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PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.1
東条英機邸跡

東条大将は果して始めから自決する心算でいたのか、または連合軍の法廷に立って
自分の所信を告げるまで生き永らえようと決意していたものを突然の事情で
枉げて自決を図ったものか、「東条英機邸跡」の写真を通して、
その背景にある物語を占領期の一断面として紹介していきます。

hidden story

 

 渋谷から玉川通りを横浜方面に向かい、用賀一丁目交差点の一本手前の道を左に入ると、立正佼成会世田谷教会で、そこの生け垣に「東条英機邸跡」の碑がある。
 1945年9月11日、午後4時17分頃、東条英機は拳銃自殺を図るが失敗し、その後、A級戦犯として東京裁判で「デス・バイ・ハンギング」の判決を受け、巣鴨プリズンで処刑されることになり、この自邸には二度と帰ることはなかった。

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    東京都世田谷区用賀
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    東条英機邸跡

 9月11日に時計を戻せば、その日、GHQは東条をA級戦犯のひとりに指名し、逮捕命令を出す。新聞記者たちは東条邸に急行し、周辺は騒がしくなる。
同日午後3時頃、東条はそれを聞いて、妻・勝子を知人の家に身を寄せるよう家から外に出す。彼女は農婦に身をやつし、近くでその後の状況を目撃していたという。
午後4時頃、MPの一行が東条邸に到着。玄関の窓越しに話がしたいと告げると、玄関右側の窓から、顔を見せ、正式な逮捕かどうか通訳を介して尋ねる。MPが逮捕状を見せ、支度を求めると、同意して、窓を閉める。
午後4時17分頃、一発の銃声が轟く。MPが踏み込むと、応接室の椅子に座り、右手に持った拳銃で自ら胸を撃ったと見られる状況で発見される。
その時の押収物は、東条の手から落ちた拳銃(32口径コルト)、テーブルに置いてあった25口径ピストル、白布でくるんだ抜き身の刀、および3振りの刀、机にあった文書など。
 このへんについて、9月13日付け讀賣報知は、「東条大将自決の前後」として、こう報じている。
「さる十一日、マツカーサー司令部に連行のため同司令部から派遣された軍使クラウス少佐の一行を自邸に迎え、突如拳銃自殺を図った東条英機大将は同夜米軍騎兵第一師団付属病院の救急車に収容され、いったん代々木の進駐軍幕舎に運ばれたのちに更に横浜へ運ばれ米軍軍医の手当を受けているが、自殺の直前進駐アメリカ軍の従軍記者とともに同邸を訪れた記者はただ一人の日本人記者として事前の元気な同大将を見ることが出来た。
 この日警備のため数日来玉川署から派遣されている警官を通じ特に面会を求め裏庭に廻ると、奥の茶の間から廊下づたいに出て来た国防色半袖半パンツ姿の大将は庭に面した自室前廊下のガラス戸を開け、幾分上気した顔をのぞかすが早いか記者の言葉も聞かず『今日は何んとしても会いたくない、困る、困る』とただそれだけ言い残して再び奥の間に姿を消してしまった。

 

 

 これが元気な大将の最後の姿であった。それから数刻後、大将は米軍の軍使や多数の外人記者たちを前庭に待たしたまま玄関左脇の洋風応接間で安楽椅子に腰かけたまま左乳下に日頃愛用の拳銃をあてがい自決を図ったのであった。銃声を聞くと同時に軍使、記者団の一行は鍵をかけたままになった扉を破り応接間に飛込んだ。みると大将は陸軍大将の軍装の上衣を脱いだ純白の開襟シャツ姿で、そのシャツが血潮で真赤に染まり弾丸は左乳下から背部へ貫通、更に椅子の背を貫いて羽毛を撒き散らしていた。弾は心臓を逸れたのか、大将は比較的意識も明瞭で
『誰か通訳を…』
と叫んでいた。そこで幸い居合わせた記者が駆け寄ってきくと顔を左かしげに椅子にもたせかけたまま既報のような最後の信念を語ったのであった。息が次第に苦しくなるのか、とぎれては語り、語ってはとぎれたが『一発で死ねなかったのはくれぐれも残念だ』
『陛下の御多幸を祈る』と苦しい息のなかから何回も繰返し繰返し言い残しやがて両足を伸ばすとぐったり椅子の背にもたれかかってしまった。
 ふと見ると背後の壁にかつて大将が大陸戦線で軍司令官として三軍を叱咤した当時の颯爽たる乗馬の姿が仰がれ、居合すものの感慨をそそった。
 やがて五時(註:4時か?)五十分ごろ用賀町二丁目の医師荏原●●氏が駈けつけ治療を加えたが、固く死を決意した大将は容易にその治療を肯んじようとしなかった。
 同医師の診断によると…如何なる手当を受けても助かる見込みはないといわれ午後六時十分ごろから…危篤を告げるの至った。
 同三十米軍騎兵第一師団の将兵とともに救急車が到着した。軍医ジエームス博士が自ら胸部と腹部の二つの傷口を縫い合し乾燥血漿を微温湯に溶かすと慣れた手並みで輸血を行い、
『これなら助かるか死ぬか五分五分だ。しかしこのまま置けば助からない。何んとかして助けたいものだ』
と語り担架に乗せると救急車に収容し代々木の駐屯地へ運び去った。東条大将は果して始めから自決する心算でいたのか、または連合軍の法廷に立って自分の所信を告げるまで生き永らえようと決意していたものを突然の事情で枉げて自決を図ったものか、当日の大将の様子をはじめ近親者の話を総合してみてもこれは依然たる謎である。おそらく大将自身以外に知るもののない永遠の謎となるかも知れない」
 そして、「横浜電話」の、「全快には長期」との見出しの記事が続いている。
「東条大将は十一日午後九時四十五分頃米陸軍救急車によって東京から横浜本牧大鳥国民学校(現・横浜市立大鳥小学校)内の米陸軍第九十八エヴアキユエイシヨンホスピタル三十号室に収容された。面会は第八軍司令官の許可がない限り一切禁止されている。加療には同病院外科部長ピアリー大佐自らこれにあたり、米人看護婦三名が看護に当っている。ピアリー大佐は東条大将の容体につき次のように語った。
 目下のところ生死相半ばする状態で決して楽観を許さない。前夜は比較的熟睡したようだが食物は全然摂らない。十二日正午の容体は…苦痛を訴えるようなことは全くない。意識は極めて明瞭で何をたづねてもはっきり答えるが、生命をとりとめるにしても全快までには相当長期間を要するだろう」
「東条を殉教者にしてはならない」、侵略戦争の首謀者として断罪せよというマッカーサーの指示もあり、「彼を生かして裁判で正当な裁きを受けさせたい。安らかに死なせては手ぬる過ぎる」という米兵らの思いもあって、懸命の輸血と治療が行われ、東条は九死に一生を得たのである。彼の身の上に起こったこの悲喜劇をどう感じ、どう考えるかは、人それぞれのようである。

(文責:編集部MAO)

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    当時、巣鴨プリズンがあった
    (現・池袋のサンシャインシティ敷地)に隣接する
    東池袋中央公園内「平和の碑」
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    東京裁判での東条英機