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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第6回
「西條八十」

 筒井清忠著『西條八十』は、「戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝」と謳っている。その「第十一章 『民主化日本』と八十」から引用してみよう。

 ――戦後、最初にコロムビアから八十に来た作詞の依頼は『敗戦で呆然自失している国民を、明るく励ます小唄をお願いしたい』というものであった。そこでできたのが十二月発表の『ワカランソング』であった。(中略)
 この歌の第四聯は
  銀座ウヨウヨ 有閑娘
  焼けた柳が 焼けた柳が にが笑ひ
  馬鹿な戦争で ワカランワカラン
 というものだが、第四聯がこのようになったのには経緯があった。

 「ペンを執る時、もうくだらないレコード検閲は無くなったから、大丈夫と思って安心していた。ところが、今度はGHQがクレームをつけて来たので面喰った。『銀座ウヨウヨ GIガール』が不可になったので『唐人お吉』と訂正したよ」というのである。しかし、吹込直前に「お吉」も不可となり「有閑娘」でGHQの許可がおり、右のようになったのである。しかし、これでは折角の諷刺も生かされないものになってしまった。この歌はそのせいもあるのかあまり歌われなかったようである。ともあれ、自由に歌が作れる時代が来たかと思ったところ、新しい検閲が始まったのであった。
 二一年になって八十の戦後最初のヒット曲『麗人の歌』が出た。柳原白蓮を主人公にした同名の映画の主題歌であった。……(以下略)

 

 その後、『悲しき竹笛』『旅役者の唄』、昭和二一年四月の銀座の『復興まつり』のために書かれた『花さく銀座』、『三百六十五夜』など、八十は次々に作詞していくが、「二四年三月、東宝映画『青い山脈』の同名主題歌が発表されたのである」。
 ――昭和二三年の秋に、作曲者の服部良一は、八十の歌詞を受け取った(八十の脱稿は一〇月三〇日)。その頃、服部は大阪梅田劇場の笠置シヅ子ショーと、京都の大映撮影所の狸物のミュージカル映画の音楽監督をかけもちでしていた。
 『青い山脈』の主題歌の完成をせかされながらできない中、梅田から国鉄に乗って京都に向かう途中、「日本晴れのはるか彼方に、くっきろと稜線を描く六甲山脈の連峰を車窓越しにながめているうちに、にわかに曲想がわいてきた。」
 買出しや闇屋らしき人で満員の電車の中で五線紙をとり出し書くことはできない。しかし、このままでは浮かんだメロディーが消えてしまうおそれがある。服部は急いでポケットから手帳を取り出して鉛筆で、流れ出る旋律をハーモニカの略符数字で書きとめていった。6032、3343、……。
 周りの人たちには、闇屋が商売の計算をしているように見えたであろう。「隣のオッサンや前のアンチャン」が数字を見ながら「仲間顔で意味ありげな笑いを浮かべてい」た。「電車が京都駅へ静かにすべりこんだころは最後の一節をめでたく書きおえていた。」
 この曲は次のような服部の明確な発想の転換に基づいて作られていた。(昭和二五年『週刊朝日』誌上の徳川無声との対談で、服部は言う。)「日本の島国的な淡いセンチメンタリズムにあきたらなくなって、終戦後、方向をかえたんです。ことに最近は、明るいもので流行するんなら、そのほうがよっぽど日本のためになるんじゃないかということを、まともに考え出してきましてね」。
 この年早稲田大学を卒業して芸能マスコミ界に入ったばかりの齋藤茂(のち『平凡』の編集長)は、渋谷の映画館で封切の日にこの映画を見た。
「主演スター全員が青空の下のサイクリングロードを自転車で走るラストシーンに、藤山一郎と美人歌手、奈良光枝8いずれも故人」が歌う主題歌が軽快に流れた。」「このラストシーンでは観客が口々にスクリーンに合わせてこの歌を歌い出し、三番のあたりでは、場内をとどろかす大合唱となった」。
 神戸では後の名作詞家が封切日にこの映画を見ていた。作詞家阿久悠の回想。
「昭和二十四年七月十九日、映画『青い山脈』の封切り日に、ぼくは、淡路島から神戸まで、たった一人で見に行った。十二歳の冒険であり、記念日でもあった。」
「ぼくが青い山脈に感じたのは、明るさと新しさであった。」「〽古い上衣よさようなら さみしい夢よさようなら……というのは二番の歌詞であるが、一番の、〽若くあかるい歌声に 雪崩は消える花も咲く……というおなじみの部分よりずっと好きであった。さらに、三番の、雨にぬれてる焼けあとの 名も無い花もふり仰ぐ……にも心ひかれ、これが民主主義に違いないと思ったものである。」(中略)

 ……地方都市の因習を若い世代が打破していくという映画の主題からして、歌詞の中でいささか奇妙なのは第四聯の「父も夢みた 母も見た」である。この点について橋本治(は次のように言う)。
 ……軍国主義の「雪崩」が消えて「青い山脈」という新しい希望が姿を現わしたのだが、それは「なつかしさ 見れば涙が またにじむ」ようなものである。なぜそれが懐かしいのかというと「父も夢みた 母も見た」ものだからだ。……結局橋本は、生徒たちをかばう原節子の女教師の「勇気」に「父も夢みた母も見た」ものを求めている。……

 旧世代の人々にとっても、自由や民主主義の理想というものは決して全く新しいものではなく、彼らにとっても大正時代から昭和初期にかけては、日本はその道に進んでいたはずなのである。八十にも大いにその自負があったものと思う。ポツダム宣言にも、「二本における民主主義的傾向の復活・強化」とある。対外関係からやむをえず戦争に走ってしまったが、日本はそうした方向を一旦は歩み始めていた。従って、再び登場した自由と民主主義は、「父も夢みた 母も見た」ものなのだということを若い世代の人にも認識してもらいたい。こうした感情がこの歌詞にこもっていると考えた方が整合的であろう。
 こうした、親の世代の理想を若い世代も追っていくという主旨の歌詞が入っていることもあり、この歌はたんに当時「新しい」ばかりでなく、時代を超えた普遍性を獲得することができたように思われるのである。
 この歌は一九八〇年にTBSテレビが行なった「日本人の好む歌ベスト一〇〇〇」調査で第一位となった。支持率は五〇・九五%は唯一過半数を超え、二位の『くちなしの花』の四三・三八%を七・五七ポイント引きはなしていた。その一〇年後の八九年のNHKの「昭和の歌・心に残るベスト二〇〇」でも一位は『青い山脈』であった。

 

 また、映像も見ておこう。BS朝日「昭和の偉人―作詞家・詩人 西条八十」である。

 以上から、われわれが、いかに西條八十に癒されてきたかがわかろう。それに、いかに日本語の豊かさを学ばせてもらったか、を。