追いまくられ、徹夜徹夜で書かなきゃならないような流行作家にとっての福音だった。或るカストリ雑誌の編集者と新橋の烏森口の喫茶店であったとき、すすめられたことがある。
「ナカゾノさん、ひとつやって見ませんかね」
 うす暗い片隅で、彼はポケットからチラと注射器入りの金属ケースをのぞかせたものである。
「ぼ、ぼくは、流行作家じゃないから、そんなもん必要ないよ」
 おぞけをふるって、ぼくは断わった。
(中略)

 

 太宰の玉川入水でショックをうけた同じ昭和二十三(四八)年六月の二十八日、福井大地震が起こった。二人の情死に対して、こちらの方は三千七百六十九人という驚くべき大量死であった。
 九万一千三百四十四人の死者を出した関東大震災以来の惨事である。台風による風水害と同様、戦争で痛めつけられ崩壊寸前となった都市の弱さをもろに露呈した。国破れて山河ありだが、その山河もまた、破れたのである。――

 以上、1948年6月の頃、作家・中薗英助が抱いた雑感である。