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POSTSCRIPT拾遺記

VOL.3
番衆 三光さん

「重ね地図東京マッカーサーの時代編」の執筆陣が、それぞれのテーマに関して、紙幅の
関係で書ききれなかったことや書き洩らしたことなどを、改めて記載するコーナーです。

第3回 番衆三光さん
「新宿に戻り甲州街道へ――Hアベニューのパトロール」

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今回もつづいて、原田弘の『MPのジープから見た占領下の日本』から、引用する。

 

■甲州街道はのどかな田園風景が広がっていた
 Hアベニューのルートは、新宿旭町から下高井戸→千歳烏山→府中の甲州街道である。
「伊勢丹の交差点を曲がって、今度は甲州街道へ向かう。甲州街道の両側も焼トタンの壕舎や建物疎開のあとばかりで、いまだに復興していないところが随所にあった。当時の京王車庫は新宿南口を出ると、甲州街道上をしばらく走り、そこから街道の南側の専用軌道に入って並行して走っていた。
 甲州街道は青梅街道より昔の姿をよく残していた。藁葺き屋根の農家もあるし、寺もある。給田付近に来ると、竹林がいたるところ残っており、欅、杉林などのいかにも武蔵野を思わせる景色が展開して、私たちの目を楽しませてくれた。烏山の駅など、まだ郊外の駅らしい貧弱な建物だった。烏山、芦花公園の田園風景は暑いときでも寒いときでも、私の気持ちを和やかにしてくれたものであった。
 昭和23、4年ごろの世田谷は、人口も37万ぐらいと少なく、西半分は農村地帯で、富士の霊峰が望まれる空気の澄んだ、素晴らしい地域であった。いまの南烏山3丁目付近の旧甲州街道からは、一面に青々とした田んぼが眺められた。このころは青梅街道も甲州街道も、遠望を遮るような高い建物は少なく、青空がどこまでも広がっていたのである。
 芦花公園付近の粕谷の里には藁屋根の鎮守様があり、石仏がありと、まさに徳富蘆花の『みみずのたはごと』の世界がそのまま残されていた。そんな農道を走るのに、ジープはまことに便利なもので、そうとうに狭いところでも、急な小山でも、平気で登り下り走ることができた。MPも単調な街道ばかりパトロールするより、こんな裏道を走り、日本の農村風景に接するのを喜んでいたようであった。ときに農家に立ち寄り、庭先にジープを乗り入れ、冷たい水などを飲ませてもらうと、村の人々が集まって、珍しそうにMPやジープを取り囲んだものである。
 牛や馬に引かせた荷車で運ぶ人糞桶に出会うことも珍しくなかった。人糞車、つまりオワイ車はMPたちをいたく喜ばせた。彼らはそれを発見するたびに、「オー・ハニー・バゲット! ワンダフル」などと大声を上げて喜んだ。なかには面白がって馬方をからかいながらカメラでその姿を撮影したり、また、荷車の速度にあわせて、ゆっくりと並走するMPもいたと聞く。
 まだ環七も環八もなかった時代だが、昭和20年代はまだ一般車両も少なく、信号機などはほとんどないし、主要交差点には交通巡査が立って整理しているので、交通渋滞はまったくなかった。Kアベニューの速度制限は25マイル(40キロ)であった。都内は川越街道や第二京浜を除いて、この25マイル制限がおおかただった。ジープは最高60マイル(100キロぐらい)が限度で、ジープの追跡で捕まるスピード違反などというのは、たいしたものではない。乗用車が本気でスピードを出せば、ジープでは追いつけるものではなかった。
 甲州街道のシティ・リミットは給田の先のガソリンスタンドのところで、若干仙川のほうに入り、回れ右をする。こうしてお定まりのコースを一回走り、都心に戻ってパレスハイツ・ドライブインやパーシングハイツ・ドライブイン(市ヶ谷旧陸軍省跡)などで小休憩をとると、だいたい午前中の警邏は終わる」。
 以上が占領期当時の甲州街道の姿である。

番衆 三光(フリーライター)

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    戦後の新宿周辺地図
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    現在の新宿周辺地図