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HOME > フォトストーリー > フォトストーリー 写真に隠された真実 STORY.4 米兵向け第一号慰安施設、大森海岸の「小町園」跡地 その2

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PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.4
米兵向け第一号慰安施設、
大森海岸の「小町園」跡地
その2

戦前の落付いた、奥ゆかしい場所から戦後一変した大森海岸「小町園」。
ここでは、「小町園」跡地の写真と当時の証言を通して、
米兵向け第一号慰安施設が出来るまでの背景を、占領期の一断面として紹介していきます。

hidden story

 

 

 前回につづいて、「りべらる」(昭和21年1月刊)に初出の糸井しげ子さんの小町園についての証言を見ていきたい。


 八月二十八日、厚木進駐、何という早さなのでしょう。もうその晩、新装をこらし灯をあかあかとつけたお店の前に、組立おもちゃみたいな自動車が、とまり、そこから、五人の兵隊が、何かおたがいにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。
 それが、記念すべき、はじめてのお客でした。
 そのひと達はカンヅメのビールをもち、めいめい、腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、『ここに、お嬢さん達がいるときいてきたが』といって、カードを通訳のひとに見せました。それには、お店の地図が書いてあります。いつの間にかR・A・Aの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。
 主人は、よろこんで、この五人の『口切り』のお客さまをもてなそうとしました。
 このひと達は、靴のまま上ろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上ると広間で、おとなしく持参のビールをのみはじめました。
 広間で、特別に招いた大森芸者の手踊りをみせましたが、彼らは、そんなものは、さっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんは、どこにいるのだときき、料理をはこぶ私達を抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで、押したほして裾に手を入れようとしたりする兵隊もありました。(和服が珍らしかったのでしょう)
 それで私達は、御主人にいって、五人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
 なにしろ、素人の娘さん達ですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。
 それを、まるで赤ん坊でもだくように、ひざの上に抱きあげて、ほほずりしたり、毛だらけの大きな手で、『可愛い』とでもいってるのでしょう、何かいいながら、あちこち、軀をなでまわしたりしているのを見て、私は、急いで、障子をしめました。
 廊下で、きいていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。泣き声は女で、わめき声は男です。
 おそらく何ヶ月もの間殺伐な戦場で女の肌に一度もふれないできたのでしょう。
 その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
 その物音や、声をきいていると、女の私でさえ、変な気持になりました。もう何年もそういうことからは、遠ざかっていた私ですから。……そして、ああ、やっぱり、日本は敗けたのだ、と、日本の娘が、アメリカ兵に犯されている物音を廊下でききながら、はじめて、そのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙がでてきました。
 五人のアメリカ兵は、その夜十二時頃までいてかえりました。私は、煙草を一箱チップにもらいました。
 部屋へ行ってみると、部屋中に、アメリカ人の軀の匂いが、甘ずっぱくただよい、そのなかでR・A・Aの娘さんが、顔をおほってねていました。素顔で、軀中汗で光り、いかにも、苦しそうに息をはいています。
 きいてみましたが、恥かしがって何もいいません。しかし、皆の話を綜合してみると、彼らは思ったより、ずっと親切だったそうですが、何しろ軀が大きいし、はげしいので、みんな、くたくたにされてしまったようでした。――その五人の兵隊たちが満足したのも無理は、ありません。彼らは幸せだったのです。処女も、そのなかに一人いましたし、そうでないのも、永い間、そういうことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
 だから、女のひと達も、つかれてしまったのです。


 しかし、そんな呑気なのは、この晩だけでした。この五人は、嵐の前ぶれのようなものだったのです。
 翌日は、ひる間から、彼らは、噂をきいて続々とやってきました。
 大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
 土足でずかずか上りこみ、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで、追いまわしたりします。
 十日ほどたったとき、その騒ぎは、どうしようもなくなりました。
 外にも、ボツボツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私達からみたら何だか東京中の進駐軍が、みんな、私たちの所へやってくるような気がしました。
 ジープが、前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとから、あとから、兵隊たちはやってきました。
 はじめやってきた三十人の女のうち、二人は、最初の晩にどこかへ逃げていって、のこった娘さんたちが、お客を迎えたのですけど、部屋がたりないので、まるで、体格検査場みたいに、広間を、びょうぶで仕切って、そこに床をしきました。(もう芸者の手踊りどころではありません)
 一部屋になっているところも、兵隊たちが、障子をこわしてしまったので、あけっぱなしです。
 女たちは、それを、いやがりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって、面白がって、口笛をふいたり、声をかけたりして楽しんでいました。
 一人の男がなかに入ると、あとの列が、一つづつ前へ進みます。まるで、配給の順番でも待っているようです。その列が、廊下にあふれ、玄関に延び、時には、表の通りまで続くときがありました。
 私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間を、かけまわって、用をたしました。気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるか分りません。
 接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、……私も、しまいには、神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。なにしろ、右を向いても、左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。
 ひどい目に会ったのは、募集で集まってきた女のひとでしょう。
 みんな、素人の娘さんたちなのです。
 はじめての日に処女をやぶられて、一晩に一人の男の相手をするだけでも、心がつぶれるほどの事だったでしょうに、毎日、ひるとなく、夜となく、一日に最低十五人からの、しかも戦場からきた男のひとを相手にしなくてはならないのです。
 素人の女ですから、要領というものを知りません。
 はげしくあつかわれれば、正直に、女の哀しさを見せてしまいます。
 それでは、たまったものではありません。
 たちまち、別人のようになって、食事もろくにとれず、腰のぬけた病人のようになってしまう人が多かったのです。
 どうして、こんな、アシュラのようなところからみんな、逃げださなかったのか、不思議に思うのですが、逃げ様にも逃げる気力さえなくなっていたのかも知れません。
 どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの、嗚咽(おえつ)がきこえてきました。
 それをきいていると、日本の女が、戦勝国の兵隊のジュウリンにまかせられているという気がしみじみしました。
 それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの、縮図だったのです。見本だったのです。
 私たち、女中のなかからも犠牲者がでました。
 ヨッちゃんという十九の子は、布団部屋に入ったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかで、イヤがるのを無理に輪姦されて、『お姉さん。……私……』と私に、泣きついてきました。キズ口を洗ってやりましたが、裂傷をおっていました。
『私、好きなひとがいたの。……こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!』
 そういって、翌日から、慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。
 しかし、この子は、もともと、そういう事が好きだったらしく、それに、外人の軀がめずらしく良かったのでしょう。復讐どころではなく、何人お客を迎えても、鼻うたまじりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。
 一日に、六十人のお客をとったという女があらわれたのも、その頃の話です。
 そのときは、ペーデイだったのです。朝から、横になったきりで、食事も、ねながらとるという調子だったそうです。
 でも、そのひとは、もう、それっきり起てなくなって病院へおくられましたが、すぐ死にました。精根をつかい果したのだと思います。


 そんな毎日毎日がつづいても、お客は、あとから、あとから、増えるばかり、収拾のつかない混乱におちいってしまいました。
 女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも、使いものにならなくなれば、困ります。
 御主人は、銀座のR・A・Aに、応援をもとめました。
 R・A・Aの方では、はじめの失敗にこりて、今度は、新宿や、吉原からあつめた玄人の女を、補充に三十人ほど、こっちへ送り込んできました。
 そして、R・A・Aの方へ応募してくる素人の娘さんは、一たん吉原などへ送り、そこで、泣いたり、わめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。
 今度きたひと達は、何といっても、そういう事には、なれている人達ですから、一晩に十人や二十人のお客をとるのは平気です。
『それでもねえ、やっぱりなんだかヘンよ、軀がちがうでしょう? それに言葉は通じないし、おまけに、向うでは、女の御機嫌をとろうと思って色んなことをしてくるでしょう?――こっちは、生じっか、そんなことされないで、早く切上げてくれた方がいいと思うんだけど……』
 などと、くわえ煙草で私たちに、そんな事を打ちあける人もいる程、なれていました。
 この人達がきてからは、大分、うまく行くようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。
 はじめにきた三十人に女のひとは、その二三ヶ月の間に病気になったり、気がちがったりして、半分ほどになっていました。
 しかし、その半分のひとも、現在では、きっと一人も、この世のなかに残っていないと思います。それほど、ひどかったのです。まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまるひとたちでした。とても、人間だったら出来ないだろうと思われることを、若い、何も知らない、娘さん達がやったのです。そして、ボロ布のようになって死んで行ったのです。
 あのひと達は唯喰べるために死んだのです。
 そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。
 お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林とつづいて開業しましたので、うちへ入るお金も、自然、少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。
 でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがって行くのが、私たちにも分りました。
 若いお嬢さん風の女のひとが、玄関に入ってきて、主人に『働らかせて下さい』とたのむ事がありました。
 理由をきいてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家へかえれないから、――というのでした。
 そうして自分から、アメリカ兵に、こびを売る女になっていくひとも何人かありました。
 今、思うと、こうして、あの頃、東京中にパンパンなるものが生れつつあったのですね。
 私は、それから、何ヶ月かたって、とうとうアメリカ兵の一人に、犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思いだすと、悪夢のように思われます」

 こうした女性の「悪夢」のような半生の体験談に、占領された側が強いられた生き方の一断面を見て、哀しみと怒りを覚えるのは、筆者一人ではないだろう。(文責:編集部MAO)

(文責:編集部MAO)