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両国橋から回向院の旧両国国技館あとへ

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.28
両国橋から回向院の
旧両国国技館あとへ

 今回は、武蔵国と下総国の境を流れる隅田川(大川)に江戸時代に架けられた両国橋を目指した。まず、JR総武線の「浅草橋」駅で下車、東京からの進行方向右側、つまり南側の船宿の並ぶ神田川に向かい、浅草橋にぶつかったら、川べりを隅田川に流れ込む方面にぶらぶら歩いた。すぐに緑色に塗られた鉄製の「柳橋」の畔に着く。そこには、かつて多数あった「柳橋の料亭」の唯一の生き残りで、横綱審議会の会合も行われ、平山郁夫画伯の愛した老舗「亀清楼」(今は茶色のビル)が佇んでいる。その橋を渡り、神田川から隅田川へ回り込めば、両国橋西詰である。

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  • 柳橋から両国橋を望む

  • 両国橋(西詰から)

1860年頃の江戸

 この両国橋がいつ架けられたかには、1659年と1661年の二説あるが、そのきっかけは、江戸最大の「明暦の大火」(1657年)で、その際、江戸の中心部から、北部の浅草方面へ逃げる神田川の浅草橋は通行止め、大川には防備の面から架橋されておらず、行き場を失った避難民が10万人以上、焼死、あるいは川で溺死という惨劇が起ってしまったためである。
 ここを走るのが御茶ノ水や神田の方から来た靖国通りに続く京葉道路(国道14号)で、その東詰には、大火の犠牲者たちを供養して建てられた回向院があり、両国橋を渡れば、すぐ山門があり、隣りには複合ビル「両国シティコア」がある。その山門を入れば、日本相撲協会の建立した石碑「力塚」があり、」さらに奥に進めば、鼠小僧次郎吉の墓がある。そこをちょっとお参りして、今日は回向院境内に建てられた旧国技館跡に入って行った。その入口には説明板があるが、同じ趣旨の墨田区教育委員会の説明を、以下に示しておく。


  • 回向院の山門、その左側に両国シティコア

  • 回向院境内の「力塚」

 

旧国技館(大鉄傘)跡
所在地 墨田区両国2丁目8・9番
相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。
国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。
相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして同60年(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。
大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
平成20年3月
墨田区教育委員会


回向院の説明板
※クリックすると拡大表示されます

 

 ここにあるように、シティコアの中庭には自転車が多数駐車していたが、土俵があったところがタイルで示されていた。そもそもこの境内は、1781年に初めて勧進相撲が行われ、1833年から江戸相撲の常設場所として庶民の娯楽の場所であった。そして1909年に旧国技館が建設され、その建物の大屋根が傘に見えたため「大鉄傘」と愛称されてきた。その経緯が説明板に示されている。
 さて、この旧国技館は、戦争中には陸軍から接収されて、風船爆弾の工場として使用されてきたが、45年3月10日の東京大空襲で焼失している。この焼けただれたままの旧国技館で、45年11月には、戦後初の本(秋)場所が行われている。
 しかし、45年10月26日にはGHQによって接収され、「メモリアルホール」と改称、改装されることになった。その改装は、46年9月24日に成った。GHQからの「土俵を広げろ」といった無茶な要求に従わざるを得なかったりしたが、ここでは46年の11月場所と、第35代横綱双葉山の引退披露が行われただけで、メモリアルホールでの相撲興行はGHQに禁止された。
 接収解除(52年4月1日)後、ここは、まず国際スタジアムがローラースケートやプロボクシング、プロレスの会場として使用したが、58年に日本大学が日本相撲協会から購入して、82年まで日大講堂として使い、今や日大全共闘の兵どもに夢のあと、である。そして、「両国シティコア」が現在の姿である。
 わたし個人としては、ここの施設で今は亡きNHKの名ドキュメンタリスト片島紀男さんの出版記念パーティを開いたことを、今のことのように思い浮かべることができる。
 では、相撲興行はどうなったか。戦後、後楽園球場とか、明治神宮外苑の野天相撲場とか、日本橋の浜町公園内や大阪の福島公園内につくられた仮設国技館などで行われていたが、50年「仮設」のまま開館し、54年に正式に完成した蔵前国技館に移り、栃若、柏鵬、輪湖時代の舞台となった。しかし、蔵前も84年に閉館、今の両国駅前の国技館で、相撲興行は続けられている。
 相撲の町、両国も大いなる様変わりである。

 

(文責:編集部MAO)