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INTERVIEW日本占領の時代について話を聞く

VOL.2
北野邦彦さん

ここでは、当時を経験し、
その時代の空気を吸っていた人からの経験談に耳を傾けていきます。
第2回は、「太宰治の死」について
北野邦彦さん(PRコンサルタント、もと帝京大学教授、電通)からお話を聞きます。

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―太宰治の桜桃忌が今年も、6月19日の今日、めぐってきました。戦後の文壇に大きな足跡を残した太宰治が心中したところに近いところで幼少期をすごしたそうですね。彼と、今日ご参列した桜桃忌について、お聞かせ下さい。

北野:太宰治は1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれ、マッカーサー時代の真っただ中、1948年6月13日、東京都三鷹市と武蔵野市の市境を流れる玉川上水に投身自殺。遺体は奇しくも38歳の誕生日となる6月19日に、1キロ程下流で発見されました。
三鷹市下連雀にある禅林寺の太宰治の墓前では、毎年6月19日、彼の作品『桜桃』にちなんで作家の今官一が名付けた「桜桃忌」が行われます。
太宰治の没後70年近くを経た今年も、降りしきる雨の中、数多くの太宰ファンが墓前に集まり、酒やサクランボを供えて、在りし日の太宰治を偲びました。
この黄檗宗の禅寺、禅林寺には森鴎外の墓もあります。1939年に三鷹に新居を構えた太宰は、禅林寺にある鴎外の墓を訪ね、静謐な境内の雰囲気が気に入り、自分の墓をこの寺に建てることを希望します。
太宰の死後1年目にその願いがかない、太宰治の墓は鴎外の墓の斜め向かいに相対して建てられました。
森鴎外の墓には、本名の森林太郎としか彫られていません。鴎外は遺言で、生前の名声を一切排し、「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」と残したからです。石見とは、鴎外の郷里、島根県西部を指します。
森林太郎が文豪・森鴎外と同一人物とは知らない「今時の若者たち」は、鴎外の墓所に腰掛け、サクランボをつまみに酒を酌み交わし、在りし日の太宰の姿を追っています。
「昭和は遠くなりにけり」です。

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太宰が入水した現場・玉川上水


―太宰治が入水した玉川上水は水量も少なく、とても人が溺れるような川ではないと思われますが……。

北野:当時の玉川上水は、東京の新宿区、中野区など、23区のうち、西側地区に水道水を供給する重要な上水道でした。水深は1メートルをはるかに越え、深い緑色をした川の水量は豊富で、流れも速く土手には柵もない。川の断面は真中がくびれた瓢箪の形をしており、瓢箪の下段は渦を巻いており、その渦に巻き込まれたら、容易に上段に浮かび上がってくることはないと言われていました。落ちたら先ず助からないので「人喰川」と呼ばれ、近隣の住民から恐れられた川でした。
太宰が入水自殺した1948年6月、私は三鷹第4小学校5年生でした。学校の近くを「人喰川」の玉川上水が流れており、学校への行き帰り、玉川上水の土手には絶対に登ってはならないと、先生からきつく言われていました。
太宰入水のニュースはクラスでも大きな話題となり、学校帰りに友人と連れだって、現場を見に行くことにしました。
三鷹駅のホームの真下を玉川上水が横切っています。南口から井之頭公園方面に歩いて行くと、むらさき橋の手前に小さな石碑が建っています。車道を挟んだ反対側が入水現場とされる場所です。石碑は太宰の故郷、青森県金木から運ばれた「玉鹿石(ぎょくかせき)」。碑文はありません。
70年近くも前のことですが、私たち小学生に近所のおばさんが、「ここが入水現場なのよ」と教えてくれたことを覚えています。確かに、草が倒され、何かがずり落ちたように土が削れていました。この場所から、愛人の山崎富栄と絶対に離れないようにと、帯できつく結び合った太宰が滑り落ちて行ったのでしょう。土の削られた土手の様子は、今でも目のあたりに浮かびます。
70年近くを経た今、上水道としての役割を終えた「人食川」は水深20~30センチほどの流れとなり、コイや水鳥が泳いでいます。
昭和はますます遠のいて行くようです。

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    太宰の故郷から運ばれた「玉鹿石」
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    「玉鹿石」石碑
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プロフィール:北野 邦彦(きたの くにひこ)
略歴:1937年東京生まれ。
早稲田大学商学部卒。
電通広報室長を経て、帝京大学文学部社会学科教授、
現在PRコンサルタント。