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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第24回
「東京都練馬区光が丘」
(かつてのグラントハイツ)

地方占領期調査報告第24回「東京都練馬区光が丘」(かつてのグラントハイツ)

   今回は、東京都練馬区の公式ホームページから、「練馬の地名 今むかし(光が丘)」を紹介します。米軍宿舎のグラントハイツの、接収から返還までの物語が語られています。

光が丘(ひかりがおか)

光が丘の位置

返還後のグラントハイツ(昭和49年(1974年))

 昭和18年、戦局は日ごとに激しさを増し、陸軍は首都防衛のため、飛行場の建設を急いでいた。白羽の矢は、ここ練馬の一角に当たった。土支田、田柄、高松3か町にまたがる広大な土地である。そこは、まだ町とは名ばかり、田柄たんぼや、練馬大根に謳われた静かで平和な農村であった。多くの農家が立ち退き、肥沃な田畑は成増飛行場と名前を変えた。
 東京は丸焼けとなって、戦争は終わった。飛行場は”つわもの共の夢の跡”となってしまった。
 昭和22年、練馬区が独立した。時を同じくして、飛行場跡に米軍宿舎が建設されることとなり、施設はグラントハイツと呼ばれた。明治12年(1879年)に来日したこともあるアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍にちなんでの命名である。
 それから10年余、施設の内容はだんだん縮小され、遊休化していった。昭和35年ごろから土地返還運動が起こった。23区内に残された唯一最大の空閑地である。返還の展望が開けた44年、区域全体に「光が丘」の町名を住居表示した。緑と太陽のまち練馬を象徴して名付けられた。
 48年、区民一丸になっての運動がみのり、念願の全面返還が成った。グラントハイツ跡地計画には、住宅建設者から2万3千戸の建設が提案されたが、緑を多く確保するため、練馬区は1万2千戸を提案した。52年、練馬区案で合意され、平成4年に光が丘団地は完成した。
 日比谷公園の約4倍になる光が丘公園は、一部が56年末に開園した。58年3月、1~7丁目の住居表示が、全街区にわたって実施された。
「ねりま区報 昭和60年2月11日」掲載

 続いて、ウィキペディアの、「グラントハイツ」の沿革をここで引用しておきます。

1940年代
1945年(昭和20年)
8月 – 太平洋戦争敗戦により、成増飛行場が連合国に接収される。
8月24日 – 米軍が視察し、連合国軍第2230部隊が駐留する。
10月30日 – 成増飛行場が、米軍に移管される。
1946年(昭和21年)
食糧難に苦しむ付近住民が、旧飛行場の東西滑走路の開墾を申し出て、当面の許可が出たため、麦などを植えた。(翌年、開発が始まり、収穫前に畑は道路などになる)
3月25日 – 東武啓志線が全線開通。啓志駅ができる。
1947年(昭和22年)
3月3日 – 連合国軍が、成増飛行場跡地をグラントハイツと改称する。
4月5日 – アメリカ陸軍航空軍の家族宿舎を建設着工。
米軍から要請を受けた東京都が「成増建設事務所」を設け、全国の大小建設会社80社、のべ280万人の労働者、70万袋のセメントを投入した。
6月 – 啓志駅をグラントハイツ駅へ改称。
9月18日 – アメリカ空軍省設立に伴い、アメリカ空軍第34空軍の家族宿舎となる。
1948年(昭和23年) 6月 – 家族宿舎が完成する。

1950年代
1952年(昭和27年)
7月26日 – 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定第2条により、旧JPNR22の施設について、米軍施設名「グランド・ハイツ住宅地区」(FAC(施設)番号3006)として、練馬区土支田町、高松町、田柄町、春日町、旭町の一部が、米軍無期限使用施設に指定される。
9月1日 – 区長選任制が導入され、練馬区長が不在となる。
この間、練馬区長が長期不在となり、グラントハイツ返還について、棚上げとなる。
1954年(昭和29年) 3月11日 – 一部建物を接収解除とする。
1955年(昭和30年)
3月29日 – 建物その他各種設備が、追加接収される。
4月8日 – 一部土地を接収解除とする。
1956年(昭和31年)
3月31日 – 一部建物を接収解除とする。
11月9日 – 練馬区議会、区長に須田操・前区長を選任。
1957年(昭和32年) 2月12日 – 建物その他各種設備が、追加接収される。
1958年(昭和33年)
2月11日 – 一部建物を接収解除とする。
4月1日 – 機械器具が、追加接収される。
7月1日 – アメリカ第5空軍が、アメリカ陸軍から管理を引き継ぐ。
9月26日 – 狩野川台風により田柄用水があふれ浸水被害。
1959年(昭和34年)
6月30日 – 谷原町の一部を、追加接収する。
7月22日 – 東武啓志線が廃線。
11月30日 – 一部土地を接収解除とする。

1960年代
1961年(昭和36年) 4月19日 – 日米政府間協定上の米軍施設名が「グラント・ハイツ住宅地区」に改まる。
1962年(昭和37年)
4月10日 – 一部土地、建物を接収解除とする。
5月9日 – 一部土地、建物を接収解除とする
5月30日 – 一部土地、建物を接収解除とする
1963年(昭和38年) 3月11日 – 民有地の一部を接収解除とする。
1964年(昭和39年)
3月3日 – 建物の一部を接収解除とする。
4月30日 – 建物の一部を接収解除とする。
5月25日 – 土地の一部を接収解除とする。
12月18日 – 練馬区長(須田操)が、東京都知事(東龍太郎)にグラントハイツ開放を要請。
1965年(昭和40年)
4月20日 – 建物の一部を接収解除とする。
9月30日 – 国有物を、追加接収する。
1966年(昭和41年)
2月28日 – 建物の一部を接収解除とする。
4月10日 – 建物の一部を接収解除とする。
11月30日 – 建物の一部を接収解除とする。
1968年(昭和43年)
6月3日 – 第58回国会参議院本会議にて「練馬グランドハイツ汚水処理場(東京都練馬区)改善に関する請願」が、産業公害及び交通対策特別委員会決定の通り、異議なしで採択された。
12月6日 – アメリカ軍が、代替地の提供を条件として、返還する意思を表明。
1969年(昭和44年)
8月14日 – 国有物(在日相互防衛援助事務所(旧米軍軍事援助顧問団)が使用していた睦台アパート)を、追加接収する。
8月27日 – 防衛庁長官(有田喜一)が、グラントハイツを視察し、返還につき米軍と話し合いが付いた旨を表明。
9月1日 – 田柄町1丁目、田柄町2丁目、高松町1丁目の一部、高松町2丁目の一部、旭町の一部をもって、光が丘とする住居表示を施行。

1970年代
1971年(昭和46年) 8月1日 – 外務省にて日米安全保障協議委員会が開かれ、1974年3月を期限として、全面返還を合意。
1972年(昭和47年)
敷地の半分を公園、半分を団地などの住宅地にする跡地の再開発計画の策定
7月31日 – 土地建物の一部を接収解除とする。
1973年(昭和48年)
7月18日 – 土地建物の一部を接収解除とする。
9月30日 – 全部返還となる。