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 Vol.72 小川 真理生さん

「日本交通公社七〇年史」

COLUMN「日本交通公社七〇年史」その4

VOL.72
小川 真理生さん

ここでは、「日本交通公社七〇年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第72回「日本交通公社七〇年史」その4

article

 今回は、「日本交通公社七〇年史」の「第三章 あっ旋代売部門、苦難の再出発」を紹介します。

 戦後の再出発は、まさに苦難に満ちたものであった。創業以来戦前、戦中を通じ営々と築いてきた基盤を一気に失うかとさえ思えたほどの衝撃の中で、しばし社業の前途に不安をつのらせる日々が続いた。
 戦災により多くの事務所を失うという痛手を受けながら、戦時中の兵員、軍需、疎開等の輸送に、厳しい統制下のほぼ旅行禁止に近い状況での乗車券発売などによって、わずかに糊口をしのいできた内地のあっ旋代売部門も同様であった。
 しかし、その間も、戦後、社に課せられた新たな使命達成のため、一日も休むことなく営業は継続されたのである。
 事務所の復旧も未だしであった。統制は徐々に緩和されていったとはいえ輸送事情は一時むしろ逼迫し、殺到する乗車券購入客に早朝から忙殺され、引揚者輸送のあっ旋その他に、言語を絶する労苦を強いられた。平和の喜びはひしひしと感じながらも、国内世情の不安と生活苦は容赦なく社員を襲った。
 こうした苦難の中で、昭和二十年、そして二十一年はまたたくまに過ぎ、ようやく落ちつきをみせはじめたのは二十三年頃からであった。
 この状況を、二十一年度以降の各事業報告によって順次追ってみる。
「数次にわたり行われた国鉄の列車運転縮減に因り、旅行の制限はいよいよ強化され、これがため当社の旅客斡旋及び旅客交通関係事業の部面においては必然的少なからぬ影響を受け業務運営上苦難を免れなかったが、しかもこの悪条件下に斡旋網の拡充、海上及び地方交通機関の乗車船券新規委託販売開始、聯合国関係俘虜及び中華民国人並びに朝鮮人の帰還輸送斡旋、外地引揚邦人の輸送斡旋、ホテル及びホステルの新規開始等着々予定の事業を遂行した。」と。さらに二十二年度は、やや状況も好転の兆しをみせその事業概要報告は
「国内一般は漸く敗戦の虚脱状態を脱して、混沌の中にも希望の光を求めてやまない方向に向っていった。戦禍賠償の重荷の重荷の下に、観光事業こそわが国のよって立つべき重要産業であるとの関心が、国内に澎湃として起ってきた。」とする反面
「然し乍ら、公社を財政的に見るときには、矢張り御多分にもれず、創立以来最も困難なる事態に直面し、これが打開に万般の措置を講じた。」
と、引き続く苦難の様相をにじませている。そして昭和二十三年度は、
「わが国観光事業にとって極めて多彩な一年間」
として、訪日観光者往来の活発化、案内所網の整備拡充、案内あっ旋資料の充実、旅館券・船車券・旅行傷害保険等社本来の業務のあい次ぐ復活、あるいは観光事業審議会の設置などをあげ、ようやく社業再建への確実な足どりをみせるにいたった。
 この戦後の数年をみたとき、やがてその直後の二十四年国鉄手数料のうち切りをはじめ、社を襲った多くの試練をむしろ、明日の発展への糧として活かし、社業にとって、また、あっ旋代売部門にとっても、その推進の方向をほぼ確立した時期であったといえよう。

事務所機能と営業体制の整備
 四〇数か所に及ぶ戦災事務所の復旧と戦後に即した市中事務所の新設はとくに急がれ、二十三年末には、ほぼ全国店舗網の整備を完了した。
 この間戦後の事務所整備にあたっては、利用者利便、業務能率あるいは戦後にふさわしい店内雰囲気の創出などの面から、その構築、レイアウト等にも特段に意が用いられたが、の十一年二月、社内一般に対し「模範設備設計図案」の懸賞募集が呼びかけられたのも努力の一端であった。

「事務所模範設計図案」募集の概要
種類 広さ 二〇坪、三〇坪、五〇坪の三種(平面図)
提案事項
事務室、客溜、食直室(含、湯沸所)、両便所、所員休憩室、補助事務所、物置等
カウンターに対し事務机配列の関係(カウンターの一部を窓口式とする場合も考慮)
接客係の常時位置とカウンターとの関係
乗車券発行所(係)とカウンターとの位置
出納係と旅客との金銭授受の関係
所長、係長の位置、金庫、書籍、乗車券保管箱の設備箇所
客溜に設備の旅客専用机、ソファー、掲示板等の位置
食直室の設備 机、椅子の大きさ、その他気づきたる点

 二十四年一月には、「案内所業務の能率的遂行方法」についての社内提案が求められている。
 いっぽう、二十三年四月、事務所を「案内所」と改称、翌二十四年四月、同一地区、近隣案内所相互の営業推進の緊密化、効率化のための管理案内所制、さらには、二十七年十月、甲・乙案内所制の施行など制度、運営面の改善、整備が積極的にはかられ、また、これらの設備、制度の整備と相俟った各種月間の設定や運動が活発に展開されたことも、二十年代前半における特色であった。
 これらの運動を通じ、戦後の暗い世情に明るさをとりもどし、社内に向っては、サービスの本義をあらためて確立し業務知識の向上、営業の増進に寄与したところはきわめて大きかった。その主なものを挙げれば次のとおりである。
 二十年十一月 営業事故絶滅月間(運輸省に協賛)
    十二月 同継続
 二十一年四月 サービス昂揚運動(目的)
     一. 社員道義観念ノ昂揚、職責ノ自覚
     二. 業務知識ノ向上、充実
     三. 接遇態度ノ改善
     四. 服装整正、内外ノ掃除整頓
     五. 切符発売ニ関スル取扱ノ公正化
     六. 所長ノ率先垂範
 二十二年六月~七月 業務刷新月間(目的)
     一. 使命認識の徹底と責任の明確化
     二. 業務処理の積極計画化
     三. 公社機能の最高度の発揮
     四. カウンター事務の明朗、刷新化
     五. 接客方法の改善・向上
 二十二年七~八月 「明るい鉄道にする」運動(運輸省に協賛)
 二十三年十~十一月 「旅を明るくする」運動
           (国鉄、第二次「明るい鉄道にする運動」に協賛)
  (実施項目)
     一. 案内斡旋の明朗親切化 カウンター事務の明朗敏速化、接遇用語の簡明、
       態度の適正など
     二. 旅客接遇施設の改善整備 練達社員のカウンター配置、掃除・美化、
       商品陳列の工夫・ショーケース整備など
     三. 公社機能の最高度発揮 駅出札との相違、組織網の活用、
       特有制度の一般周知など
     四. その他規律の厳正
 二十五年三~四月 「旅行を楽しくする」運動(国鉄と同調)
  (実施項目)
 一. 基本的サービスの確立(略)
 二. 旅客誘致の積極的展開
     一. 旅行の奨励 団体募集の積極化、関係運輸機関との連絡強化、協定旅館サービスの向上、学校・会社・諸団体との連絡強化、月掛旅行、クーポン制度などの普及その他
     二. 宣伝の積極化 標語・ポスター・ラジオ放送、「旅」による懸賞設定、標語等掲載
     三. 社風の刷新(略)
 二十五年十~十一月 乗車券類発売増強期間
    (対外的には「親切月間」とし、胸リボンを佩用)
    統一ステッカー掲出
    (外部用)親切第一
         明るいサービス楽しい旅路
         お客の立場で明るいサービス
    (内部用)増収で暮しも楽に社の楽に
         増えるお客に明るい公社
         秋だ旅行だ増収だ
 二十六年一~三月 第二次乗車券類発売増強期間
 二十八年四月 旅館券普及月間
 二十九年二~三月 「責任あるサービスの確立」運動
    (主要着眼実施事項)
     一. サービスに責任を持つこと
     二. クイックサービスを旨とすること
     三. 接客用語に意を用いること
     四. 電話の応答に注意すること
     五. 応接態度は明朗、親切、公平を旨とすること
     六. 受入斡旋を強化すること
     七. 案内所の掃除美化を完全に行うこと

 「旅行部」の設置
 戦後への新たな構想にもとづく組織づくりが、終戦と同時にただちに着手された。
 二十年九月一日、内地支社業務を継承した業務局が発足。この業務局のもとに、特務室、総務部、弘報部などとともに置かれた業務部が、のちの旅行部の前身となるものであった。十一月、支社制移行によって地方機構が整備されたのを機会に、業務局体制が解かれ、同時に分掌その他の制度事情も整い、業務部として戦後の体制が確立した。
 戦後初代の業務部長には、引き続き高橋蔵司が就任したが、課編成および各課分掌事項は次のようなものであった。

 

 業務部の課編成と分掌事項
 〔事業課〕
 旅客輸送ニ直接関係アル事業ニ関スル事項
 旅行者ノ便ニ供スル業務ノ契約及取扱ニ関スル事項
 部内他課ニ属セザル事項
 〔旅行課〕
 本邦内陸上交通機関ノ乗車券類受託販売契約及実施ニ関スル事項
 旅館券ノ契約取扱ニ関スル事項
 本邦内陸上旅行ノ斡旋ニ関スル事項
 団体輸送ニ関スル事項
 陸上旅行二関スル諸情報並資料ノ蒐集作成及配布ニ関スル事項
 本邦内交通及旅行施設ノ調査ニ関スル事項
 旅行業者ノ指導ニ関スル事項
 〔海運課〕 
 本邦内海上交通機関ノ切符類受託販売契約及実施ニ関スル事項
 本邦内海上旅行ノ斡旋ニ関スル事項
 海上旅行ニ関スル諸情報並資料ノ蒐集作成及配布ニ関スル事項
 〔審査課〕(略)
 〔旅館事務所〕(略)

 因みに、このとき「事務所規程」が同時に制定され、その業務として第一条は
 一. 旅客交通ノ指導斡旋
 二. 乗車船券類ノ発売
 三. 時刻表其ノ他旅行関係図書ノ販売
 四. 交通並ニ国情文化ニ関スル宣伝紹介
 五. 前各号ノ外当社ノ目的ヲ達成スル為必要ナル業務
と簡明に規定している。主体は乗車券類の発売であるが「指導斡旋」「交通並ニ国情文化ニ関スル云々」の文言に、“旅客交通指導斡旋事業”と称していた当時らしさがある。

 「旅行部」へ
 二十四年六月、国鉄手数料停止という非常事態に直面し、種々うち出された打開策の一環として本社機能の再構築が行なわれた。そのねらいは管理部門の思いきった縮減にあったが、業務部については、構内営業、保険関係業務を新設の事業部に移行、いっぽう文化事業部の解体に伴う宣伝、旅行倶楽部などの旅行文化関係業務を吸収し、同時に名称も「旅行部」と改められた。
 旅行課、海運課、審査課の三課からなり、部員は、部長(初代、吉本元輔)以下三〇名であった。
 爾来、二十六年四月、調査宣伝課の設置、二十七年十月にいったん分離独立した団体部を、翌二十八年四月の本社局制施行に際して再び旅行局に編入、同時に審査課を総務局に移行、二十九年九月、調査宣伝課を「文化課」と改称するなど、社業の進展に即し、国内旅行営業推進の中核として体制機能の充実整備がはかられていった。
 いっぽう、地方組織についても、二十年十一月、鉄道省各鉄道局ごとに置かれた地方部を「支社」制に移行、その後変遷を経て二十五年十一月あらためて札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、門司(のち二十七年十月、国鉄機構改正に伴う駐在総支配人の所管区域名称にあわせて、北海道、東北、関東、中部、関西、西部とそれぞれ改称)の六支社制がしかれた。
 また、当初、各鉄道局内にあった支社事務室も順次市中に移転し、その間、支社の課や案内所の係の増設が進むなど、中央、地方をあわせた組織体制の充実強化が積極的にはかられた。

 乗車券の統制、制限から自由発売
 戦時中から実施されてきた国鉄乗車券の統制発売は、二十年十月末に旅行統制官、統制官事務所の廃止によって解かれたが、輸送事情は依然として深刻で、しばらくの間はきびしい制限発売が続いた。
 因みに、当時の列車事情は、車両の戦災のほか貨物輸送に重点がおかれ客車の新造が全くかえりみられなかった十七年以降の戦時中の酷使による休・廃車、不完全車に加えて、最高時一〇〇〇両を超す連合軍輸送への調達などにより半減し、やむを得ず旅客輸送の一部に貨車を代用するといった状況であった。さらに二十年十二月以降二十二年前半にかけて極度の石炭不足から状況はいっそう悪化し、引揚者輸送、学童疎開の復帰輸送、食糧買出しなどで戦前の三倍を超える旅客数に対し、列車キロの対前年指数は六六%(二十二年度)と反対に低落し、主要列車は三倍から四倍、一両三〇〇人という超混雑ぶりを示すなど混乱の極に達した。
 従って、発売制限枚数はまたたくまに売り切れとなり、切符入手のために早朝からの行列を幾日も繰り返すという有様であった。このため社の担当社員は早朝出勤による行列整理を余儀なくされたが、受付、発行、引き渡し、代金収受など殺到する窓口客への対応で開店時の社の事務所は戦場と化し、いったん行列整理の不手際でもおこれば、旅客どうし、係員との間に飛び交う怒声で喧騒を極めた。
 二十一年に発足した国鉄の車両整備五か年計画の効果が徐々に現われ、石炭事情もようやく好転した二十二年後半には、制限発売も一部区間を残して緩和され、非常措置として全廃されていた急行列車や二等車も復活し、停止されていた二等往復乗車券の発売、学生定期券の使用内容ども順次解除されていった。しかし増大の兆しをみせ始めた一般旅行は、依然混雑に揉まれ、快適な旅行というにはほど遠い状態であった。
 二十三年十一月、特別寝台車が東京・大阪間に主として外国貿易業者・観光客用として設定されたのに続き、同十二月には、東京・博多間、上野・青森・函館・札幌間にそれぞれ設定され、社の各地主要案内所で取扱を開始した。さらに翌二十四年九月の時刻改正を機に、東京・大阪間を九時間で走る特急「平和」が実現した。三等三両、二等四両、戦前の車両ながら展望車、食堂車を連結したこの「平和」号(翌二十五年一月、愛称公募により「つばめ」と改称)は早速人気の的となり連日満員の盛況であった。
 二十五年五月には、「つばめ」にリクライニングシートを使った新造の特別二等客車が連結され、姉妹車「はと」も誕生。その年十月の時刻改正では、「つばめ」「はと」の戦前の八時間運転復活のほか、新製車両も数多く投入され、スピードアップや主要線区の急行列車増発、「銀河」「彗星」「北斗」等の急行愛称名が登場するなど、列車事情はようやくこの頃からは好転し、旅行者の往来も活発化していった。

 「湘南行き週末臨時列車」の運転
 二十三年十一月から十二月にかけて運転された「湘南行き週末列車」は、当時としては非常に画期的なものであった。
 これは、その年十月から実施され、社も「旅を明るくする」運動として共同参加した国鉄の「明るい鉄道にする」運動の一環として、新橋管理部がとりあげたもので取扱いは全面的に社にゆだねられた。社の集客あっ旋努力により、箱根、湯河原、熱海、伊東、三島の温泉地に九回、約九〇〇〇人の実績をあげ、復活後間もなかった「旅館券」とともに各方面から大きな反響を呼び、終戦後の混迷する世情の中で、一般大衆に明るい話題を与えたものとして特筆されよう。
 車両の整備が徐々に進んだ二十五年三月には、東海道線に新造の「湘南型」電車が登場し、オレンジとグリーンに塗りわけたスマートなツートンカラーが人気をさらい、また、一五両という編成がその後の電車による長距離、長大編成運転の先駆けとなった。

 「旅館券」の復活と各種クーポンの整備

二十三年十月、「旅館券」が早くも復活した。
 旅館の取扱いについては、二十一年十月には社が直営する十和田ホテル、松林館に対し当分の間として「旅館券」の発行が開始され、また、戦時中戦局の急迫と焼失などによる休廃業旅館が徐々に復旧されつつあった二十二年四月、「旅館予約券」が制定され、予約料金と通信費を徴し、現地で差額を支払うという方法ですでに取扱いが再開されていた。
  表 20年代の旅館業の推移
    協定旅館数       送客数
23年  1093軒
24年  1983軒        125万人
25年  2196軒        175万人
26年  2696軒        247万人
27年  2631軒        380万人
28年  3000軒        421万人
29年  3300軒        480万人
30年  3700軒        520万人

 予約券の初年度の協定旅館数は全国で五五七軒、予約料金は当初三〇円から出発し四か月後の八月には九〇円に改められたが、はげしいインフレ時代にはかえって取扱いが煩瑣となるためなかなか定着せず、宿泊料金による本来の「旅館券」の復活が一般旅行者、旅館業界から強く要望されていた。
 復活時、約一〇〇〇軒であった協定旅館数も、一年後の翌二十四年度末には約二〇〇〇軒に倍増し、復活当初の目標であった“年間一〇〇万人送客”も、二十四年度には一二五万人と予想を上回る成績をあげ、爾来、折からの旅行の活況と旅館側の積極的な支持協力によって協定旅館数、送客数とも飛躍的な増加を遂げ、昭和三十年度末にはそれぞれ三七〇〇軒、五二〇万人にまで成長していった。
 復活した旅館券に対しては、戦前の慣行を改め初めて手数料が収受されることになり、当時危急をきわめた社財政の上で重要な役割を果たすこととなった。この実現に関わった担当の旅行課長山口廣は当時の模様を、
「タリフ料金については別段反対はなかったが、こと旅館からの手数料収受の件になったら一部の先輩から猛烈な反対が起った。“君はJTB精神を忘れたか。旅館から手数料をとるなどとは以っての外だ!と。ビューローは創業以来営利を追求することはなかった。必要経費はビューローを維持する会員の拠出する会費で賄なわれ、旅客接遇のよりよき手段として発売する乗車券類からの手数料は付随的な収入で、絶対必要な収入ではなかった。(中略)敗戦でどん底生活の毎日であり、満支、南方からは多数の同胞が帰国しつつありビューローも外地社員の受入れに苦労しつつある時代であったにもかかわらず、この旅館券による新たな財源をも拒否しようとする体質であった」
と述べている。結局手数料は、大正十四年に制定された戦前の国鉄遊覧券制度の中で、遊覧券の売上は年々倍増するのに、肝心の旅館券はその後、昭和七年に発売が開始された単独旅館券も含めて売上が思わしくなかったのは、第一に規制で制約され、何年も固定されたタリフ料金が旅館の実情に合わず「ビューローの旅館券は結局廉かろう悪かろうで一度これを利用した人から口コミ宣伝は皆無どころか逆宣伝を受ける場合の方が多かった」ことと、第二に無手数料であったこの二点に原因があったという反省から、「料金を固定させないことと手数料をとること」を説いた努力が実り、原案どおり陽の目をみることができた。同じく山口は、手数料について、
「いろいろ掘りさげてみたが、極めて心理的な要因があるのではないかと思った。当時の旅館券契約書は、鉄道・ビューロー・旅館の三者契約で、その附属協定書で取扱い方を詳記する中に、手数料のくだりがあった。それによるとツーリストビューローは、旅館券発行手数料として、旅館から五歩の手数料を受けることになっていたが、『但し、当分の間これを収受せず』と明記させていた。ビューローは遊覧券の発売により、鉄道、私鉄、バス会社など交通機関から等しく五分の手数料を受けとり、旅館から同率の手数料を貰う建前であったが、これを辞退するのはその分だけお客を大切にして欲しいという高邁な精神からでたものであった。結果としてはこの厚意も旅館からは、それほど評価されなかったようである。(中略)旅館券の不振の原因は案外この手数料にあるのではないかと判断した。人間は極めて商業的にできている。旅館券の発売にまで漕ぎつけるには、当時、お客への説明が大変であった。お客が承知すれば旅館との連絡、発行すれば代金の受取り、保管、送金、それに当然ながら日報、月報のペーパーワークがつきまとう。少しでも収入になるならともかく――と思った」
とも述懐している。このねらいは、果たして的中し、復活と同時に取扱いは著増した。
 その後、「団体旅館券」の設定(二十六年三月)、通信費収受の廃止(二十七年十月)、利用者への「投書用はがき」の作成配布(二十六年四月)など利用促進のための制度、運営面の改善がはかられ、次に述べるその他の各種クーポンの復活、契約、制度の整備と相俟ち、“交通公社の「旅館券」”として、今日にいたる不動の地位を確立した。
 因みに、旅館券、船車券などのクーポン様式が、現在の横型となったのは二十九年十月である。

 「船車券」その他各種クーポンの復活

 いっぽう、旅館券と並ぶ各種クーポンの復活と関係諸制度の開発、整備が急がれ、前出の旅館券とあい前後して、二十三年六月「船車券」が、二十四年五月「観光券」と六月「写真クーポン」がそれぞれ復活した。

 船車券
 当初、契約社数は遊覧自動車八社を含め七三社であったが、二十四年度末には一七四社、二十五年度末には二二八社と拡大し、復活六年目の二十八年には、この間の制度自体の改善、クーポン旅行の普及と相俟って利用者も著増し、契約社数も陸・海交通機関の大部分に及ぶ三五〇社と、ついに戦前最高時の三〇〇社を凌駕するにいたり、さらに三十年度には四四一社、取扱額も約一九億円と急成長を示した。
 とくに、全国的な観光バスのめざましい発達と利用者の増加が注目されたことであった。

 観光券

 戦前の社寺券を拡大し、その範囲は、神社仏閣、史蹟、名所に限らず、動植物園、博物館、劇場、博覧会をはじめ、遊覧船、釣船、温泉浴場、簡易宿泊所、駅弁などにまで及び、翌二十五年には、臨時契約としてキャンプ場、スキーリフトなども加えられた。契約件数、取扱額とも折からの旅行の活況、とりわけ団体旅行客の増加に伴って飛躍的に拡大していった。

 写真クーポン
 関東、近畿地区を中心に、東京二重橋前、上野公園西郷銅像前、鎌倉大仏境内、箱根芦ノ湖、京都清水寺、奈良春日神社その他主要観光地における三〇余の常駐箇所での「日本交通公社指定」取扱いを開始した。二十五年一月「観光(写真)券」として観光券制度に吸収され、二十七年六月、この前年設立をみた日本観光写真映画社との契約に基づき、日本観光写真クーポン連盟加盟業者三四名を各地に配置。さらに二十八年三月には、クーポン券に代わる紹介券方式、次いで予約券方式の採用、三十年六月補助クーポンの制定など種々の変遷を経て現在にいたっている。
 これら旅館券、船車券、観光券などの復活によって、戦前、幅広い信頼を得、旅行の普及発展に永年にわたって寄与してきた。“ビューローのクーポン”が、内容、装いも新たにほぼ復元し、戦後の宿願であった旅行総合あっ旋機関としての本来の使命回復に向って、大きな一歩を印すことになった。

 「トラベル・クーポン」の発足
 二十四年十一月「遊覧券(トラベル・クーポン)取扱手続」が、その前年六月の旅館予約券を前提とし内容は不十分ながら「クーポン取扱手続」に代って制定され、やがて実現をみた「周遊券」復活への道をひらいた。
 この「トラベル・クーポン」は、国鉄運賃の割引こそ適用されなかったが、国鉄委託乗車券、旅館券、船車券または観光券を構成条件とし、
 一. 遊覧地についての詳細な案内、報道並びに旅程作成の便が得られる。
 二. 遊覧目的地、経路、所要乗物及び旅館の選定並びに宿泊又は食事料金の決定が容易である。
 三. 各地における乗物及び旅館に対して予約の便がある。
 四. 旅行出発前に所要経費が確定でき、各地において切符を購入するの煩がなくなる。
   従って現金携帯の危険が解消され又旅行が極めて快適、気軽且つ経済的となる。
 五. 各遊覧地の設備並びに「サービス」の向上改善を促す。
   (制定にあたっての社報「注意事項」より)
と、利用者の利便性が大いに強調された。
 また同時に、この年の六月に実施された手数料うち切り以来、国鉄としての旅客誘致策の一環として、一部券種にとられてきた社に対する対価の保証、すなわち「割引制度」の実質的拡大、さらには、やがてうち切り以前の水準への手数料回復を意図した布石の意味がこめられたのであった。
 因みに、遊覧券として発売される国鉄の特殊委託乗車券の表面には◯遊と、特別急行券、寝台券に伴う乗車券裏面にはそれぞれ◯L、◯Sとゴム印で表示されたが、これがその後、国鉄指定券類に対する社内の通用語となった「LS(エルエス)」の起こりといわれている。
 爾来、これらクーポンは年ごとに著しい伸長を遂げ、“交通公社のクーポン”として一時代を画することとなった。

 各種契約の推進
 戦後、いち早くとりくみを開始したものに、各社線、船舶会社などの乗車船券類受託販売契約の促進と公社各種クーポンの復活、整備がある。
 各種クーポンの復活については前出のとおりであるが、各社線、船舶との契約はこれに先んじ、終戦と同時にただちに開始された。
 戦時を経、終戦直後の混乱の中で、これらの復興、運行の状況もつぶさには把握しにくく、加えて、すべての点で連合軍の占領政策の帰趨も推しはかりかねる状態ではあったが、旅客利便の確保、社業再建の上で一日も早い実現が求められ、戦後の新しい関係にたった戦前契約の更新や新規の契約が、各支社、各現地案内所を動員して精力的に進められた。
 二十一年には、すでに東海汽船、関西汽船、船舶運営会など船舶七社をはじめ国際自動車などの陸上部門、さらには東京都との都電定期券その他の取扱いが開始され、翌二十二年には、新造四隻の配船を含めようやく海運界の復興も軌道にのったほか、各地社線の復旧も徐々に進み、契約社数は着実に拡大していった。
 この間の船舶についていえば、二十一年八月には関西汽船別府航路が、「すみれ丸」「にしき丸」「こがね丸」の三隻による定期就航を早くも開始、同年十一月、船舶運営会「花咲丸」による小樽・新潟間定期就航、同十二月、大阪・長崎間に、翌二十二年三月には、シアトル航路から転船された「氷川丸」が室蘭・横浜・大阪間に就航する等々、折からの鉄道削減による輸送緩和策として定期航路が開設され、また、西南諸島間、北九州各港・壱岐・対馬、下関・今治、東京・木更津などの内近海航路もあい次いで再開された。
 いっぽう、新造船も徐々に姿をみせ、二十二年五月、東海汽船の「黒潮丸」が東京・八丈島間に、わが国最初の本格的流線型船「あけぼの丸」が東京・大島間にそれぞれ配船されて話題を呼ぶなど、海上旅行への一般の関心が深まっていく。
 こうして、契約社数も二十五年には三八社を数え、ほぼ全国の航路を網羅するにいたった。

 国内航空路の再開
 戦後中止されていた国内航空路が、二十六年十月、日本航空による東京・大阪間三便、東京・大阪・福岡間一便、東京・札幌間一便が定期として再開された。実に六年ぶりの“日本の空の復活”に、当時としては東京・大阪間五〇〇〇円、東京・福岡間九六〇〇円と割高な運賃であったにもかかわらずたちまち利用者が集まり、二十七年三月までの六か月間に延べ約五万人を運ぶ好調なスタートであった。
 社は、日本通運、阪急電鉄、西日本鉄道など他六社とともに取扱いを開始し、当初は全国主要一八案内所と取扱箇所の限定を受けながら、二十六年度日本航空総発売額のほぼ三〇%を占める一億二七五〇万円、四五〇〇席を発売する好実績をあげた。
 その後、社の取扱箇所も、この好実績をバックに二十七年三月には二八か所、二十八年には七七か所と逐次拡大し、三十年には一一四か所となった。
 この間、二十九年十一月に日本ヘリコプター航空と極東航空が、三十年には、青木航空と中日本航空が就航するなど、空港、機材の整備相俟って航空界は活況を呈し、主要交通機関として目をみはる成長を遂げるにいたった。

 旅行傷害保険、JTB旅行小切手などの復活
 二十二年一月に「旅行傷害保険」の、二十四年四月に「JTB旅行小切手」の取扱いがそれぞれ再開された。

〔旅行傷害保険〕
 東京海上火災保険、日産火災海上保険の共同担保による乗車券用の「短期旅行保険」と定期券用の「通勤保険」との二種。「通勤保険」は、当時最悪の状態にあった通勤事情を反映したものであった。
 保険金はいずれも五万円が限度で、保険料は、一万円につき、「短期」七日間の一円から「通勤」六か月の一〇円までの五種類であった。
 その後、翌二十二年二月「団体旅行保険」が追加、二十六年十月、国内航空の復活と同時に「航空傷害保険(内地用)」が、一飛行片道、搭乗中の事故を対象に保険金一〇〇万円を限度として設定された。二十七年十月には新たに日本火災が加わり、東京海上火災保険を幹事会社とする三社により、あらためて「交通傷害」「団体旅行傷害」「海外旅行傷害」「航空傷害」の四種に分類整理され、ほぼ現在の祖型をなすにいたるなど改善がはかられるいっぽう、保険思想の普及も手伝って三十年には、一六万人の利用者を得るまでに定着し、爾来、伸長の一途をたどっていく。
 三十二年九月には、別府案内所が先鞭をつけていた宿泊盗難保険の取扱いが、社の負担にによる旅館利用者サービスとして全社的にとり入れられ、旅行に対する安心感を与えるものとして、旅行者、旅館から大いに歓迎され、今日の「旅館賠償責任保険」の発端となった。
  三十七年二月 「公旅連賠償責任保険」開始(公旅連)
  四十三年二月 (株)公旅事業振興会設立

〔JTB旅行小切手〕
 取扱再開の翌二十五年一月、新紙幣千円札の流通の影響と一般の理解不足もあって伸びなやみ、二十年代を通じて低迷を続けた。
 当初は、千代田銀行との提携であったが、二十四年六月国鉄代売手数料停止に伴う社の経営に対する銀行側の危惧から再開後わずか四か月でその存続が危ぶまれる事態になった。幸い、東京銀行の理解によって、新たに同行との提携が成立し、中断することなく継続することができたが、その際制度も一新された。
 発行の種類は、TA券五千円、TB券一万円、TC券五万円の三種で、通用六か月、限度額は一人一回五万円、団体旅行は一〇万円とし、請求者から一〇〇円、二五〇円の発行手数料が収受された。
 その後二十九年十二月、東京銀行の性格変更に伴い、富士銀行との提携に切りかえられ、同時に千円(A券)から一万円(E券)までの五種類に種類をふやし、発行手数料の軽減、発行限度額の撤廃など、利用者利便上の改善がはかられたが、期待したほどの実績を示さなかった。

〔両替商認可の取得〕
 二十四年六月、為替取扱銀行店舗、日本銀行税関代理店引受店舗に伍し、社の三四案内所が指定を受け、外資旅行小切手の買取りを開始した。また同年十一月「外国為替銀行との臨時措置に関する政令」公布と同時に大蔵省の認可により、社の「両替商」として、取扱案内所は「両替業務を営む店舗」として取扱いを開始し、二十四年度の買取り約四万一〇〇〇ドルの実績をあげたことは、特筆されることのひとつといえよう。

 このように、戦後この短時日の間に払われた契約、制度に対するとりくみは、およそ旅行に関するあらゆる分野に及び、しかも、それぞれについて、必ず好機を逃がさぬ迅速性、新しい時代の可能性への限りない追求、めまぐるしい時代の変化の中で大局を誤らぬ的確な判断が発揮されたといえよう。また、ここに、戦後制度の源流をことごとく集めた感さえある。

 急がれた手配通信網の確立
 戦後、旅行業における作業の合理化、省力化は、大きくわけて、二つの面からとりくまれた。
 一. 手配業務の近代化
 二. 事務の合理化
である。とりわけ旅行業にとって、手配業務を円滑に処理するために、どのような通信手段を保有し、どれだけ広範囲に通信網を張り巡らせるかは、きわめて重要な営業課題であった。
 通信が現在のように発達していなかった二十年代においては、郵送か電話による以外に方法はなく、その電話も即時通信というわけではなく、手配完了まで、ときには一週間以上を要することも少なくなかった。
 いっぽう、旅行をとりまく環境は次第に好転し、当然社の通信量も増加し、これに対する新しい通信手段、通信網の基盤整備が急がれることとなった。
 中でも、主要観光地をもつ全国の受手配担当箇所を中心に各案内所とを結ぶ手配通信業務の改善は、旅客誘致の上で、もはや緊急のこととなっていた。
 因みに、二十年代後半における受手配箇所の実態を、そのひとつである南紀白浜を例にみてみたい。当時駐在していた嶋村隆の述懐である。
「この時代になると、東京方面その他の近畿以外からの個人や団体の旅行客が増えてきた。各案内所は、和歌山案内所経由か直接旅館に電話を入れ、ときには国鉄の白浜口駅を煩して手配を行なっていたが、あまりの業務量増のため手配が停滞し、駅、旅館からも解決策として公社社員の派遣が要請されてきた。そこで、当時和歌山案内所にいた私(嶋村)に、案内所在住のままでよいから、しばらく白浜口に駐在せよといわれ、その後二年程単身で現地に勤務した。
 宿舎は、雁風荘が提供してくれたが、常時は白浜口駅の事務室にいて、全国からの手配電話を受けた。電話がないときは駅員の仕事を手伝ったりしていた。
 鉄道電話がかかりにくかった時代で、いったんつながると長時間かかりっぱなしで、それも、すべて手配書に手書きで記入し、確認の復唱を繰り返すので、中には、一件でえんえんと五時間も要することもあった。東京の鷲津藤平などはその最たるものであった。変更や取り消しを含めて山積みの手配書から、一件一件旅館に手配してその結果を回答し、シーズン中は仕事が終るのは大概夜中になった。
 電話の声が遠く、ききとりにくいので自然声も駅中にひびきわたるような大きな声になり、周囲の雑音から少しでも逃れようと、机の中にもぐりこんで電話を受ける始末であった。
 そのうち、場所は新築のバス営業所にうつり、手配以外に、パンフレットをつくって宣伝をしたり、営業も少しずつ始めた。手配の方は、やがて大阪で鉄道管理局の一室を借り、支店輸送課の数名の手配センターができ、いくらか楽になったと思うが、それまでの白浜駐在は大変な仕事であった」
と。白浜に限らず、おそらく各箇所共通の状況であったであろう。

 テレタイプの導入
 こうした状況の中で、昭和二十八年十一月、本社・関西支店間に初めてテレタイプが設置され、メッセージ通信が開始された。続いて、翌二十九年六月東北、北海道、同年九月中部、三十年四月西部と各支社に設置を完了、さらに全国網へと拡大していくこととなる。総務課長の秦正宣(のちに副社長、没)を中心に進めていた年来の計画が実現したものであったが、最初の一組が導入されたときは、三人の女性テレタイピストの登場とともに、当時、総務課内でヒラヒラする長いテープが、受信機と送信機の間に舞い、あたかも“三保の松原の天女の羽衣”のようだと形容されたが、わが社の通信網改革の“夜明け”ともいうべき時期のエピソードとして記憶されてよかろう。
 このテレタイプも、この段階では全国に七台と、当時の案内所数に比べれば、その利便性は未だ一部に限定されていたので、予約、手配業務の大半は、依然従来の方法で行なわれ、とりわけ鉄道電話が最も有効な通信手段として利用される状況であった。
 しかし、テレタイプの導入によって、一定の迅速性と正確性が確保され、また、予約、手配業務の集中と分散、つまり平準化が可能となり、業務処理の効率化に果たした役割は大きい。二十年代後半、大衆旅行時代の兆しがみえ始めたことから、予約、手配業務も単に迅速、正確性ばかりではなく、効率、大量処理の時代を迎えるであろうということを、いち早く先取りした見識と先見性のある政策判断によるものであった。

 案内資料の整備、刷新
 戦時を境に国内における交通、宿泊、観光地など旅行事情は一変した。しかも戦後しばらくは情勢も混乱し、加えて、終戦直後から開始された引揚者の輸送あっ旋、制限下の乗車券発売などに現場第一線が日夜没頭していた時期、資料について当時を知る者は、
「案内資料といえば、一、二部宛配付される出版部発行の大型時刻表、時刻改正チラシ、一枚刷主要列車時刻表それに『情報』(のちの『旅行情報』)。このほかは、先輩からの引き継ぎの戦前の資料を訂正したり、各箇所、各自ノートや裏紙を探して手製の資料を作ったりして使った。それでも中には、製本、作図、作表、ポスター描きなど、なんでも本職はだしで、結構楽しんでいた者もおり、またどこの案内所でも、必ず一人や二人、“何々の神様”といった事情通の先輩がいて、なんとかその場はしのげたものだった。それに、いま思えば、あの時代にあれほど早く、時刻表や観光図書、地図、英文の案内書などが、既に出版部で発刊されていたのには驚きもしたし、大いに助けられた」
と語っている。これは、各種の制度、規則類、運賃表なども同様で、まして観光地関係の専門的な資料は、まことに乏しい状態であった。
 二十一年六月、社内の収集方法、項目、所管箇所などを内容とする「旅行案内斡旋資料蒐集規程」が、あらためて制定され、本格的な整備が開始された。多分野にわたる情報を収集し、原稿をまとめ、資料化する業務は非常に膨大なものとなったが、万難を排して進められた。
 まず第一に着手されたのは「情報」の発行配付であった。
 旅行関係の動向を時宜適切に報道し、案内あっ旋の万全を期したこの「情報」の発行は、この二十一年に二四八回を数え、社内にとどまらず関係方面を含め好個の資料として広く活用された。二十三年には、運輸省も買上げ、主要駅に配付されることとなり、この六一四号からは「旅行情報」と改題された。
 この間、各種単行資料の作成が急ぎ進められ、二十二年には、四月以降、九州編、中部編など「旅館案内」四編、「スキー場案内」のほか、案内所実務の手引きとして「難読同一及び類似駅名一覧」「地図式鉄道料金早見表」それに「実務読本」などが配付された。
 二十三年には、「旅館案内」は関東編をもって全国を網羅し、「全国バス案内」「全国航路案内」「全国温泉地一覧」「全国貸切バス・タクシー・更生車・人力車一覧」などが加わり、また、従来種類別に発行していた資料を地区別に「観光地案内」として総合することになり、富士、日光、箱根など主要一〇地区があい次いで完成した。
 この頃には、一般観光旅行も次第に活発化し、旅行者の社に対する要求は、いっそう広汎化、多様化していった。
 このため二十五年には、多種、詳細を目的とした十和田、三浦半島、北アルプス、伊勢志摩、京都、淡路島、瀬戸内海、スキー・スケート場、東京サイクリングコースなど二〇余種にわたる「観光地図」に重点がおかれたほか「年中行事」「さくら名所」など内容・種類とももあわせていちだんと充実がはかられた。
 また、二十六年には「漁魚案内」「全国登山案内」「紅葉の名所案内」など六種、二十七年には「全国文化施設案内」「全国みやげ品案内―附、駅弁」、さらに二十八年には、一時中断あるいは不定期発行とされ、二十六年週刊として復刊をみた「旅行情報・別冊」を加え、基本的資料はほぼ完備に近い段階を迎えた。
 この間“百聞は一見に如かず”として二十六年に復活した社員の「打切出張」を通じて、優秀資料が採用されたこともあった。
 いっぽう、増大する各種資料の活用、追録、加除訂正の利便を考慮した主要資料の“ルーズリーフ”化が二十七年以降に進められ、三十一年には、従来の筆記謄写印刷からタイプ謄写印刷に改められるなど、形式、体裁の刷新がはかられ、また、二十八年からは、案内所における資料管理の適正を期した定期監査が実施される等々運営面の改善策が種々講ぜられた。
 爾来、多分野にわたる新刊、既刊内容の整備、改訂を重ね、ますます充実されていく。
 ここにいたるまでには、おおよそ一〇年の苦心の歳月を費したわけであるが、この地道な努力は、“公社の資料”として内外の高い評価を集め、今日の伝統をつくった歴史的な事業であったといえよう。
 そしてのちに五十五年十二月、任意法人として設立された「交通公社旅行情報開発センター」へと継承され発展していく。

 「変換期の宣伝活動
 戦後二十年代の宣伝活動は、主として旅行文化活動の一環として行なわれた。それは、進駐軍をはじめ外国人に対する国情文化の照会に始まり、国内に向けては、交通事情、観光地の復旧状況の周知と旅客誘致、あるいは、健全旅行の普及、交通道徳の昂揚などであった。これらが、各種の印刷物、写真、映画の作成、観光運輸関係機関との協賛による展覧会の主、共催等を通じて活発に行なわれたことは別章で述べられたとおりであり、戦前の昭和十九年設置された文化事業部(のち二十二年十月廃止)に、「報道案内」事業としてとらえられた案内資料の早期整備とともに、戦後まず課せられた使命であった。
 二十年代半ば以降、営業の伸長に伴い、社業あるいは旅館券その他取扱い品目に対する商品宣伝が開始され、変換期を迎えることとなったが、これとても、本格的に実施されたのは三十年代以降である。
 このような状況の中で、この時期特筆されるべきものに「旅の絵ごよみ」の誕生がある。

 「旅の絵ごよみ」の誕生
 一年三六五日間、日本各地の年中行事の詳細なメモを盛りこんだ「旅の絵ごよみ」を、社の宣伝ツールとしていま最も親しまれているものとしてあげることにおおかたの異論はないであろう。
 その第一号は昭和二十八年版である。
 昭和二十六年、国鉄手数料うち切りによる痛手から社もようやく立ち直りつつあり、社のイメージ確立のために、カレンダーでも作成しては、という意識が高まってきた。
 昭和二十七年、社は創業四〇周年を迎えたが、この時、黒地に“こけし”を配した“旅行と共に四〇年”という記念ポスターを作成した。そのデザインを担当したのが商業デザイナーの西島武郎である。西島は戦前満鉄に籍を置いたことがあったから、社内にも知己が多かった。その一人で、旅行部の調査宣伝課長宣伝係のポストにあった上野破魔治が、西島と組んで案出したのがこの「旅の絵ごよみ」であった。
 第一号は一万部作成した。当時、紙は統制下にあり、仕入にたいへん苦労した。
 行事についての資料集めに、当時の資料調査担当者が動員された。「旅程と費用」から克明に拾ったり、当時は少なかった年中行事についての案内書を漁ったりもした。各地の公社案内所に附近の行事の照会を行なったが回答率は五%に過ぎず、NHKに問い合わせたり、テキヤの親分に会いに行ったこともあった。現在にように、各地の観光協会や市町村役場、神社仏閣に問い合わせるしくみが確立したのは、昭和三十年版以降のことである。
 こうして誕生した「旅の絵ごよみ」は、第一号にして早くも全国カレンダー展に入賞するという大反響を呼んだ。爾来、年を追ってさらに人気が高まり、昭和四十七年版からは希望者に対する販売も開始され、現在社を代表する宣伝ツールとなっているのは周知のとおりである。七〇周年を迎えた昭和五十七年版は四二万部を作成した。
 こうした経緯のなかで、一度「旅の絵ごよみ」が廃止されそうになったことがある。昭和四十七年、第一回からちょうど二〇回を経過したのをひと区切りとして、四十八年版から「新たに従来の型式にとらわれず、より旅行に密着した新機軸を盛りこんだ内容のものに発展させたい」ということで、広報宣伝部が社内からアイデア募集を行なったことがある。結果としては、一席に対し賞金三万円が提示されたにもかかわらず、刮目すべきアイデアはまったくなく、別途社外から一五〇点のサンプルを集めたが、これまた期待に反し、「旅の絵ごよみ」が引き続き製作されることになった。
 担当箇所は、スタート時の旅行部調査宣伝課から文化課、観光課を経て改組以降は広報宣伝部宣伝課が当たってきたが、昭和五十五年十二月、宣伝課の解体に伴って、五十七年版から出版事業局開発室が製作を担務することとなった。

国鉄乗車券代売手数料停止
 戦後の混乱期を抜けだし、社業の再建もようやく軌道にのりつつあった矢先の二十四年春、運輸省から届けられたひとつの報せに、社の幹部は大きな衝撃を受けた。それは、当時の総売上の八割を占め、また、事業収入の大宗をなす国鉄乗車券に対する代売手数料の“停止”という重大なもので、しかも当時、絶対的な権力を掌握していた連合軍総司令部の強い命令によるものだという。まさに青天の霹靂、公社の命運もここに終りを告げるのではないかと思われるほどの過酷な報せであった。
 社の幹部はもちろん、運輸省幹部、関係職員一体となった必死の防戦も、ドッジ・ライン――事実このドッジ・ラインと、これに次ぐシャウプ勧告とによって、悪性インフレに悩み、危殆に瀕していた日本経済を救い、回復さらに成長へと導く端緒となったが、一企業の存立の問題を超えた国家再興、その一環としての鉄道再建という大義名分の前には
遂に力及ばず、その年の五月末日をもって手数料はうち切られた。
 二十四年五月三十一日に、運輸省営業局長薮谷虎芳と財団法人日本交通公社理事長高田寛との間に締結された契約書のわずか一行の、すなわち
 第三条 甲は、乙に対して、乙が発売した乗車券類について、発売手数料を交付しない
の文言が、社全体に大きくしかも重い十字架の如くのしかかったのである。
 社では急拠、会長を本部長とする「臨時社業再建本部」を発足させて、各般の施策の大綱を定め、これを強力に推進することとなった。
 いっぽう、この日を期して、運輸省から分離され独立採算制による公共企業体として新発足をみた日本国有鉄道との、新しい関係樹立のための両者の折衝が開始された。この折衝を通じ、それぞれの進むべき方向、そして従来一体不可分であった両者の関係を引き続きいかに発展せしめるか、その中で、国鉄は輸送機関として、社はその市中販売、案内あっ旋機関として、国鉄との緊密な連携をさらに深め、積極的に旅客誘致をはかる――という両者の基本的役割に対する認識があらためて確立された。
 また同時に、この際、改善すべき点は改善することが、むしろ社の再建、ひいては、国鉄との良好な関係発展のために有益であるという判断にたって、従来の契約関係について、多角的に種々見直しがはかられた。
 果たして、この判断の正しさは、やがて財政の再建成り、着実な自立、発展を遂げていく過程で立証されることとなった。

 国鉄との契約――とくに手数料の推移
 国鉄との間でとりあげられた問題は多面にわたるが、二十年代から三十年代前半にかけては、なんといっても手数料と納期の問題が中心であった。
 以下は、代売契約の面から、この項の主題である手数料を中心に、時を追い移り変わっていく状況である。
 国鉄との代売契約は、早くは大正時代の初めに遡る。
 大正三年に鉄道院運輸局長木下淑夫とジャパンツーリストビューロー幹事生野團六との間で締結された「契約書」の手数料はこうある。
「第三条 前条ノ報酬トシテ乗車、船券類売上代金総額(通行税ヲ除ク)ノ五分トス」
 外人旅行者が主な時代であった。
 その後、いくつかの変遷を経たが、問題の二十四年五月、手数料打ち切り前の契約書は、昭和十八年四月に締結されたもので、その、やはり同じ第三条は、
「甲ハ乙ノ発売セル乗車券類ニ対シ甲収得額ノ百分ノ五ニ相当スル額ヲ手数料トシテ乙ニ交付スルモノトスル」とある。
甲は当時の鉄道省、乙は財団法人東亜旅行社であるが、手数料五%は、その後の二十四年までを含めて三十有余年の間に、かなり定着をしていた。
 そして、前出の二十四年五月「……手数料を交付しない」契約となる。
 もっともその間に、一度だけ特殊な契約があるが基本は同じである。それは、二十一年六月「在外邦人の引揚、内地在住外国人の帰国に関する案内斡旋及び引揚者乗車票後払の団体乗車券」についての契約で、輸送あっ旋時に、引揚者の内地事情不案内のため、行先駅名を確認できず、やむを得ず、券面に「何々県何々村まで」などと表示したような状況下の便法であった。
 この契約書の手数料の条項は次のとおりである。
「第四条 乙は、甲に対し第一条により一箇月間に取扱ひたるものに対して左の各号に依り報告するものとする。
 一 在外邦人引揚 引揚者乗車票発行に依りその取扱ひたる人員
 二 外国人帰国  団体乗車券又は普通乗車券発行に依り取扱ひたる人員
 甲は乙に対し前項の報告に基き省線二八三粁分に対する三等普通旅客運賃に取扱人員を乗じたるものの百分の五に相当する額を手数料として交付する」
 つまり、人員だけをおさえておけば、一律に二八三キロの運賃で手数料を精算するというもので、引揚船入港時繁忙をきわめた発売業務もこれでいくぶん能率的になったという。
 二八三キロは、大体の平均で算出され、たとえば、函館からは札幌ぐらいまで、二十一年八月当時の運賃では二〇円となっている。

 割引制度――段階的復活
 本題に戻れば、手数料うち切り後の国鉄当局による関係機関とのねばり強い折衝、そして社幹部、関係者の復活への精力的な努力が早くも実るときが訪れる。
 朗報の第一号は、さきの停止措置から切り離し、すでに交付されていた団体取扱手数料に加え、四か月後の二十四年九月に、特別急行列車と寝台車を利用する旅客に対する乗車券、急行券、寝台券に「割引」が設定された。
 手数料制に代わるこの「割引」は、当時さかんに強調されていた旅客誘致の必要性を前面にだし、また、経理処理上の配慮等から、国鉄当局が考えに考えぬいたあげくに編みだした苦心作であった。
 この「割引」という思想は、手数料に戻った三十三年四月まで一〇年にわたり、国鉄と社との関係を律することになるが、実収の面を抜きにしても、これを足がかりに手数料復活への道を拓いた。このときの「特別急行列車及び寝台車使用旅客取扱についての契約書」第一条が「甲は、乙が受託発売する乗車券、急行券及び寝台券を甲の指示に従って予約発売するときは、乙に対して所定旅客運賃・料金(通行税を除)の五分に相当する額を割引する」。
もつ意義はきわめて大きかったといわなければなるまい。
 次いで、その翌十月には、前に述べた特急、寝台利用によるものを含めてこの年度の割引総額三〇〇〇万円という限度額は設けられたものの、社が制定した「遊覧券」旅客に対して発売する特殊委託乗車券類の割引が、旅客誘致を目的に実現した。

  全面的に復活
 翌二十五年四月には、定期券に、さらにその一〇か月後の二十六年二月には、三%ながら一般乗車券にも適用が拡大され、ここにようやく、社の生命線ともいうべき代売手数料は、形こそ違え全券種に対し復活をみることとなったのである。
 この二年ぶりの朗報に、社内が沸いたことはいうまでもない。
 二十五年度事業概要報告はその緒言の中で、喜びと抱負をこう伝えている。
「昭和二十六年三月十二日、当社創立第三九周年記念の佳き日に当り、予てより国鉄当局に懇請中の国鉄関係乗車券類の割引制度が復活した。(中略)
 この割引制度復活により、従来財源獲得をその主たる目的としていた公社らしからぬ附帯事業の整理を断行し、本来事業の拡大強化を行う一方、合理的経営をしてゆけば収支相償うべき見透しを得たことは、誠に同慶に堪えない次第である。
 この一年を省るとき、戦後の変則的経営を精算し、新しく外客誘致宣伝と旅客斡旋の本来の使命達成にスッテプアウトすべく体制を整えたといえる。かくして当社は、全く公社らしい公社として出発すべく、大なる抱負を持って昭和二十六年度を迎えたのであった。」
 また、すでに他社の台頭が目立ち、激しさを加えていた競争上裡にあって、積極的外交をうち出し自力による市場、顧客の獲得に全力をあげてとりくんでいた団体旅行部門にとっては、二十四年以来の団体募集手数料と併せて二重の励みとなり、その営業にいっそう拍車がかかることになった。

 戦前水準への復帰
 前述の全面的復活によって、一時立ち直るかにみえた社の財政も、諸種の内外要因が重なり、従来からの累積赤字の補填を含めて抜本的解決にはいたらず、再び困難な様相を呈していった。
 このため、主財源である国鉄代売手数料の戦前並み水準への早期復帰が望まれ、その後も国鉄との折衝が継続して行なわれた結果、二年後の二十八年二月にいたり、契約書第四条第二項の改訂によって、ほぼ要望が満たされることとなった。
 改訂された第四条第二項は次のとおりである。
「前項の割引額は、乙が発売した乗車券類に対する運賃、料金(連絡社線区間の運賃を除く)の五分に相当する額(団体乗車券に対しては三分に相当する額)とする。」
 しかし、このときの社会長宛書面が、改訂案の通告に続けて「……なお、将来経営上の不足財源を手数料の引上げに依存することのないよう、積極的に収入の増加をはかると共に、経営の合理化については一層これを推進するよう配慮願います」と付記していたのが、きわめて特徴的であった。
 この書面の発信者である国鉄営業局長は、津田弘孝(現、会長)であった。
 爾来、この手数料は、数次の契約更改の過程で、団体券、定期券に対する減率改訂が行なわれ、少なからぬ影響を被ったが、途中、三十三年の「手数料」呼称復活をはさみ、三十年代前半までを通して基本率において概ね安定し、その間納期問題に焦点が移されていった。

納期問題と監査条項
納期短縮

 戦後の納期問題の起こりは、二十五年六月に求められるが、二十九年九月四日、国鉄営業局長唐澤勲と社会長高田寛との間に締結された「旅客運送に関する業務の一部を委託する契約書」、同「付属覚書」により、本格的に提起された納期の問題によって、社財政の健全化に向って、またひとつ、新たな一歩をふみだすこととなった。
 従前の契約では、「指定した期限までに納入する」という、いわば運用に任された状態で、このため種々弊害も生じたのである。
 二十五年六月、まず示された期日が、一か月分を翌月末日に、というもので、そのうち東鉄管内は、二十六年三月まで猶予期間をおき、とりあえず「翌々月末日」とし、その後は他の管内と同様の期日に短縮する計画であった。
 この東鉄管内の納期は、猶予期限の二十六年三月を過ぎても短縮されない状態のまま、ようやく二十八年に入って段階的に実施され、その年の九月分から他管内並みの翌月末日納入となった。
 また、この頃から、国鉄へ納入前の代売金に対する利子の帰属先について問題がおき、このため、当社代売行為、代売金およびその利子の法的性格等について盛んに論議され、結局は一般の委託の例に従うことで従来のままとなり、この後の契約書上は「支払金」という表現に落ちついた。このあたりの事情について、当時、国鉄の営業局職員として立案にあたった横関徹(現、鉄道旅客協会専務理事)は、「二十四年の『割引』(前出)のときもそうであったが、この『支払金』も、公用語や専門語にも適当なものが見当たらず、いっぽうでは、その性格についていろいろ論議もあることで、ごく一般的な言葉を使うことになった」と、一字一句にも当時のむずかしい情勢を反映した立案当事者としての細心の苦労があったことを述懐している。

契約の全文改訂――監査条項強化
 二十九年九月締結の契約は、こういった状況をふまえ「前文改訂」となったが、代売金の納期を第八条に、
 一. 当月分支払金概算額の五割相当額以上において甲の指定する額に相当する金銭を
   翌月十五日まで。
 二. 当月分支払金の精算額から前号の支払額を控除した残額に相当する金銭を翌月末日
   まで。
と明示すると同時に、以後、三十五年度以降の日納をめざして短縮計画をたてること、代売金を「特別預金」として、引き出しその他に際し国鉄の事前承認をうけること、新たな投資、融資等にあたっては承認が必要なことなどが盛りこまれた。
 加えて、この契約にはもうひとつ重大な条項が含まれていた。いわゆる「監査条項」である。
 すなわち、暫時財政内容が改善されるまで「執務時間中、いつでもその関係係員を案内所等に派遣し、発売業務及び案内業務に関し監査することができる」(第十二条)、「経営および財務全般にわたり監査することができる」(第十七条)として付属文書の第三項は
◯各期財務諸表
◯随時履行条項が適正に履行されているか否か
◯随時事業経営資金が適正に運用されているか否か
◯経理の改善方法を実施しているか
などを監査する旨を規定し、また第一項は「随時経営方法に関する指示を行ない、又は経営改善についての要求を行なう」と規定するなど、国鉄販売金債権保全のためにとどまらず、一般的な業務監査から財務、資金、経営再建にいたる社の経営中枢全般に対し、強力な監査、指導を行なうというものであった。
 しかしこれは当時の社の窮状をみ、一日も早い立ち直りを願った“愛の鞭”であったのである。
 納期については、翌三十年四月、前月分の三分の一をそれぞれ翌月十三日と二十三日、その残額を翌月末日と短縮されると同時に回数も三回となり、その後も逐年短縮がはかられていった。
 三十五年四月には、概算額による翌月日納、そのうち団体券については翌日日納と所期の短縮計画をほぼ達成し、さらに三十六年四月、一五日おくれの日納に、そして、株式会社に改組の三十八年十二月には、契約更改の中で翌旬納入にまで短縮した。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー