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「箱根宮ノ下富士屋ホテル」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.35
「箱根宮ノ下富士屋ホテル」

 神奈川県の箱根温泉にも進駐軍の姿が……
 箱根温泉の公式ガイド「箱ぴた」に、以下の「進駐軍と箱根温泉」という記事がアップされている。

hidden story

 

【進駐軍と箱根温泉】
(1945年)9月2日には横浜沖に停泊する戦艦「ミズーリ号」において降伏調印式が行われ、同月15日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が横浜税関から東京日比谷の第一生命ビルに移った。
 GHQは、旧軍用施設の多い神奈川県を重要視し、横須賀軍港をはじめとする施設を接収、進駐軍を配置した。神奈川県における進駐軍の中心部隊は横浜に置かれ、市の中心の建物はほとんど接収され、山下公園には将校の宿舎が立ちならんだ。
 箱根に進駐軍が姿をあらわしたのは、9月3日のことであった。当時富士屋ホテルに在籍していた山口悦雄は次のように回想している。


「昭和二十年八月十五日正午、日本国民は、陛下がラジオを通じポツダム宣言受諾の詔書をご発布になり、ここにおいて日本の敗戦という、日本歴史上初めての厳粛なる事実を知ったわけであります。
 これにより富士屋ホテルも、終戦後の歩みが始まるわけでありますが、その第一歩は同年九月三日に、進駐軍将校が、翌四日にはニューヨークタイムス紙の記者が昼食に来たり、 当時ホテルに滞在しておりました枢軸国外交官の様子や、ホテルの印象を翌日のタイムス記事として掲載されたそうです。
 同年九月の六日米軍部隊第八軍の司令官アイケルバーガー中将が、部下をひきつれ視察した。
 九月十一日には枢軸国外交官達の監視の任務を帯び、ラフリン大佐がMP三〇名を引率来館し、ホテルの出入口に衛兵をたて、警備警戒に当たった。このあと連合軍の指令により十月二十日強羅ホテルに外交官が移されることになりました。これ以降は米軍の接収する所となり、ホテルも米軍の管理下になりました。また当時の日本は敗戦に依る軍隊の解体、在外邦人の引き揚げ、物資の不足、悪性のインフレ、国民の虚脱感、誠に世情混沌としておりました。
 このような状況の下、ホテルは米軍に接収されたのでありますがホテル側としてその対応にはだいぶ戸惑ったのではないかと思われます。しかし時がたつにつれて国民もだんだんと平静を取り戻すとともに昭和二十一年四月、マッカーサー元師夫人とアイケルバーガー中将(当時第八軍司令官)が来館、また同年五月には参謀総長アイゼンハワー元師が来館しました。(後略)」

 富士屋ホテルの接収に続き、強羅ホテル、仙石原のゴルフ場も接収された。これらの施設はGHQをはじめとする進駐軍の上級将校の保養施設として利用されたが、やがて箱根の各温泉地にも進駐軍の一般将兵が来湯するようになった。
 このような事態に直面し、同年十月十六日、小田原警察署営業課の指示のもとに、進駐軍兵士の旅館宿泊料金が次のように決定された。

「外人宿泊料金等級表(一人一泊料金)

一級旅館
宿泊料金弐拾壱円以上弐拾五円迄
外にサービス料五円
二級旅館
宿泊料金拾六円以上弐拾円迄
外にサービス料五円
三級旅館
宿泊料金拾壱円以上拾五円迄
外にサービス料五円」

 進駐軍接収のホテルの場合は、諸経費を含むホテル賃貸料及び従業員給与等が、国の特別調達庁から神奈川県渉外課を経て支払われるので、必然的に施設の整備維持管理や運営等の指導があったが、小田原警察署を通して指定された一般進駐軍兵士対象の旅館については、料金の指定のみでいっさいの運営は各旅館の責任におかれた。風紀と衛生面での取締りが小田原警察署から指導され、併せて進駐軍物資の取り扱いが厳しく指導された。それでも昭和二十年十一月になってから進駐軍兵士の宿泊に対して特別物資が配給されるようになった。この取扱いは県庁の物価課が窓口になり直接の業務は足柄下地方事務所が当たっていた。
 進駐軍将兵は、休暇を利用し、ジープや軍用トラックで大挙箱根へ来遊した。沿道には甘いものに飢えた子供たちが彼らにチョコレートやチューインガムをねだる姿がしばしば見かけられるようになった。
 進駐軍兵士の来遊は横浜、横須賀の街娼を伴う場合が多かった。風紀上の問題、生活様式の相違によるトラブルなど、小さな事件が所々に発生し、このため昭和二十一年四月六日からの進駐軍の一般旅館宿泊を禁止することについての通達が小田原警察署から出された。
 その後、この通達は緩和され、やがて宿泊禁止も解除されるが、このころから旅館従業員の検便実施が厳しくなり、「検便済証」の所持が義務づけられた。
 昭和二十四年になると、県の指導により進駐軍受入れ希望旅館の指定制度を見直すことになり、同年五月温泉旅館に対し、「進駐軍宿泊希望旅館調査」が行われ、希望旅館はその年六月四日まで申請するよう指示が出された。
 進駐軍将兵の宿泊で旅館が苦慮したのは、彼らが持ち込んで使用する電熱器であった。このころはまだ節電時代で、電力統制が実施されていたので、ヒューズをとばすことがたびたび起こった。このため旅館組合では、関東配電と交渉し、電気消費の特別扱い許可を受けることになった。
 昭和二十五年(一九五〇)六月二十五日朝鮮戦争が勃発すると、進駐軍は朝鮮より引き揚げる米国人のため富士屋ホテルを収容施設として準備し、ホテルは七月より九月まで朝鮮からの引揚げ者によって利用された。そしてそれが一段落すると朝鮮戦争に従軍中の米軍将校が休暇の時の休養施設として利用するようになった。
 朝鮮戦争を契機に日本経済は立直りを見せ始め、後に「神武景気」と呼ばれる経済復興期に入ったのである。前記の山口悦男は、そのころの富士屋ホテルの様子をこう語っている。

「ホテルも多忙になり従業員の数も三〇〇名を越えカスケードルームでは金曜日を除いて毎晩バンドが入り演奏しておりました。酒場では、アメリカのラスベガスのカジノでみられるようなスロットマシンが何台も置いてあり毎晩軍人で賑っておりました。酒場だけでも従業員は十人を越えたように記憶しております。そしてホテル周辺の土産物店も米軍人で賑わい大変活気を呈しておりました」

 やがて昭和二十六年(一九五一)九月八日、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約、日米安全保障条約が調印され、翌二十七年四月二十八日両条約の発効によって、一応の占領体制は解除されることになった。富士屋ホテル、強羅ホテルなど米第八軍の接収が解除され、その後は自由契約により米軍に施設を提供することになった。その契約も昭和二十九年(一九六四)六月契約満了となり、一つの時代が終わった。

 

 以下の写真は、富士屋ホテルの現在のホームページからのものである。
(富士屋ホテルHP: http://www.fujiyahotel.jp)

 この神奈川県箱根町宮ノ下温泉にある富士屋ホテルは、かつてチャップリン(1932年に兄シドニーとともに来館しているが、5・15事件に巻き込まれそうになった)や、ヘレン・ケラー(10937年と48年の2度)も宿泊したことのある国際的にも名高いホテルである。
 また、44年にはドイツ、イタリア、「満州国」、中華民国、タイ、ビルマ(現ニャンマー)、フィリピンの大使館員や武官の宿舎に指定されており、45年には富士屋ホテル内に外務省箱根事務所が設置され、占領下の9月にはスターマー元駐日ドイツ大使が連合国軍に身柄を拘束されている。そういった経緯については、「冨士屋ホテルチェーンホテルヒストリー」(http://www.fujiyahotel.co.jp/ja/history/index.html)に、年表があるので、参照してほしい。

 ここは、外交官の佐分利貞男が謎の変死体で発見されたところとしても知られている。
 彼は、田中義一内閣の積極外交や、1928年の張作霖爆殺事件で悪化していた対中国外交を打開することを期待して、浜口雄幸内閣の外相・幣原喜重郎に乞われて、29年8月に駐支那公使に就任している。本国での打ち合わせのため、一時帰国中の11月29日のこと、彼は冨士屋ホテルで変死体で発見されるのである。警察の鑑定によって、ピストル自殺とされたが、遺族から疑問が呈されている。ちなみに彼は、城山三郎の『落日燃ゆ』では広田弘毅のライバルとして描かれている。

 出かけて行って撮影して、謂れなどを紹介するのが、本コーナー「フォトストーリー」のつとめであるが、今回は、ホームページの写真を活用させていただいた。今後とも時折、なかなか自ら直接行けないところについては、このようにやらせていただきたい。

 

(文責:編集部MAO)