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かつて国会図書館だった「迎賓館」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.21
かつて国会図書館だった
「迎賓館」

 三井の迎賓館と言われる三井倶楽部で、思い立って、赤坂迎賓館に向かうことにした。近くの古川橋でバスに乗り、天現橋で明治通りから外苑西通りに入る。広尾、西麻布と進み、青山墓地にぶつかり、外苑東通りを行くと、青山斎場前を通り、青山交差点で青山通りを突き抜ける。右は赤坂御用地である。バスはさらに進み、権田原停留場で、私は降りた。

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 ちなみに、赤坂御用地には、皇太子、雅子さま、愛子さまのお住まい、つまり東宮御所や、秋篠宮邸、三笠宮邸、秩父宮邸、高円宮邸など、皇室関連施設が並んでいる。
 その敷地沿いに四ツ谷駅方向に歩くと、右側に迎賓館が現われる。つまり、この赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館が威容を誇っている。
 ここはかつて赤坂離宮と称されたが、日本国憲法で、象徴天皇制が成立するとともに、多くの皇族は皇籍離脱を余儀なくされた。つまり、華族制度は廃止されたのである。
 ここで皇室財産が、憲法の明文(88条)によって、国に属するものとされ、皇室の費用は予算に計上して国会の議決を経ることとなった。

赤坂迎賓館
赤坂迎賓館

 ここで、赤坂離宮の転用問題の顛末について、『マッカーサーの日本』(上巻、週刊新潮編集部)がレポートしているので、紹介しよう。

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『油断のならぬ宮内庁』がふたたび息を吹き返すことのないよう、GHQ民政局はその経済力を徹底的に締め上げようとする。締め上げの法的な基礎は、新憲法八十八条の『すべて皇室財産は国に属する』という一章であり、民政局がそれの監視に当る。<J・D・M>というイニシアルの担当官が、その『監視記録』を日を追って書いている。
 ――まず、新憲法が施行され(二十二年五月三日)、皇室財産を国に返すことになっても、いったい日本中にどれくらいの皇室財産がどんな形であり、これまでは誰が管理していて、今後は国のどの機関の所管になるのか、サッパリわからない。民政局はイライラし、担当者は、『マゴマゴしていると、財産はまたコッソリと皇室へ戻されてしまうかもしれない』と警戒の報告をする。
 二十二年十月、元皇族十一家の臣籍降下(十月十四日)と、その際の一時金下付の問題が起る。それについても、GHQの態度はきびしい。民政局覚書『追放該当の宮家に対する支払い』から――
『国会の議決によって、皇籍を離れる宮家に合計四千七百万円の一時金が支給される。しかるに、そのうちの十二人は職業軍人であり、きたる(十月)十五日に追放されることになっている。追放該当者には一時金など支払う必要はない』
 翌二十三年一月になると、皇室財産の一つであった赤坂離宮の転用問題が大きく取り上げられる。ベルサイユ宮殿を模して明治四十一年に完成したという赤坂離宮は、戦前は外国からの賓客の宿舎、戦後は国会図書館、そして東京オリンピックの際の事務局などに使われたが、終戦直後は都心で焼け残った代表的な大宮殿として、その所属が争いの的となった。
 皇室にとってマズかったのは、前記諸宮家の臣籍降下に際して、(二十二年)十月に、天皇がその”サヨナラ・パーティー“を催した場所が赤坂離宮であり、そのことからGHQがいっそう離宮に関心を持ち出したようでもある。二十三年一月二十七日、ホイットニー民政局長から片山哲首相にあてた覚書――
『赤坂離宮は宮内庁から国家に返還されたものであり、以後は国家行政目的のために使用さるべきである。建物不足の折だけに、そのことを十分考慮して使われたい。……本官は、離宮を最高裁、検察庁および人事院等で使うことを提案する。こうした目的以外に、離宮を現状のまま放置するのは、本官の認めがたいところである』
 ホイットニー少将の”提案“を受けて、二月になってから、最高裁の判事六人が離宮を検分に行った。ところが六人の判事は、少将の”好意“にもかかわらず、『離宮は裁判所として適当でない』と新聞に発表した。あわてた民政局は、再調査したうえで、二月十九日、政府・国会の代表者たちをGHQに呼びつける。GHQ側は民政局次長ケーディス大佐、経済科学局バロン氏、日本側は大蔵省池田、宮沢、宮内庁加藤、黒田、参議院木内、衆議院浅沼、官房次長曽祢の各氏である。

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 以下の問答は、赤坂離宮をなんとか『民衆のもの』にしたいケーディス大佐と、それがどの機関の所属になるのか、要するに『官僚ナワ張り』の問題しか頭に浮ばない日本側諸先生との、決して交わり会わぬ平行線のような珍妙なやりとりである。
 ケーディス『離宮転用についてはどうも誤解があるようだ。離宮が国家に返還され、民衆のものになったという事実には疑いの余地がない。この点を頭に入れて、最も効果的に使うべきである。――ホイットニー少将により、最高裁、検察庁、人事院等で使われるべきだという覚書が政府に送られている。しかるに、最高裁判事たちは、この使用を辞退している模様である。用途を指示するのは、GHQの本意ではないが、離宮を日本の三権分立の諸機関がそれぞれ使うことが好ましいと、ホイットニー将軍は示唆しておられるのである。にもかかわらず、国会は国会図書館として使いたいというような意向を示している。だが離宮は、民衆の労働と金によって建てられたものであり、民衆に属し、民衆が自由に出入りすることのできる場所にすべきである、という点を飲み込んでほしい。その理由から、国会図書館に使うという決定は拒否します。そして一刻も早く、別の具体的な転用問題を考えて、プランを提出されたい。
 つけ加えますが、加藤さん(と宮内庁次長に)、このことにはもはや、宮内庁は関係がないのですよ。……みなさん、ご質問があったらどうぞ』
 木内『政府が使うようにおっしゃてるわけですが、国会図書館ではいけないのでしょうか』
 ケーディス『ノー』
 木内『もちろん離宮の宴会場まで使おうとは思いません。しかし、図書館に使えば、将来それは民衆に門戸を開くことになり、貴官の意図に合致すると思うのですが……』
 ケーディス『違う。木内さん、私は今よく説明したばかりです。離宮は即刻転用すべきで、将来のことなんかいってるんじゃない』
 ここで、大蔵次官の池田勇人氏がそのころから得意だった”数字“を並べたてて、話を2管轄”の問題に変えようとする。
 池田『えー、ちょっとご報告します。皇室財産の国家返還前の財産価値は三十七億円でありましたが、返還後は一割の三億七千万円となりました。この三億七千万円は皇居、赤坂離宮、京都御所ほか債券、現金などですが、宮内庁の管理下にあります。皇室財産は今は国のものですが、宮内庁が管理しております。したがって、赤坂離宮は大蔵省の管理ではありません』
 ケーディス『池田さん、あなたはいかなる権限で離宮を宮内庁に戻してしまったのか』
 池田『国有財産は国のものであります。しかし、その建物は国のどれかの機関が管理することになっております。したがって、国有財産は必ずしも大蔵省が管理するとは決っていません』
 ケーディス『それはわかる。しかし、新憲法は離宮を宮内庁に返すことを意図してはいない』
 池田『おっしゃるとおりです。しかし、たとえば郵政省ビルは国家のものだが、郵政省が管理しています。離宮もまた、同様なのであります』
 イライラしてきたケーディス大佐は、経済科学局のバロン氏とヒソヒソ話をしたうえで――
 ケーディス『何といおうと、たった今から離宮は大蔵省に属する。もし大蔵省から他へ移管したのであれば、それは違法だ』
 通訳が『みなさん了解したといっておられます』と伝えたあと、社会党の浅沼稲次郎代議士が遅刻してノッソリとはいって来る。『浅沼さん、今までのことは、あとでみなさんから聞いてください』とケーディス氏がいうが、浅沼氏はまた離宮の『管轄』問題をむし返す。
 浅沼『現在の衆議院には委員会だけでも四十二からあり、赤坂離宮は国会が使うことを考えとるんでありますが、はたして離宮がどこの管轄に属するものだか、ハッキリいたしません』
 ケーディス『管轄は、大蔵省! これ以上、われわれは計画の詳細にまで介入したくない。浅沼さん、離宮は民衆のものです。ただし、国会図書館に使うことは許可できない。しかし、国会が今すぐに使うというのなら、それもまた結構でしょう』
 浅沼『しかし、衆議院は参議院と規模が違うので、木内さんたちとの意見が食い違っているのであります……』
 曽祢『えー、明日ちょうど閣議がございますので、この問題をもう一度閣議にかける、ということでは、いかがでございましょうか……』
 以上のごとく、わかったようなわからぬような問答で終っている。ケーディス氏らとしては、なんとかこの都心の豪華な宮殿を『民衆』のもの、『民主主義』や『三権分立』の象徴的な建物としてイメージ・チェンジしたいのだが、社会党内閣の政府も議員たちも、『民衆のもの』などといわれても、いっこうにピンとこないのである。外国から来た“改革者”と、日本のおエラ方との話合いは、多かれ少なかれ、いつもこんなものだったのではあるまいか。『これは決して命令するものではないが……』とか、『示唆するだけである』と繰り返さねばならないケーディス氏ら、アメリカ人秀才軍政官たちのあせりと絶望が目に見えるようである。
 なお、赤坂離宮はその後、共産党野坂参三氏の“人民宮殿”論、部落解放同盟松本治一郎氏の“水平社の本部にする”提案などが現われ、そのたびに民政局と日本政府との間にテンヤワンヤがあり、二十三年六月、国会図書館になることでようやくケリがついた。」

 

 へえー、あれこれ調べ物がある時など、国会図書館を利用しているが、かつては1948年から61年まで、ここにあったのかと思うと感慨深い。そればかりか、法制庁法制意見長官(1948~60年)、裁判官弾劾裁判所(48~70年)、内閣憲法調査会(56~60年)、東京オリンピック組織員会(61~65年)としても使われていた。
 下の写真は、国会図書館として使用されていた頃の様子である。

国会図書館として使用されていた頃の様子

赤坂迎賓館
赤坂迎賓館

 

(文責:編集部MAO)