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POSTSCRIPT拾遺記

VOL.1
岩本 実さん

重ね地図東京マッカーサーの時代編」の執筆陣が、それぞれのテーマに関して、紙幅の関係で書ききれなかったことや書き洩らしたことなどを、改めて記載するコーナーです。

第1回 岩本実さん(現在フリージャーナリスト、元毎日新聞記者)
「占領期に風雲児・安藤明、花形敬なかりせば」

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「世の中のヤツらは俺たちのことをヤクザヤクザというけれども、
ヤクザがいなかったら日本はとっくになくなっていた。
戦後の日本は俺たちヤクザのおかげで成り立っているってことを
忘れないで欲しい」という捨て台詞のような言葉だ。

 

占領期に活躍したというか、暗躍した人で、記録からは忘れ去られているようだが、記憶に残る人たちについて、ここで述べておきたい。当時の大阪警察部長(現大阪府警本部長)の証言では、「不法占拠した第三国人の中には台湾人、中国人が多く、彼等は立退き料を要求されると、逆に法外な料金を請求し、なかにはこうした行為を繰返して財を成した者もある」という。筆者は、当時、大学に入ったばかりだったが、渋谷にはエリ章を外した将校服姿の若者や特攻服姿の“予科練くずれ”がウヨウヨしていた。後に渋谷で有名になったインテリヤクザの法大生安藤昇やその子分の花形敬、愚連隊第一号の万年東一らもいた(なお、万年については、本人著の『実録・やくざ流転 関東喧嘩無頼』<徳間書店>、『人斬り懺悔』<同>と宮崎学著『不逞者』<幻冬舎アウトロー文庫>などがある)。こうしたヤミ市が有名になるのは1947、48年頃からで、戦後の日本を大きく変えたのもこのヤミ市だといっても決して過言ではなかろう。
安藤や万年たちがいつもつぶやいていた言葉が忘れられない。それは、「世の中のヤツらは俺たちのことをヤクザヤクザというけれども、ヤクザがいなかったら日本はとっくになくなっていた。戦後の日本は俺たちヤクザのおかげで成り立っているってことを忘れないで欲しい」という捨て台詞のような言葉だ。安藤や万年たちがいう「戦後の日本を救ったのは実は俺たちだ……」という言葉の奥には、実はこんなことがあったのである。
 1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏した。この時、日本軍の降伏を承服しない海軍航空隊の一部が「徹底抗戦」を叫んで厚木海空隊の基地に残っていたゼロ戦や銀河、彗星といった航空機の機体の一部を滑空路に並べ、8月30日にフィリピンから厚木基地にもしマッカーサーが降り立ったら一斉にこれらを爆破して彼を死に至らしめ、戦争を継続しようと画策していたのである。このことをいち早く知った同航空隊の幹部は、グテグテに酒に酔った小薗安名司令官(大佐)を軟禁、米内光政海軍大臣を通じて秘かに配布されていた児玉機関(児玉誉士夫代表)を通じての500万円(現在の50億円)で大安組を買収、安藤明や万年東一らを動員して一夜のうちに滑走路を確保、マッカーサーらを無事に厚木基地に上陸させたのだった。戦後の今日に至るもこのことは当時の一部の人間のみの知る秘話としてついに語られることは少なかったが、大安組の社長、安藤明らによってこのことは『わが生命天皇に捧ぐ』の公刊で明らかになり、わずかに山口県出身の政治家、佐藤栄作(元首相)によって顕彰された。渋谷駅前のヤミ市から発展した渋谷の戦後秘話の中には、安藤や万年たちのこうした自負が大きく関わっていたのである。
 また、この安藤明については、取材力に定評のある梶山季之は、『小説GHQ』で、「厚木―横浜、横浜―東京間の電話は、いちばん早く復旧されたが、この工事を請け負ったのは、のちにマーク・ゲインから<ギャング>ときめつけられた大安組の安藤明である。安藤は、焼け野原を掘り起こして、地下ケーブルを取り出し、これで電話を敷設していったのであった」と書いている。
そして、築地郵便局裏にある静かな通りに面した「分けとんぼ」という300坪ほどの料亭を私財を投じて買い取り、GHQ用社交場「大安クラブ」を開き、アメリカ高官たちを接待、GHQに食い込んでいくのである。その経緯については、息子の安藤眞吾がブログ(andoshingo23.blog.fc2.com)でレポートしているが、梶山もこう書く。
「かつての築地の<分とんぼ>という待合を、安藤という土建屋が買いとり、アメリカ式のクラブに仕立てて、GHQの要人を接待しようというものらしかった。……ここに行けば、GHQの将校はロハで、たらふく酒が飲めたうえに、女を抱いたり、高価な土産物まで貰えるということだった」。しかし、GHQのホイットニーに天皇戦犯論撤回などを陳情したが、46年6月贈賄容疑でGHQに逮捕され、禁固6カ月、罰金刑の判決を受けている。
 このようにGHQを向こうに回して、清廉はともかく、暗躍した人物がいたことを忘れてはならないだろう。

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厚木基地に降り立ったマッカーサー元帥
1945年8月30日14:05

 もう一人の安藤昇はインテリヤクザの代表として当時の学生たちの間で評判を集めていたが、その安藤が最も可愛がっていたのは、前科7犯で22回の逮捕歴を持つ男、花形敬であった。彼は滅法ケンカに強い男で、ステゴロといわれ、一切ケンカに武器を使わない主義だが、その強さには、鹿島神流の師範代森田雅や住吉会内石井会会長の石井福造らも舌を巻いていたほどだったという。花形は30年生まれで、千歳中学を自主退学後、私立国士舘中学に移籍、住吉一家の石井会長石井福造と番長を演じたほどで、退学後は一時、明大予科でラクビーをやったこともあったという。安藤によると、その花形が男を上げたのは、プロレスラーの力道山が渋谷に出店したキャバレー純情の用心棒を気取り安藤組へのあいさつを欠いたさい、力道山の店に押しかけ一喝したとされる。ただこの時点では、花形は一切関わっていないとの話もあるし、花形自身は何も語っていない以上、何が真実かいまだに不明だ。
 花形は一時、安藤組の組長代理をつとめたことがあり、彼をモデルにした映画やマンガは実にたくさんつくられている。花形は戦国乱世の英雄「武田信玄」の家来武田二十四将の一人、花形氏の末裔で、東京世田谷区経堂近くの千歳船橋の実家には敷地が2キロ近くもあり、2つの駅を結ぶほどだったという。その花形が死んだのは、63年9月で、神奈川県川崎市二子の料亭「仙貴」の前の路上で東声会の会員二人に刺殺された。このことは花形の妻からその日のうちに電話で東声会の安藤昇会長に伝えられた。花形の通夜は経堂の自宅で行われたが、この時、母親からの切なる願いで安藤組組員による復讐は思い止められたという。花形の墓は東京・世田谷の常徳院、万年の墓は幡ヶ谷 (渋谷区)清岸寺にある。なお、花形については、本田靖春著『疵――花形敬とその時代』(ちくま文庫)に詳しい。

プロフィール:岩本 実(いわもと みのる)
略歴:1937年東京生まれ。
現在フリージャーナリスト、
元毎日新聞記者。