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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第7回
「賀川豊彦」

 今は記憶している人も少なくなったが、敗戦後の賀川豊彦は、戦勝国のアメリカ人からもよく知られた社会事業家であった。
 彼の『死線を越えて』は、2009年にもPHP研究所から復刻版として刊行されている。その書の著者紹介には、こうある。
賀川豊彦(かがわとよひこ・1888~1960年)
徳島中学、明治学院を経て神戸神学校卒。神戸の貧民街に住みつつ伝道と救貧活動を展開。プリンストン大学などで勉学ののち、労働運動、農民運動、普選運動など社会改革運動の先駆者として活躍した。1921年、大阪で購買組合共益社を、翌年には神戸消費組合および灘購買組合(合併により、コープこうべ)を設立、戦後には日本生活協同組合連合会の初代会長となる。世界連邦運動の開拓者的リーダーとして平和運動でも活躍した。
 『一粒の麦』など多くの著書は、『賀川豊彦全集』全24巻に収められている。」

 

 その彼について、マーク・ゲインの「ニッポン日記」は、手きびしい。その1946年1月22日の項には、以下のように記録されている。
 「軍で発行している『スターズ・アンド・ストライプス』紙の編集幹部四人との昼食はたいへん有益だった。彼らは軍の検閲でおさえられた記事の話を山ほどしてくれた。その削除のやり方は、軍の首脳部が米国市民から成っているわが軍隊に、日本のある点については知らせまいとする奇妙な考え方をよく説明するものだった。
 検閲官は、天皇や現閣僚や現官僚や外務省のこすからい公式代弁機関『ニッポン・タイムズ』などが戦争中果たした役割についての事項は削除する。代表的な削除事項の例。幣原首相が国家主義者の団体に属していたこと。その閣僚の一人がある全体主義的な政党に属していたこと。英字紙『ニッポン・タイムズ』はかつて「盟主日本帝国を理解かつ認識するに必要かくべからざる新聞」と宣伝したことなどである。
 戦時中の扇動家(プロパガンジスト)たちが現在日本の教育制度を「民主化」しつつあるという記事も削除された。とくに検閲官は、『帝国臣民訓練の基礎』という本の著者、東条の友人で、『戦陣訓』を書いた男、ベニト・ムッソリーニから勲章をもらい、後に日本に派遣されたファシスト教育使節団の接伴委員をつとめた一教授などのことについて言及することを禁じた。
 最後に、クリスチャンで社会事業家として知られている賀川豊彦なる男についての批評がましい記事は一切禁じられている。

 

 賀川は、今のところ政界の星座では重要な星である。前の月すなわち昨年の十二月には、総司令部の幹部の多くが彼を総理大臣の最適任者と見ていたことは周知の事実である。ところが賀川の進路は、『スターズ・アンド・ストライプス』紙が彼の戦時中の経歴を掲載したので一時遮られた形になった。
 私は、そしておそらく何百万人のアメリカ人も同様だろうが、最近まで賀川の非利己的な努力を高く評価していた。今から五十八年前、富裕な家に生れ、プリンストン大学に学んだ彼は、他のどんな行路でも選ぶことができたろう。それにもかかわらず彼は貧民窟の真た只中に身を投じ、世界でも有数の社会事業家の一人となった。彼がアメリカへ講演旅行に来たときは、大変な聴衆が集まったものだ。
 私はけさ始めて賀川に逢った。約二時間ばかり話したのだが、ほかのことはともかくとして、彼の抜け目のなさだけには感心した。肉体的には彼は恵まれていない、――小柄な、まるで鳥みたいな老人で、シワクチャの洋服を着ていた。しかし彼の頭脳は鋭く、最近の経歴に対する私の質問をたくみにかつ敏捷にはぐらかした。
 彼は、富の統制、土地の再分配、封建制度の絶滅をあくまで支持するといった。封建制度には反対だが、賀川は天皇制には賛成だった。彼は語調を強めて言った。
「われわれは天皇を必要とする。最近五人もの総理大臣が暗殺された。政党はお互い同士泥試合をやりつづけている。われわれには裁決者が必要だ。今上天皇は悲劇の人だ。私は天皇に同情する。戦争の責任は国民と国会にある。天皇には責任はない」
「平和」という言葉は賀川の楯だった。一九四〇年には「平和運動に携わったかど」で三週間禁錮されたと彼は言った。また一九四一年にアメリカを訪問し、帰国後、国会でルーズヴェルト大統領は平和主義の人だと演説したとも言った。
 賀川は一九四五年にアメリカを攻撃したのだ。アメリカの放送局が、私は敗戦後の内閣総理大臣になるだろうと放送した。そして私のクリスチャンとしての影響力を破壊し去ろうとしたからだ」
 マックアーサー元帥については、
「元帥は驚くべき偉業をなしとげた。保守派も今では元帥の意図を賞讃している」
と非常な好意を示した。
 彼の収入の源泉についての質問に対しては、
「私は小説を書くために毎朝三時に起きる。今、三つの新聞と雑誌に小説を連載している。どれもキリスト教を主題にしたものだ。また、私の教会の長老の一人が電気会社の社長をしているが、私はその会社のクリストグラフィの顧問をしている。」彼はクリストグラフィという綴りを私に書いて見せてくれた。「クリストグラフィというのは水晶に関する科学で、数学的クリストグラフィは私の道楽だ」
 が、これだけではこの男の全貌は明らかではない。彼の話の一部はいろいろな点で事実と合致しない。多くの事実に関しては、彼は口を緘した。他の多くの自由主義者たちと同様、彼も国家主義のヒステリイのとりこになったのだったろうか。抵抗できないほど圧迫が激しかったのだろうか。キリスト教の教義のあるものを進んで犠牲にしたほど、彼はキリスト教の指導者としての自分の立場を守るのに汲々としたのだったのだろうか。
 もしこれらの動機に関する質問には解答が与えられないとしても、動機以外の点については、すべて歴然たる記録がある。
 アメリカから帰国して、賀川は一九四一年十月四日国会の外務委員会で演説した。この演説の内容は国会の速記録から削除されている。が、彼は「米合衆国における世論の分裂」について演説をしたと記されている。この演説はある雑誌に再録されているが、賀川はルーズヴェルト大統領を平和主義者だとは言っていない。気休めのお題目はアメリカの孤立主義の勢力である。彼はその勢力として、「前衛(ヴァンガーズ)」と称するもの、「コパー・ヘッド・クラブ」(賀川によると、二九〇〇名におよぶアメリカの商業航空操縦士の九〇パーセントを会員とするクラブ)それからチャールズ・リンドバーグ、バートン・ホイーラー、ハーバート・フーヴァーなどの孤立主義者を数えたてている。次の一節はとくに目立つ。
「アメリカの戦争提唱者の大部分はユダヤ人だ。今までユダヤ人をけっして差別待遇しなかった人たちでさえ、今ではユダヤ人の行動にはおこっている。――一九三六年の大統領候補(アルフ)ランドン氏が私にこの話をしてくれたのだが、そのとき私も同じ憤りを感じた。それまで私は、ユダヤ人に対してはいつも能う限り同情的であったつもりだが、このランドン氏の話をきいてからは、ランドン氏と同じような不快な感情を持たざるをえなくなった。確かにユダヤ人たちは行き過ぎている」
 私はランドン氏が日本からの旅行者に対して、こんなことをしゃべったかどうかはなはだ疑問に思う。
 これが賀川の宣伝家(プロパガンジスト)としての経歴の始まりである。一九四二年に米国の放送傍受係(モニター)が傍受した放送では、賀川はこう語っている。
「私は今日のアメリカを真白き墓石と考える。全知全能の神が、彼の世界支配のあくなき野望を許したもうとは信じられない。おお、神の御名をかかる殺戮によって、汚しまつったアメリカに呪いあれ」
 一九四四年には、東京放送が賀川が説教のときにこう言ったと引用した。
 「バビロンは亡び、ローマは亡びた。かくてアメリカもその利己主義のために滅亡に瀕しつつある――アメリカの子供たちは戦死した日本の将兵や兵隊の骨をおもちゃにしている。ルーズヴェルト大統領は日本の兵隊の骨でつくったペーパーナイフを自慢している」
 一九四五年の五月、つまり日本の降伏の十週間前には賀川は、サンフランシスコ会議は、「アメリカの世界支配へのあくなき野望を示すものだ」と言ったと同じく引用されている。
 賀川の戦争協力の事実はまだある。彼の仲間のクリスチャンの一日本人の証言によれば、彼は抗日を止めさせようとして中国に渡ったことがある。彼は軍歌をつくった。名うてのゴロツキや軍の代弁者と一緒に彼は、東久邇内閣の最高顧問となり、そのゴロツキと一緒に「和平会談」を主宰した。
 しかし、賀川に関する私の調査記録の中でいちばん興味のあるのは、馬島僩という男の宣誓口供書である。
 「私とドクター賀川とは二十五年以上の交友である。開戦のしばらく前のことだったが、私は彼にはなはだしい幻滅の悲哀を感じた。私が彼に軍国主義者どもがアメリカとの戦争へ突入しようとしていると言ったら、驚いたことには彼は『開戦の暁は私は戦争を支持する』といった。私が反対すると、私のことを卑怯者だと罵った。開戦後一年ほどのある日、賀川は日本はたいへん強くて勝利への道を突進している、われわれは勝利のためにあらゆる協力をしなければならないと言った。そのとき以来私たちはお互いに疎遠になり、一九四五年の四月まで相逢う機会はなかった。……そのころ私の病院は焼けてしまい、私は賀川に、われわれは敗れた、私たち社会事業に志す者は戦争を止めなければならないと国民によびかけるべきだ、と話した。有力な指導者としての賀川こそ戦争反対の叫びをあげることができ、またそうしなければならぬと説いた。二人は激しく言い争った。賀川は、われわれは戦いつづけなければ「ならない、よし竹槍で戦うにしても、と言った」
 この宣誓口供書はアメリカ側立会いの下に署名され、馬島の署名する場面は写真にもとられている。他の暴露的な口供をした人々も同様であった。
 推察するのだが、賀川に関する証拠は彼を総理大臣官邸にかつぎこもうと望んだ総司令部の首脳将校たちももとよりこれを利用することができたのである。いったい何が彼らにこれらの記録を無視させたのだろう? そしてまた、GIたちに賀川の経歴に関する知識を与えることを禁ずるよう軍検閲官に命じた理由はいったい何なのだろう。

 

 このように、戦前・戦中の言動が戦後に厳しく問われるのは、世間に影響力のあった人は当然であろう。