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数寄屋橋公園

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.17
数寄屋橋公園
(今改修工事中)

 今、改修中の数寄屋橋公園にJR「有楽町駅」からマリオンを晴海通りに抜けて、歩いて数分で着いた。工事中だったので、シートの隙間から覗く。ここには菊田一夫の石碑があるように「君の名は」でよく知られている。

hidden story

 

 尾崎秀樹著『大衆文学の歴史』に簡潔にこうまとめられている。
「戦後最大のメロドラマ『君の名は』(原作・菊田一夫)は、昭和二十七年四月十日、NHKラジオに登場、二十九年春までつづいた。大庭秀雄による映画『君の名は』第一部が封切られたのが二十八年九月、これは第三部までつくられ、春樹になる佐田啓二、真知子に扮する岸恵子を人気スターにおしあげ、翌二十九年の雑誌『平凡』による人気スター投票で、一躍トップにおどり出る結果となった。また岸のよそおった“真知子巻き”は、いわゆるシネ・モード流行の先鞭をつけ、それを小説化した菊田一夫の作品は、第四部完結のとき十七万部を配本したという。初期四千部で出発したこの本は総計五十万部に達した」
 昭和28年9月末現在、NHK調査によるラジオの推定聴取者数は1862万人で、5人に1人の割合、聴取率は49%、映画3部作の総観客動員数は約3000万人で、10億円近い配給収入をあげ、主題歌を吹き込んだコロンビア発売のレコードは4か月間に15万枚を売ったそうだ。
 これは、数寄屋橋の“すれちがい”にはじまり、その繰り返しで、人気は続いた。ラジオドラマは「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーション(加藤幸子)と古賀裕而のハモンドオルガンで始まる。すると、「現代風俗史年表」では「女湯が空っぽになるといわれるほどの人気」と記録されているが、どうもこれは映画宣伝の作り話のエピソードらしい。でも、ブームは本当で、それを先述の尾崎秀雄はこう分析する。
「一つには三十年ちかい劇作家としての体験をもつ作者菊田一夫の、作劇術のうまさがあったことはいうまでもない。ハラハラ、ドキドキするストーリーに、スレチガイの魅力は欠かすことのできない条件だ。中里介山の『大菩薩峠』、吉川英治の『宮本武蔵』、いずれもこのスレチガイの魅力をたくみに活用してみせる。真知子と春樹のスレチガイは、大衆演劇の世界に学んだ菊田一夫の大衆的表現のあらわれだったかもしれない。だがそれだけでは数年にわたるブームを維持する力とはなるまい。『君の名は』はけっして、日本の大衆と切りはなされた世界の物語ではなく、どこの家庭にもある素材を、ごく一般的に、しかもやや感情的に仕立てたところにブームの原因があったのではないか。
 いいかえれば、真知子と春樹の交渉、出会おうとして会わず、常に運命の苛酷さに泣き、苦しさに耐えつづけるふたりの純愛の姿は、戦後の日本のある一側面を象徴した。
 与えられたデモクラシー、女性は法的には解放され、家の桎梏を脱することができたとはいえ、まだ一般の家庭では真知子と勝則、あるいはその姑とのあいだに見られたようなゆがんだありかたが支配的だった。しかし『君の名は』は、さいごには真知子と春樹の愛の勝利におわる。
 当時作者の手許にとどいたファンの手紙のなかには、姑を持つ若妻、息子夫婦と同居する姑からの告白がかなり混じっていた。
『私は良人の母に“君の名は”は面白いからおききなさいといってとうとう義母さんをファンにしてしまいました。私自身を真知子におきかえて考えているわけではありませんが、姑に、せめて嫁の辛さが判ってもらいたかったからです』
『息子夫婦の幸福の邪魔をしない姑となって、私もまた、若い者達に愛されるような年寄りになろうと思います』
 姑の意地わるい態度に泣いた嫁の時代は過ぎた。家の構成は配偶者単位にかわり、やがて耐久消費財ブームを主軸としたマイホーム主義が、若い夫婦たちの表情をやわらげはじめる。『君の名は』ブームは、その過渡的な幻影が生んだ、虚構のドラマだったといえる。
 さらに『君の名は』の背景となる地理的配合に、たくみな配慮があったこともブームの原因をたずねる際に見おとせない条件となろう。東京の数寄屋橋界隈、志摩半島、美幌峠や摩周湖周辺、佐渡の尖閣湾、島原や雲仙、観光地には事欠かない。いわば新版道中スゴロクを地でいった魅力だ。民放の開始、テレビ時代の開幕を前にして、NHKラジオは『君の名は』による全国ネットをはりめぐらしたといってよかろう。
『君の名は』に登場する脇役は、ほとんど申し合わせたように、戦争の傷痕をのこしている。春樹と真知子だけが、そのくらい過去ときれているようだ。そのことがかえって彼と彼女の戦後をきわだった光りに浮き立たせる。戦後八年間の日本の大衆の歩みを、聴取者といっしょに、ときには泣き、ときには笑いしながらたどってみたいという菊田一夫の意図は、真知子と春樹がめぐり会おうとして会わず、運命にホンロウされて、幾変転をくりかえす歴史と、奇妙な類似カーブを描いていた。だが『君の名は』ブームは、そのさいごを飾り、時代は急速に、新しい女権時代に突入した」
 このラジオドラマにうつうをぬかしていた日本は、このブームの中で、沖縄を置き去りにしたサンフランシスコ講和体制(日米安保時代)を固めていったのである。(この項目おわり)

 

  • 川が外堀で、橋の架かる通りが晴海通り、右上のビルが東芝ビル(現・東急プラザ銀座)
    数寄屋橋界隈(昭和29年)(「銀座東芝ビルの歴史」より)
    川が外堀で、橋の架かる通りが晴海通り、
    右上のビルが東芝ビル(現・東急プラザ銀座)
  • 旧数寄屋橋。後景のビルは旧朝日新聞の本社(現・有楽町マリオン)
    旧数寄屋橋。後景のビルは旧朝日新聞の本社
    (現・有楽町マリオン)
  • 数寄屋橋公園から晴海通りをはさんだ高速道路高架下の西銀座デパートを見る
    数寄屋橋公園から晴海通りをはさんだ
    高速道路高架下の西銀座デパートを見る
  • 改修中の数寄屋橋公園
    改修中の数寄屋橋公園
公園には「数寄屋橋 此処にありき 菊田一夫」の碑がある
公園には
「数寄屋橋 此処にありき 菊田一夫」
の碑がある

 

(文責:編集部MAO)