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「海軍病院・築地施療病院が米軍に接収され、解除後、国立がんセンターに」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.34
「海軍病院・築地施療病院が
米軍に接収され、解除後、
国立がんセンターに」

 築地市場の構内にある「守り神」の「水神社」を出て、「市場橋門」(新大橋通りに出る出入り口で「正門」より築地4丁目の交差点寄り。目の前が「市場橋」信号があり、向うにかの有名な料亭「新喜楽」が見える)に向かうと、正面に「国立がんセンター中央病院」の偉容が迫ってくる。

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国立がんセンター中央病院(市場橋門側から望む)

 この敷地裏手の駐車場には、「海軍軍医学校跡の石碑」と「海軍兵学寮趾の石碑」が並んでいるというので、同病院のロビーの、某ブースで案内をしていた女性職員に尋ねると、「今は工事中で、外からは見えない」というので、場所を教えてくれるように頼むと、「この裏の采女橋手前の左あたりだ」という。
 そこで、中央病院外の新大橋通りを(左)に出て、「市場橋」信号で廻りこみ、采女橋に向かった。たしかに左側のセンター裏は工事中である。工事車両の入口を横目に進むと、首都高速都心環状線(旧築地川の埋立地を走る)に架かる采女橋を渡ると、「新橋演舞場」前の銀中通り沿いに案内板があったので、見ると、たしかにがんセンターと首都高の間に碑があると表示されていた(写真参照)。


新橋演舞場前の銀中通りの案内板
(クリックすると拡大表示されます)

 この海軍軍医学校について、ここでは述べよう。
 軍医を養成する当学校は、1908年に港区芝(慈恵医大の近く)から築地に移転している。
 この学校では、医学・薬学・歯学の3コースを設定、海軍病院(この学校もそう呼ばれる機能を持っている)を総括指導する軍医を養成する普通科・高等科・特修科、看護士・技師を養成する専修科を設置している。この隣地には、1911年に東京市立築地施療病院が開院、関東大震災後には一般病院に変わり、築地病院と改称している。ここは、海軍軍医学校の教育機関として軍医生の臨床実習の場でもあった。また、この築地病院は東京市営最初の総合病院であったという。
 その海軍病院と築地病院は、1945年10月に接収され、米陸軍病院として使われている。そのへんについて、北里大学名誉教授の塩谷信幸氏が、2000年9月の「諸君!」の特集「進駐軍がやって来た!80人の証言」でこう証言している。

 

「その日の昼も我々四人は、築地明石町の一膳飯屋の二階で豚鍋をつっついていた。
 川向こうには、黄色い煉瓦の聖路加病院が聳えている。
 戦後まもなく聖路加病院は進駐軍に接収されて、海軍病院(今の国立がんセンター)と同愛病院を合わせ、東京陸軍病院として米軍の極東での医療センターとなっていた。我々がそこでインターンをしていたのは昭和三十年のことである。
 進駐軍と名前はごまかしても、英語ではJapan Occupation Forcesであり、立派な占領軍である。病院内はオフリミッツ(日本人立入禁止)で、中ではすべて軍票しか通用しない。
 我々インターンは、医療チームの一員のドクターであっても、日本人つまり被占領国の国民なので、軍票はもってない、従って軍票が必要な院内食堂も使えない。そこで昼にはこうして、近所のチャブ屋で昼飯をかっこむ仕儀となる。
 我々というのは、新潟大学の橋本、大阪大学の三木、日本大学の柳沢そして僕の四人である。この四人の他に、インターンは北は北海道、南は九州と日本全国から集まった十二人で構成されていた。
 その日の話題は、そろそろ決まりかけたそれぞれの留学先のことであった。
 出身はまちまちだが、皆インターン終了後は、すぐにアメリカに留学しようと、その足がかりに、米軍病院でのインターンを志願した者ばかりである。
 皆、あの日を十三歳の少年として、経験したのだった。あの日のことは今でも鮮明に覚えている。東京大空襲の後、僕は父の田舎の宮城県の白石に家族で疎開していた。
 米軍の本土上陸も間近いということで、我々は毎日竹槍の練習にかり出されていた。教官は我々を国道沿いの雑木林に連れ込み、あの国道からアメリカ兵が現れたら、飛び出してって突き殺してやるんだ。いいか、わかったな。はい。という毎日だった。
 だが幸い、その前に日本は降伏した。お粗末なラジオで、雑音がガーガーと入り、天皇の声もうわずってとぎれとぎれで、かろうじてアナウンサーの、『国体は護持されました。しかし我が国は和をこうたのです』と言う解説で、ああ、日本はまけたんだ、とわかったくらいである。
 一寸した虚脱感と言うか、ああ、これで助かったんだという、解放感が体中からわき出てきたのは、それから一寸間をおいてからだった。
 その日、空は青空で、日の丸を付けた戦闘機が一機、『デマに惑わされるな、最後まで戦うぞ』と言うアジビラをまいていった。やっぱりそんなうまい話はないかと、一瞬、がっくり来た覚えがある。
 その鬼畜米英は、ジープに乗ってさっそうと進駐してきた。後ろにトレーラーをつけて、後から後から仙台方面へと、泥道の国道を疾駆していった。
 そして鬼畜米英に、我々が初めて覚えて使った英語は、“give me chocolate”だったのは言うまでもない。米国留学にあこがれるのは、その頃の自然の成り行きであった」

 

 こうして海軍病院と築地病院は、1945年10月に接収を受け、アメリカの陸軍病院として10年以上返還されずに使用されたのである。そして、そこに1962年5月に国立がんセンターの病院が開院するのだが、その経緯については、医療ガバナンス学会のメールマガジンで、東大医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門の上昌広さんが以下のように書いている。

「海軍医学校が米軍に接収されていた間、旧海軍スタッフは病院の職員として働いていたのでしょう。当時の米軍施設の待遇は庶民とは比べるべくもなく、ある意味で軍官僚がいい目を見たということも出来ます。
 1956年、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立します。同時に占領軍が撤退し、海軍医学校が厚生省に返還されます。つまり、厚生省は、スタッフと建物を返還されたわけです。その後の詳細な経緯は公表されていませんが、1960年、当時の日本医学会会長 田宮猛雄氏ら9名の学識経験者からなる国立がんセンター設立準備委員会が発足し、『国立がんセンター』のあり方、将来構想など重要事項について検討され、厚生大臣宛に意見具申書が提出されます。その後、1962年2月1日、『国立がんセンター』が正式に発足するわけですが、これはがん対策の推進という目標をうたったものの、政府の本音は旧海軍病院の事務スタッフの雇用確保という側面が強かったのではないかと考えています。なぜなら、1960年の段階で、国立のがんの研究拠点を作るなら、わざわざ、がん研究のノウハウの蓄積がない旧海軍医療機関に作る必要などなかったからです。研究の専門機関である東京大学や京都大学に研究センターを作るという選択肢もあり、研究スタッフを集めるという点では、このような既存の大学の重点化の方が遙かに容易だからです。
 どのような経過はわかりませんが、わが国のがん医療の中心施設が、軍官僚制度を引き継いだことは、その後のわが国のがん医療に大きな陰を落としていきます」

 とにかく、日本帝国陸軍や海軍の病院が現在の国立病院のネットワークに少なからず影を投げかけていることを考慮する必要がある。占領はとっくの昔の話と、片付けてはいけないのである。

 

(文責:編集部MAO)