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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第5回
「昭和天皇の敗戦観」

 1946年2月に宮内省内記部長、46年5月に侍従次長になった稲田周一の備忘録から、昭和天皇の敗戦観がうかがえる。
 その1946年の「八月十四日(水)」は、以下のように綴られている。

「吉田首相拝謁。午後、広幡侯来訪。
 明日は終戦記念日だ。其の前の晩なので、陛下御主催の座談会が行われた。午後七時より花蔭亭に於て賜茶。首相、蔵相、内相、農相、商相、厚相、幣原国務相、膳国務相、鈴木貫太郎大将、石渡前宮相、広幡前大夫(ママ)、東久邇宮稔彦王殿下を召された。私は末席で、鈴木庶務課長と共に控えてゐた。定刻、天皇陛下御出席。御自分で開会の辞を述べられた。其の趣旨は左のようなものであった。

 戦争に負けたのはまことに申訳ない。しかし、日本が負けたのは今度丈ではない。昔、朝鮮に兵を出して白村江の一戦で一敗地に塗(まみ)れたので、半島から兵をひいた。そこで色々改新が行われた。之が日本の文化の発展に大きな転機となった。このことを考えると、此の際日本の進むべき道も自らわかると思う。

と、お諭しになった。
大いに感銘を受けた。」

 白村江の戦いとは、663年10月(天智2年8月)、朝鮮半島の白村江(はくそんこう、とも、はくすきのえ、とも読む。現在の錦江河口付近)で行われた戦いのこと。660年に滅んだ百済遺民を救援するために倭国と百済遺民の連合軍は、唐・新羅の連合軍と戦い、敗北した。救援に向かった倭の斉明天皇は筑紫の朝倉宮で661年に亡くなったため、皇太子の中大兄皇子が指揮を執って戦ったが、敗北、その後、改革を進め、668年に天智天皇として即位する。

 この戦後処理として、「大唐は郭務悰ら2000余人らを遣わしてきた」、つまり2000名が北九州に駐留したという記事が『日本書紀』に出てきているという。今でいえば、マッカーサーということか。

 白村江については、『白村江 古代東アジアの大戦の謎』(遠山美都男著、講談社現代新書)などを参考していただきたい。

 また、映像では、「その時歴史が動いた そして日本が生まれた~白村江、古代最大の対外戦争」を参考に見てください。

 ともかく、白村江の敗北後、律令国家づくりが進められ、日本はのち近代国家にまで歩んできたのである。昭和天皇も、白村江の戦いの敗北を「日本の文化の発展に大きな転機」となったと述べている。つまり、1945年の敗戦を新しい国家づくりへの転機にしてほしいと望まれたのである。昭和天皇の視野は、古代にも及び、敗戦を白村江から2度目であると考え、その後の歴史を考えれば、日本はきっと復興するし、しなければならないと励ましたのである。